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2021年10月14日 (木)

ウィキペディア「九州王朝説」の「駅路」について(改訂版)

先日紹介したウィキペディア「九州王朝説」の「駅路」について,

少々補足しておきたいことがある。

出典として,私の「古代日本ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」もあげられ,

さらに補足もしていただいて文句はないのだが,数点。

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(1)私が上記の文章を書いた時,「7世紀第3(4)四半期」と書いたが,

その後〈方位の考古学〉の出現があり「6世紀第3(4)四半期」と訂正する。

なので,相手は唐や新羅ではなく,隋や北周ということになる。

(2)その後,近畿王朝もこれを利用したが,平安時代中頃以降には律令制の衰えと共に道幅も狭くなり,

鎌倉時代には地中に埋もれて行った。それでも鎌倉時代の主要道は古代の官道にほぼ沿っている。

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駅路[編集]・・・

古代日本では、駅路という全長6,300kmにも及ぶ幅6-30mの直線的道路が本州をほぼ縦断して全国に作られ、沿線には「駅家(うまや)」という休憩・宿泊施設も作られていた。これは2021年(令和3年)現在の日本の高速道路網にも匹敵するものであるが、これだけの道路の建設にもかかわらず、どれだけ費用がかかり、誰が負担したかと言う事がわかっていない。当時の人口は500万人程度と推測されており、建設には長い歳月と膨大な労力が必要だったと考えられる。これらも九州倭国が、半島での戦争を遂行するために兵員の移動・物資の補給用に建設したものであると考えられる[37]

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東山道武蔵路の遺構の写真

東の上遺跡(埼玉県所沢市)

南陵中学校の校庭から発見された。

現在は地下に埋め戻されている。

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コメント

肥沼さんへ

>(2)その後,使用目的を失った駅路は,道幅も狭くなり,「謎の古代官道」となって行った。

 これはおかしい。
 近畿王朝の下でもちゃんと奈良時代や平安時代中頃までは、九州王朝の作った幅12mとか9mの道路がちゃんと維持されて、都と国府、国府と国府、国府と郡衙を結ぶ主要官道として使われたことは発掘で証明されている。東山道武蔵路のパンフにちゃんと書いてある。
 この認識は、かつて肥さんが「古田史学会報」に掲載した最初の文章のままで間違っている。
 頭の中にあるのは昔の間違った認識のまま。
 その府中市の遺跡を調べる中で見つけた新たな事実は記憶から飛んでいるわけだ。
 その後古田史学の会発行の冊子に掲載したときは、書き直したでしょ。

 道幅が狭くなったのは平安時代中頃以後。
 王朝国家が衰微して全国の官道を維持する力がなくなったからだ。
 そして全面的に消えるのは鎌倉時代。
 それでも鎌倉時代の主要道は古代の官道にほぼ沿っている。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉その後古田史学の会発行の冊子に掲載したときは、書き直したでしょ。

そうでした,そうでした。

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