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2021年11月19日 (金)

遠藤周作氏の略年譜

遠藤周作氏に『海と毒薬』という作品があることは知っていた。

また,後半生「狐狸庵」を自称し,ユーモアあふれる作品を残したことも。

最近瀬戸内寂聴さんが99歳亡くなったが,たまたま彼女のCDに遠藤さんを語っているものがあり,

また「まこママ」が『海と毒薬』『沈黙』を貸して下さったことから,年表を書いてみたいと思った。

しかし,すでに「ウィキペディア・遠藤周作」に略年譜があることが分かったので,

それに少し加筆することでアップしようと思う。(加筆のものは,※をつけておく)

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【略年譜】

  • 1923年(大正12年)
3月27日 - 東京巣鴨に生まれる。 ※瀬戸内寂聴さんは,その前年に生まれた。後年からかって「お姉様」と呼んだという。巣鴨は,現・仮説社の場所。
  • 1926年(大正15年・昭和元年)
父の転勤により、満洲関東州、大連に移る。 ※大学の担当の清岡卓之先生が,『アカシアの大連』を書かれていたと記憶している。
  • 1929年(昭和4年)
大連市の大広場小学校に入学。
  • 1933年(昭和8年)
父母の離婚により母に連れられて兄とともに日本に帰国し神戸市の六甲小学校に転校する。 ※遠藤氏が10歳の頃。
  • 1935年(昭和10年)
私立灘中学校に入学。
4月 - 母は宝塚市の小林聖心女子学院の音楽教師になり5月29日受洗。 ※私の母も洗礼を受けてキリスト教徒だった。
6月 - 周作も兄とともに西宮市夙川カトリック教会で受洗。洗礼名ポール。
  • 1940年(昭和15年)
灘中学校卒業。
  • 1941年(昭和16年)
4月 - 上智大学予科甲類に入学し籍を置くが、なお旧制高校をめざして受験勉強を続ける。
  • 1942年(昭和17年)
2月 - 上智大学予科を退学。旧制高校受験の失敗が続くが、母の経済的負担を考え、経堂の父の家に移る。
  • 1943年(昭和18年)
- 慶應義塾大学文学部予科に入学。しかし父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、父の家を出てアルバイト生活を続ける。友人宅にころがりこんだ後、学生寮に入る。
  • 1945年(昭和20年)
慶應義塾大学文学部仏文科に進学。 ※遠藤氏が22歳の頃。
  • 1946年(昭和21年)
父の家に戻る。
  • 1947年(昭和22年)
12月 - 処女評論『神々と神と』が神西清に認められ、『四季』第5号(角川書店)に掲載。 ※遠藤氏が24歳の頃。
  • 1948年(昭和23年)
3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。松竹大船撮影所の助監督採用試験に失敗。
  • 1949年(昭和24年)
6月 - 鎌倉文庫嘱託になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく倒産。カトリック・ダイジェスト社で働く。三田文学同人になる。
  • 1950年(昭和25年)
6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。 ※遠藤氏が27歳の頃。
10月 - リヨン大学に入学。
  • 1951年(昭和26年)
夏 - モーリヤックの『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行。
  • 1953年(昭和28年)
パリに移る。体調を崩し入院。
2月 - 帰国。 ※遠藤氏が30歳の頃。
7月 - 『フランスの大学生』を早川書房より刊行。
12月 - 母郁死去。
  • 1954年(昭和29年)
4月 - 文化学院の講師を務める。安岡章太郎の紹介で構想の会に参加し、知己を広げる。奥野健男の紹介で現代評論に参加し、6・12月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。
11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。
  • 1955年(昭和30年)
7月 - 『白い人』で第33回芥川賞を受賞。 ※遠藤氏が32歳残の頃。
9月 - 岡田幸三郎の長女、順子と結婚。父の家で短期間同居の後、世田谷区松原に転居。 ※遠藤氏が32歳の頃。
  • 1956年(昭和31年)
6月 - 長男龍之介誕生。上智大学文学部の講師を務める。
  • 1958年(昭和33年)
10月 - アジア・アフリカ作家会議に参加。 ※肥さん,この年の8月に誕生。(笑)
12月 - 『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞。 ※遠藤氏が35歳の頃。
  • 1959年(昭和34年)
11月 - マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。
  • 1960年(昭和35年)
4月 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。年末に慶應義塾大学病院に転院。
  • 1961年(昭和36年)
1月 - 3回にわたり肺の手術を行なう。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。
  • 1962年(昭和37年)
- 5月、退院。
  • 1963年(昭和38年)
3月 - 町田市玉川学園に転居。新居を「狐狸庵」と名付け、以降「狐狸庵山人」という雅号を使い始める。 ※遠藤氏が40歳の頃。瀬戸内寂聴さんと知り合う。
  • 1965年(昭和40年)
- 新潮社の書き下ろし小説『沈黙』制作のための下調べ/取材で、三浦朱門とともに長崎・平戸を数回旅行。
  • 1966年(昭和41年)
3月 - 『沈黙』を刊行。 ※遠藤氏が43歳の頃。
成城大学の講師を務める( - 1969年)
5月 - 劇団雲で戯曲『黄金の国』(演出:芥川比呂志)初演。
10月、『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞を受賞。
  • 1967年(昭和42年)
8月、ポルトガル大使アルマンド・マルチンスの招待を受け、アウブフェーラで行われた聖ヴィンセントの300年祭で記念講演。その後、リスボン、パリ、ローマを廻り、9月に帰国。
  • 1968年(昭和43年)
- 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。
4月 - 劇団「樹座」を立ち上げ、紀伊國屋ホールウィリアム・シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を上演。 ※遠藤氏が45歳の頃。
  • 1969年(昭和44年)
1月 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、イスラエルに旅行し、2月に帰国。
4月 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。
  • 1970年(昭和45年)
4月 - 矢代静一阪田寛夫井上洋治とともにイスラエルに旅行し、5月に帰国。
  • 1971年(昭和46年)
