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2021年9月20日 (月)

4世紀の大型古墳は北部九州にないか?

昨日の表の中で,気になっていることがあった。

「4世紀には北部九州に大型古墳はないのか?」ということだ。

〈方位の考古学〉で100年ズラせば西都原古墳群が4世紀にあたるのだから,

宮崎県にあるのではないか・・・とも思ったが,

3世紀(博多湾地方) → 4世紀(宮崎県・西都原古墳群) → 5世紀(筑後地方) → 6世紀(宗像地方)

と前に書いたが,2番目の4世紀が急にワープして飛んだような気がしていたのだ。

そこでもう一度資料を見た結果,こんなふうに考えた。

4世紀の北部九州にも大型古墳があるのではないか。

今確認したところ,該当しそうな古墳が見つかった。

★法正寺古墳(102m)~福岡県うきは市 前方後円墳 4世紀末→3世紀末

★石人山古墳(110m)~福岡県八女郡広川町 前方後円墳 5世紀前半~中頃→4世紀前半~中頃

★石櫃山古墳(115m)~福岡県久留米市 前方後円墳 5世紀後半→4世紀後半

この後,

★岩戸山古墳(138m)~福岡県八女市 前方後円墳 6世紀前半→5世紀前半

★田主丸大塚古墳(103m)~福岡県久留米市 前方後円墳 6世紀後半→5世紀後半

というふうに入ると,北部九州のなめらかなバトンタッチができるように思う。

これらは,最初の資料をよく見れば,書いてあることであった。

    ※     ※     ※

さて,そうなると,西都原古墳群が「宙に浮く」とまでは行かないが,「連続性がない」ということになる。

なぜなら,築後地方には4世紀の古墳がいくつもあり,3世紀と5世紀の「橋渡し」をしていたからだ。

九州で一番大きい女狭穂塚古墳(176m)や男狭穂塚古墳(155m) 5世紀前半→4世紀前半

あるいは,西都市の児屋根塚古墳(110m) 5世紀前半→4世紀前半

また,松本塚古墳(104m)5世紀末~6世紀初頭→4世紀末~5世紀初頭というものだ。

これらはどういう位置づければいいのだろうか?

1つの推理のきっかけとして,宮崎県串間市からは「玉璧」と呼ばれるものが見つかっている。

海外からの亡命王朝の証拠なのかもしれない。

その玉壁は,直径33.3cm,重さ1.6キロというから,ただモノではない。

(1.5リットルのペットボトルより重いのだ!)

この夏,西都原考古学博物館では,特別展がひらかれたという。

今私は古墳の時代の「流れ」を次のように考えている。

A 3世紀(博多湾地方) → 4世紀から5世紀にかけて(筑後地方・5世紀に「倭の五王」) → 6世紀(宗像地方)

B 中国からの亡命王朝の古墳 4世紀前半~5世紀初頭(宮崎県・西都原古墳群など)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

串間で出土した玉璧テーマに特別展 西都原考古学博物館

https://www.asahi.com/articles/ASP8W6SN1P86TNAB001.html

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 方位の考古学を使って積極的に考察されていますね。

 たしかに日向の西都原古墳群は九州の中心から外れた地域で、九州における古墳の変遷からも外れています。
 肥沼さんは玉壁の出現を根拠に亡命王朝とされました。
 私は日向という地に注目しています。
 ここは長く倭国と対立した「襲」を征服するための最前線です。
 景行紀に盗用されている九州一円を統合した九州王朝の天皇の征服行軍での経路は

 筑後八女⇒筑紫⇒豊⇒日向⇒襲+熊(火の熊郡)⇒火⇒筑後八女

 となっています。
 まさしく九州地方最大の敵と対峙した最前線。
 ここに突然巨大古墳群が作られたということは、倭国が襲を倒すためにその軍事力を日向に集中し、その力を見せつけるためと考えられますよ。

 考えてみれば近畿天皇家の祖である神武たちも、この日向に居たのでした。
 古田さんによれば神武と倭国王卑弥呼は同時代とのこと。
 彼らの時代は3世紀前半。まだ巨大古墳は出てないが、方形周溝墓から発展した巨大な墳丘墓が出現している。

 神武たちが日向を離れて東の銅鐸圏征服に向かったのは、すでに日向には安定的な倭国の出先の軍事拠点が出来上がっていて、熊+襲を征服するのももう時間の問題だったから、新たな活躍地を求めたのではないでしょうか。

 その後倭国は熊+襲を威圧するために日向の地に巨大古墳を築造した。

 前に日向国分寺を検討した時日向の歴史を調べたが、この地には豊の勢力が移住しています。
 のちの8世紀の隼人の乱の平定の時の主力も豊の勢力で、乱の平定後に豊から多くの人が移住しています。したがって南九州の日向・大隅・薩摩には豊の最大勢力である宇佐八幡宮を奉戴する勢力が広がっていて八幡宮の濃密な分布地帯でもあります。

