上野三碑をめぐって
群馬県にある古代の石碑を上野三碑といいます。
ONライン(7世紀と8世紀の境)の頃建てられたので,
九州王朝と近畿王朝のことが記録されているのではないかと気になります。
関東地方は九州王朝の「直轄地」だったようなので,東山道で結ばれているし,
漢文を使用できる人も多かったのでしょう。
右側が➀「山上(やまのうえ)碑」(681年),真ん中が➁「多胡碑」(711年),左側が➂金井沢碑」(726年)です。
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➀・・・供養碑と言われていて,「飛鳥時代の681年(九州年号の白鳳21年)に建てられたもので、完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑です。 放光寺[ほうこうじ]の長利[ちょうり]という名の僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が記されている」そうです。放光寺は,山王廃寺のこととも言われています。
➁・・・建郡碑と言われていて,郡を置いた由来が書いてあるらしいのですが,「「建評碑」の表面を削って掘り直した」という説を聞いたことがあります。砂岩らしいので,削るのは楽ですが・・・。
➂・・・追善供養碑と言われていて,「奈良時代前半の726(神亀[じんき]3)年に三家氏[みやけし]を名乗る豪族が、先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑です。 女性が結婚後も実家の氏の名で呼ばれていること、子供達と共に実家の祖先祭祀に参加していることがわかり、家族のつながりに女性が大きな役割を果たしていた」と考えられるそうです。
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