11月 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。その後、ベナレスイスタンブール、ストックホルム、パリを廻り、同月帰国。ローマ法皇庁からシルベストリー勲章を受ける。
  • 1972年(昭和47年)
3月 - ローマ法王謁見のため、三浦朱門曽野綾子とともにローマを旅行。その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。
5月 - 中央教育審議会の委員を引き受ける[15]
10月 - 日本文芸家協会常任理事に就任。遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。この年には『海と毒薬』がイギリスで、『沈黙』がオランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、フランス、ポーランドで翻訳出版された。
  • 1973年(昭和48年)
3月 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドン、パリ、ミラノ、スペイン(アンダルシア州)を廻り、4月に帰国。
  • 1974年(昭和49年)
5月 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。
10月 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。
  • 1975年(昭和50年)
- 2月、北杜夫、阿川弘之とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。
  • 1976年(昭和51年)
1月 - 面白半分の編集長に就任( - 6月)。 ※遠藤氏が52歳の頃。
6月 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材で大韓民国へ旅行し、豊浦釜山熊川慶州蔚山を廻り、同月帰国。9月にはジャパン・ソサエティの招待を受け、アメリカに旅行。ニューヨーク]講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。
12月 - ピエトゥシャック賞を受賞。授賞式参加のため、ポーランドワルシャワに旅行、その後アウシュヴィッツを見学し、同月に帰国。
  • 1977年(昭和52年)
1月 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。 ※遠藤氏が54歳の頃。
5月 - 兄死去。
  • 1978年(昭和53年) ※54歳の頃。
6月 - 『イエスの生涯』で国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。
  • 1979年(昭和54年)
2月 - 『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞を受賞。『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。
3月 - 中華人民共和国に旅行。46年ぶりに幼少時代の想い出の地大連を訪れる。同月帰国。
4月 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。日本芸術院賞を受賞[16]
  • 1980年(昭和55年)
5月 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。『侍』で第33回野間文芸賞を受賞。
  • 1981年(昭和56年) - 日本芸術院会員になる。
  • 1985年(昭和60年)
4月 - イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅行し、同月に帰国。ロンドンのホテルでグレアム・グリーンと鉢合わせし、文学論を交わした。
6月 - 日本ペンクラブ第10代会長に就任( - 1989年)。サンタクララ大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、カリフォルニア大学ジャック=マリタン・アンド・トーマス=モア研究所で講演を行ない、同月に帰国。
  • 1986年(昭和61年)
2月 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。劇団「樹座」のロンドン公演。ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。
11月 - 台湾の輔仁大学の招待を受け、台湾に旅行。「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。
  • 1987年(昭和62年)
5月 - ジョージタウン大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行し、同月帰国。
10月 - 韓国文化院の招待を受け、大韓民国に旅行し、同月帰国。尹興吉との知遇を得る。
  • 1988年(昭和63年)
4月 - 夫人を同伴してロンドンに旅行し、同月帰国。
8月 - 国際ペンクラブのソウル大会出席のため、大韓民国に旅行し、翌月帰国。文化功労者に選出される。
  • 1989年(昭和64年・平成元年)
12月 - 父常久死去。
  • 1990年(平成2年)
2月 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。
7月 - 仕事場を上大崎に移す。
10月 - アメリカのキャンピオン賞を受賞。
  • 1991年(平成3年)
1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。
5月 - ジョン・キャロル大学英語版の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、マーティン・スコセッシと『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。
12月 - 輔仁大学の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。
  • 1993年(平成5年)
5月 - 腹膜透析の手術を行う。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。以後、入退院を繰り返すことになる。 ※遠藤氏が70歳の頃。
  • 1995年(平成7年)
9月 - 脳内出血で順天堂大学病院に入院。
11月 - 文化勲章受章。
12月 - 退院。
  • 1996年(平成8年)
4月 - 腎臓病治療のため、慶應義塾大学病院に入院。
9月29日 - 午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。 ※享年73歳。

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文学界の高い評価を受けつつも,後半生は病気との戦いの日々だったようだ。

当然命と向き合わざるを得なかっただろう。

この略年譜には年齢が付いていなかったので,私が書くことになったが,

作業したことで遠藤氏に関われた気が少しだけした。

この略年譜には年齢が付いていなかったので,私が書くことになったが,

作業したことで遠藤氏に関われた気が少しだけした。

遠藤周作の未発表小説見つかる 死去後初の純文学作品:朝日新聞 ...の画像

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