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2021年10月14日 (木)

これまでの「八角形」の遺跡の集計(改訂版)

これまで「夢ブログ」に登場した「八角形」の遺跡の集計をしてみる。

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【古墳】

茨城 ●

群馬 ●●●

埼玉 ●●(熊谷市籠原裏古墳群 1号墳と10号墳

東京 ●

山梨 ●(中部地方で唯一) 

京都 ●●(天智陵とされるもの)(亀岡市千歳町の国分古墳群

奈良 ●●●●●●(天武・持統陵とされるものを含む)

鳥取 ●●(梶山古墳 )(福本70号墳

広島 ●

 

【建物編】

群馬 ●(上野国佐位郡正倉跡の八角建物)

神奈川 ●(寺尾台八角堂)

大阪 ●(難波宮八角形望楼)

奈良 ●●●(法隆寺夢殿)(興福寺北円堂)(栄山寺八角堂)

熊本 ●(鞠智城八角建物)

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福岡県がまったく出ていないのは,太宰府の発掘が進んでいないからか。

 

奈良・中尾山古墳、被葬者が文武天皇と確定的に 八角形墳と確認、全容 ...

栄山寺の八角堂

Eisanji hakkakudou.JPG

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 古墳と建物を合わせて集計するのですね。
 それなら二つ忘れている。
 それは、前期難波宮の二つの八角形望楼。 と 法隆寺東院の夢殿。これも奈良時代の八角堂だ。

 あと私の近所にも奈良時代の八角堂がありますよ。寺尾台八角堂。 
https://blog.goo.ne.jp/kurihira201/e/c182e583cab3a00e5692bf3b9b78d687

 でも建物と墓は別に集計したほうが良いと思う。奈良時代や平安時代の八角堂はまだたくさんあると思う。

>むしろ九州王朝が各地の大王等(九州王朝の天皇より下の身分)に,
「八角形」を作ることを許可したとみるのが自然ではないでしょうか。
それゆえ,九州には八角形は出現しない。いかがですか?
それとも,「今後,奈良からたくさん発見される!」と信じるか・・・。

 一か所重大な間違いが。 奈良から⇒九州から でしょ。

 天皇より下の身分の各地の大王に八角形の建物や墓を作ることを許可?
 じゃあ九州王朝はどんな建物や墓を作ったの? 天皇でしょ。最も崇高な地位。
 肥さんの説はおかしい。

 九州王朝の首都で確認できているのは太宰府だけ。それも全体は掘られていない。他は未確認。
 そして九州王朝の天皇の墓も未確認。
 そもそもこの地域に日本の至高の地位にいた人の墓や宮殿があったという想定で発掘調査していないのだから、そして発掘された遺跡の多くは、都市開発や工場建設や高速道路建設などで偶然出てくるのであって、九州は博多周辺以外はまだまだ開発が進んでいなので、今後も出てきますよ。
 「日本のまほろば」とか言って意図的に発掘調査が進められた飛鳥や奈良とは異なるのです。

 

追伸
>むしろ九州王朝が各地の大王等(九州王朝の天皇より下の身分)に,「八角形」を作ることを許可したそれゆえ,九州には八角形は出現しない。

 こう判断すると矛盾が生じますね。
 鞠智城は筑後と肥後の国境の肥後側。明らかに九州王朝の畿内です。作ったのは九州王朝。
 そして上野国佐位郡正倉は、関東は九州王朝直轄領の可能性が高い。
 両者の建物は九州王朝の物。

 これをどう説明しますか?

 九州で八角形建物と八角形古墳が見つかっていないのは、これが存在しないのではなくまだ見つかっていないと判断すべきです。
 何しろ太宰府すらまだ完全に発掘されていない。
 例の大極殿と朝堂院の北側に「内裏」地名が残っているのですが、ここはまったく掘られていない。そしてこの内裏と大極殿などの政治施設を繋ぐであろう中庭と門が大極殿の北側に確認されています。
 ここを掘れば九州王朝天皇の内裏、おそらく書紀で「味経宮」とされた宮殿群が出て来るでしょう。
 ここには可能性として八角形建物があったかも。