 こうした歴史的背景を考えれば、西都原古墳群は、熊+襲 征討のために動員された豊の勢力が築造主体だったのではないでしょうか。

追伸

 串間市から江戸時代に発見された玉壁について。

 しらべてみるとこれは地下式横穴墓の石棺のなかから見つけたようです。
 場所は不明だが「王之山」という。

 ここは今は宮崎県だが、志布志湾なので、日向というより大隅と見た方がよい。

 墓の形式は、この地方に多い隼人の王のもの。
 つまりこれは襲国の王の墓から出たものではないか。
 そしてこの地の真北の至近距離に展開するのが西都原古墳群だ。

 西都原古墳群はまさしく襲国の王の墓に相対する位置にある。

 この玉壁は南越王の墓からでたものとよく似ているという。紀元前2世紀ごろのもの。
 つまり襲国とはこんなに昔から中国とつながっていたという証拠ではないのか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 こうした歴史的背景を考えれば、西都原古墳群は、熊+襲 征討のために動員された豊の勢力が築造主体だったのではないでしょうか。

なるほどねえ。そうかもしれません。
私も「亡命王朝」の古墳というのはちょっと(かなり?)無理かなあと思っていたところです。

PS それにしても最近,川瀬さんのコメントを入れる時間がかなり早いような気がします。
以前,午後がそういう時間帯だとおっしゃっていませんでしたっけ?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  この玉壁は南越王の墓からでたものとよく似ているという。紀元前2世紀ごろのもの。
 つまり襲国とはこんなに昔から中国とつながっていたという証拠ではないのか?

紀元前2世紀といえば,北部九州の倭国もそのあたりから中国とつながっていたような・・・。
中国との歴史は,南部九州も北部九州も,古くから脈々と続いていたようですね。

肥沼さんへ

> それにしても最近,川瀬さんのコメントを入れる時間がかなり早いような気がします。
以前,午後がそういう時間帯だとおっしゃっていませんでしたっけ?

 朝起きて一番に見るようにしています。メールで大切なものが入っているのに昼までパソコンを開けないのは問題が起きますので。
 朝起きてトイレにいって、雨戸をあけたらすぐにパソコンを開いて、メールチェックとネットサーフィンをします。その後着替えて朝食の用意。

>紀元前2世紀といえば,北部九州の倭国もそのあたりから中国とつながっていたような・・・。
中国との歴史は,南部九州も北部九州も,古くから脈々と続いていたようですね。


 残念ながら紀元前2世紀の倭国と中国の通交の記録はありません。周王朝の時代に倭人が香草を送ったとの記録が中国に残っている(前10世紀)ことと、日本の縄文遺跡から春秋戦国時代の貨幣が出てくる(前7世紀から4世紀)ので、かなり前から中国との通交があったことはたしかです。

 北部九州と中国とのつながりの記録は
1:紀元後57年(1世紀) 後漢に使いをおくり光武帝から「漢委奴国王」の金印をもらった。
2:107年(2世紀) 後漢の安帝に生口160人を献上した。
 ここからですね。

 串間市出土の玉壁は、ネット検索で「玉壁」とやるとかなり詳しい資料が出てきます。これは古墳出土ではないようです。地下式横穴墓。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  残念ながら紀元前2世紀の倭国と中国の通交の記録はありません。周王朝の時代に倭人が香草を送ったとの記録が中国に残っている(前10世紀)ことと、日本の縄文遺跡から春秋戦国時代の貨幣が出てくる(前7世紀から4世紀)ので、かなり前から中国との通交があったことはたしかです。

そうですか。勘違いかな?

〉 串間市出土の玉壁は、ネット検索で「玉壁」とやるとかなり詳しい資料が出てきます。 これは古墳出土ではないようです。 地下式横穴墓。

検索してみましょうかね。

肥沼さんへ

 西都原考古学博物館展示の、なぜ串間に玉壁があるかの仮説は酷い内容だ。
 つまりこんな南九州の僻遠の地に中国王朝から玉壁という王にしか与えられない品物をもらえる国があったはずがないという仮説。

 でもこの地名の串間=くしま。もう少し北の西都原の近くには都間(つま)という地名もある。

 つまりこれは魏志倭人伝の投馬国比定地と考えられるのではないですか。
 倭人伝ではこの国は5万戸。
 女王国の7万戸に次ぐ国。

 ここが倭国より古い時代から中国王朝と通交していたと考えてもおかしくない。
 周に香草を送った倭人と並んで記録されているのが同じく香草を送った越だ。

 串間の玉壁とよく似た玉壁が出土したのも南越の王墓。

 南九州のこの国、襲とか曾とか言われた国は、列島の中で最も古くから中国王朝と通交してきた国なのではないでしょうか。

 このことの間接的な証拠が、女王国が統括した倭国の中心地である博多湾岸から出た璧はガラス製なのに対して、南九州の曾から出土したのは、本物の硬玉制の璧だということ。どちらがより中国から重視されていたかは明らか。

