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2021年11月15日 (月)

阿蘇のピンク石

九州産の「阿蘇のピンク石」と呼ばれる石がある。

この石を「お棺」として近畿地方の人たちも使っているところから,

九州と近畿の関係を表しているのではないかとする人がいる。(九州>近畿)

近畿にも「お棺」の石の産地はあるわけだから,

わざわざ何百キロの距離を運んでくるには何らかの理由があるはずだ。

ウィキペディアで「阿蘇のピンク石」と検索すると,

結構詳しい説明が書かれていた。リンクしよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【阿蘇のピンク石】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF%E7%9F%B3

東乗鞍古墳(奈良県天理市)の石室と阿蘇ピンク石石棺

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 阿蘇石(馬門石)で作られた石棺が最初に使われたのは5世紀中頃の宇土半島の古墳から。この様式がやがて5世紀終わりには吉備に、そして畿内に広がったという。
 方位の考古学で年代を動かせれば、
1:4世紀中頃 宇土半島で馬門石を使った石棺が初めて使われる。
2:4世紀末に 吉備でも同様なものが使われる、やがて畿内にもひろがる。
 となる。

 通常葬送に関わる習慣は変わるものではないから、上の現象は、宇土地方にいた豪族が、吉備・畿内にも広がってその地で故郷の習慣をそのまま持ちづづけたと考えます。
 馬門石の中のピンク色のものは、畿内と吉備しかないということは、阿蘇ピンク石を使った石棺をもつ古墳の主は、元々は宇土地方出身の豪族と考えるしかないです。

 なのに通説はこれをもって宇土地方の阿蘇ピンク石の仕様を大和政権が独占したと解釈する。

 九州王朝説に立つ肥沼さんはどう解釈するのですか?

 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  馬門石の中のピンク色のものは、畿内と吉備しかないということは、阿蘇ピンク石を使った石棺をもつ古墳の主は、元々は宇土地方出身の豪族と考えるしかないです。

明治維新で主導権を握った薩長が府知事・県令を各地に派遣したように,
九州王朝の「筑後時代の本拠地」から瀬戸内海各地へ首長が派遣されたとか・・・。
(4世紀中頃~というのは,その象徴ではないでしょうか)
その後「筑前時代の本拠地」からは国府・国府寺の時代となるので,形式も舟形石棺から家形石棺へと変化する。

肥沼さんへ

>明治維新で主権を握った薩長が府知事・県令を各地に派遣したように,
九州王朝の「筑後時代の本拠地」から瀬戸内海各地へ首長が派遣されたとか・・・。
(4世紀中頃~というのは,その象徴ではないでしょうか)

 はい。その可能性が高いと思います。
 ウィキペディアが示していた研究の中に宇土半島を支配していた豪族が「額田部君」という指摘がありました。
 額田部とは王族の名を付けた「名代」で、全国各地に置かれてそれぞれの産物を中央に送ったもの。この額田部が全国に置かれたときに、それを管理する役人として、宇土半島を支配していた額田部君の一族が全国に派遣されたのかもしれませんね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  はい。その可能性が高いと思います。
 ウィキペディアが示していた研究の中に宇土半島を支配していた豪族が「額田部君」という指摘がありました。
 額田部とは王族の名を付けた「名代」で、全国各地に置かれてそれぞれの産物を中央に送ったもの。この額田部が全国に置かれたときに、それを管理する役人として、宇土半島を支配していた額田部君の一族が全国に派遣されたのかもしれませんね。

おお,ストライクゾーンでしたか。
大暴投だったらどうしようと思いましたが・・・。
古代も今も,人のやることに大きな違いはないということでしょう。

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