 例の法隆寺東院の夢殿ですが、これも九州王朝の建物を移築した可能性あり。
 そこに納められている観音像はタリシホコ=上宮王の似姿の可能性あり。そうなら入れ物と仏像も、もともと九州にあったもの。
 どこにあったか。
 可能性としては太宰府中心寺院である観世音寺(本当の名前は不明)に上宮王を追悼する施設である東院があったか、もしくは内裏の中に同じく上宮王を追悼する施設があったかです。
 これを近畿王朝は奈良に移築してしまった。
 ちゃんと掘れば痕跡ぐらいはでるでしょう。

 なお八角堂は亡き個人を偲ぶ施設であることは、例えば興福寺の北円堂(これも八角堂ー焼失してその後二度再建)が創建者である藤原不比等追悼の施設として作られたことで明らかです。あと奈良と大阪の県境にある永山寺の八角堂(これは奈良時代に建てられたまま現存)が、寺の創建者の藤原武智麻呂(不比等の子)追悼施設であることもこれを裏付けています。
 だから法隆寺の夢殿も亡き個人の追悼施設です。 これを東院建立の縁起では聖徳太子追悼施設と記しただけのこと。

 九州王朝の王都はちゃんと掘られていません。太宰府はまだ一部だけ。この周辺にきっと九州王朝の後期の天皇陵があるはず。
 そしてその前の都である博多の難波宮はまだ見つかっていない。あそこは大都市だからね。掘るのは大変。
 さらにその前に都があったであろう筑後八女はほとんど掘られていない。
 この王都に対応する天皇の御陵群であろう八女古墳群もまだまだ未発掘だ。いや既に開発で破壊されている。破壊された中の立山山古墳群の中には純金製の耳飾りが出ている。これは明らかに倭国国王に相応しい副葬品だが、九州王朝を認めていない古代史学会と考古学会は完全に無視だ。

 九州王朝論の立場から、北部九州の遺跡を悉皆調査してみれば八角形墳や八角形建物の痕跡ぐらいはあるだろう。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  例の法隆寺東院の夢殿ですが、これも九州王朝の建物を移築した可能性あり。
 そこに納められている観音像はタリシホコ=上宮王の似姿の可能性あり。そうなら入れ物と仏像も、もともと九州にあったもの。
 どこにあったか。
 可能性としては太宰府中心寺院である観世音寺(本当の名前は不明)に上宮王を追悼する施設である東院があったか、もしくは内裏の中に同じく上宮王を追悼する施設があったかです。
 これを近畿王朝は奈良に移築してしまった。
 ちゃんと掘れば痕跡ぐらいはでるでしょう。

めったに移築のことは触れない川瀬さんでも,法隆寺はあやしいと思われているのですね。
夢殿の下層には「若草伽藍」と同じ方位の建物があったようですから,
西院伽藍だけでなく,東院伽藍も怪しいです。
(両院の方位が違うのは時期が違うのはどうしてか分かりませんが)

古墳と建物を別にし,改訂版を作ってみました。

肥沼さんへ

 八角形古墳 のキーワードで検索すると、さらに5つ八角形古墳がでてきました。
1:京都府亀岡市千歳町の国分古墳群
http://www2.odn.ne.jp/kofun/kokubu.htm

京都府亀岡市千歳町の国分古墳群
7世紀中頃の八角形古墳
縦横15m
全長9.1mの横穴式石室 銀装を施した鉄刀

この古墳の約500メートル西側には丹波国分寺跡がある

2と3:埼玉県熊谷市籠原裏古墳群 1号墳と10号墳
1号墳は平面形態が八角形を呈する八角墳であり、主体部からは刀装具が出土した。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14451
 発掘報告書がダウンロードできる。
 報告書から抜粋
 1号墳は双脚足金具が7世紀第3四半期頃のものであり、墳丘出土の須恵器平瓶も双脚足金具とほぼ
同時期のものであることから、主体部の時期も加味して7世紀後半頃の築造と考えられる。1号墳から
は大刀自体は検出されていないが、双脚足金具を含む刀装具の存在から7世紀中頃以降に盛行する到頭大刀が副葬されていたことが想定され、このことも築造時期の裏づけになると思われる。
 
10号墳も全体が発掘されたわけではないが1号墳と同様八角形墳の可能性が強い。

4:鳥取県 梶山古墳
http://www.tbz.or.jp/inaba-manyou/area/584/
鳥取市国府町
 梶山古墳は、変形八角形をした古墳に大規模な方形壇が備わった全国的にも珍しい古墳です。

平成3年から平成7年にかけて行われた試掘調査で、当初、円墳だと思われていた古墳が変形八角形墳であることがわかりました。
墓域は約40mで、その中に対角長17mの古墳があります。古墳の前には、祭祀の広場として使われた方形壇があり、最も高いところで高さ約3m、幅約14mあり、玄武岩の石垣で3段にわたって築かれています。

5:鳥取県  鳥取県八頭郡八頭町郡家大字福本
福本70号墳

http://db.pref.tottori.jp/bunkazainavi.nsf/bunkazai_web_view/EE45FDE2BC7D5DA0492580C70018D713?OpenDocument

 福本70号墳は、墳丘規模東西最大約15m、南北最大約13m、高さ約5mを測る。墳丘裾部等で確認された列石の状況から、多段築成された変形八角形と考えられる多角形墳で、出土土器の年代観から7世紀前半から中葉頃の古墳とされる。
 平成6年に実施された発掘調査により、玄室床面や墳丘流失土内から副葬品を中心とする遺物が出土した。玄室内出土遺物には、銅製匙(どうせいさじ)、双龍環頭大刀(そうりゅうかんとうたち)、鍔付鉄剣(つばつきてっけん)、馬具(ばぐ)、鉄鏃(てつぞく)、鉄製工具、ガラス玉類、耳環(じかん)、鉄釘、土器等があり、良好な状態で遺存

追伸

 これだけ各地に八角形古墳が出てくると、
●大和王朝が有力豪族にこの墳形を許可した。
●九州王朝が有力皇族にこの墳形を許可した。
 という考え方ではおかしくなってきます。どうみても全国的な有力豪族とは見られない一地方豪族が八角形古墳をつくっているからです。
 これらの考え方は、前方後円墳は大和王朝が始めたもので、これを服属した地方豪族に築造を許したとしてきた従来の「近畿一元史観」に立つ見解と同じ様相を持っているので誤りの可能性大。

 ではどう考えるか?
 確実なことは、墓を八角形にするという一定の意味のある思想が広がった結果として、全国的に有力豪族たちがこの形式の墓を作り始めた。
 こう考えるしかないです。

 全国の八角形古墳のうち、大和の天皇陵より古いものは、経塚古墳と稲荷塚古墳しかないが、他の物も方位の考古学で年代を動かせるなら、大和の天皇陵よりも古い物ばかりになります。

 むしろ大和の正八角形で整然とした切り石で墳丘を葺いた天皇陵が最後の完成形で、地方にある多くの不整形の八角形古墳で、墳丘は従来の河原石で葺いたものの方が古いのではないかと推定できます。
 その中からやがて墳丘の裾野だけを切り石で囲ったものが現れ、やがて大和の天皇陵に典型的なように墳丘全体を切り石で覆ったものが現れる。
 
 このような発展史ではないか。

 この意味で群馬の三津屋古墳は地方では珍しい正八角形で整然とした切り石で全体を葺いたものなので、大和の天皇陵と同列の古墳かと。

 もしかして九州王朝の6・7世紀の天皇陵もこうした整然とした切り石で葺かれた八角形古墳だったのかもしれませんね。

 古墳時代後期や終末期の円墳と見られるものの中に八角形古墳があると思います。

追伸2

 夢殿の件。
>夢殿の下層には「若草伽藍」と同じ方位の建物があった

 これこそ厩戸皇子の斑鳩宮のあとです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  八角形古墳 のキーワードで検索すると、さらに5つ八角形古墳がでてきました。

〉  ではどう考えるか?
 確実なことは、墓を八角形にするという一定の意味のある思想が広がった結果として、全国的に有力豪族たちがこの形式の墓を作り始めた。
 こう考えるしかないです。  

〉 これこそ厩戸皇子の斑鳩宮のあとです。


「八角形」の遺跡にこだわったことで,新しい歴史観が生まれそうです。
とても楽しみですね。

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