訂正

 周の時倭人が贈ったのがにおい酒に付ける香草、越が贈ったのは雉でしたね。
 「論衡」の一節。
 古田さんはこの倭人を「漢委奴国王」の金印をもらった博多湾岸の倭人だとしましたが、南越王の墓から出たのとよく似た硬玉製の玉壁が出たのが、志布志湾岸の隼人の王の墓とみられる地下式横穴墓であれば、周の時に香草を贈った倭人とは、南九州の隼人だったということになると思います。
 北九州の倭人よりもずっと前から中国王朝と通交してきた倭の王国。
 玉壁と同じく出土したのが鉄器だという。
 「魏志倭人伝」にいう5万戸の戸数を持つ大国・投馬国。
 ここは女王の都する7万戸の邪馬一国と並ぶほどの財力と武力を持った国だったのではないでしょうか。
 北九州の倭国がなかなか攻め倒し統合できなかった背景でしょう。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 南九州のこの国、襲とか曾とか言われた国は、列島の中で最も古くから中国王朝と通交してきた国なのではないでしょうか。

 このことの間接的な証拠が、女王国が統括した倭国の中心地である博多湾岸から出た璧はガラス製なのに対して、南九州の曾から出土したのは、本物の硬玉制の璧だということ。どちらがより中国から重視されていたかは明らか。

〉  北九州の倭人よりもずっと前から中国王朝と通交してきた倭の王国。
 玉壁と同じく出土したのが鉄器だという。
 「魏志倭人伝」にいう5万戸の戸数を持つ大国・投馬国。
 ここは女王の都する7万戸の邪馬一国と並ぶほどの財力と武力を持った国だったのではないでしょうか。
 北九州の倭国がなかなか攻め倒し統合できなかった背景でしょう。

南九州の勢力(隼人?)について,これまでほとんど知りませんでした。
北九州より進んでいた時代があったかもしれません。
鉄器もあったとすると,これはかなり手ごわい。
また,稲作はどうだったのでしょうか。
これも南九州が早い?それとも北九州が早かった?

肥沼さんへ

>また,稲作はどうだったのでしょうか。
これも南九州が早い?それとも北九州が早かった?

 想像の翼が膨らんでいますね!!
 早速「南九州 稲作」のキーワードで検索すると、でるわでるわ 南九州の方が早いという説が。

1:稲作は南九州から始まった? との記事 宮崎県の稲作起源

http://www.miten.jp/miten/modules/popnupblog/index.php?postid=134

 高鍋町持田中尾遺跡では、韓国において稲作文化を持つ集落に見られる「松菊里型」と呼ばれる特殊な形態の竪穴住居跡が発見され、初期稲作に関係の深い「大陸系磨製石器」がセットで出土した。 都城市肘穴遺跡では、突帯文土器に伴う石包丁や住居跡が発見された。さらに都城市坂本A遺跡では、同時期の水田跡まで発見されている。

面的な発掘調査で確認されている最古の水田は都城市に存在するのである。
 加えて、韓国にその源流を持つ縄文時代晩期の孔列文土器や、擦切有溝石包丁といった特殊遺物の出土地を九州地図に落としてみると、北部九州と南九州東半(宮崎)に偏っている。


2:沖縄から南九州ー縄文後期にすでに陸稲を栽培

 https://www.pref.kagoshima.jp/bc05/hakubutsukan/shien/documents/6329_20120225145734-1.pdf

 沖縄から南九州の縄文後期の人々は陸稲を栽培し主食にしていたのではないかとの論考
縄文農耕特に南九州における稲作農耕の起源について ... 南九州縄文後期の指標のひとつとされている市来式土器の出土遺跡の分布をもとに推理。

 南九州=曾の国とそこの人々隼人のイメージが変わりますね。
 これほどの歴史を持った強大な国。
 これと対峙した九州王朝。
 だから最前線に巨大な古墳群を出現させて威圧しようとしたわけだ。
 これで西都原古墳群の謎が解けるでしょ!!!

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  想像の翼が膨らんでいますね!!
 早速「南九州 稲作」のキーワードで検索すると、でるわでるわ 南九州の方が早いという説が。

なるほど,なるほど。

〉  南九州=曾の国とそこの人々隼人のイメージが変わりますね。
 これほどの歴史を持った強大な国。
 これと対峙した九州王朝。
 だから最前線に巨大な古墳群を出現させて威圧しようとしたわけだ。
 これで西都原古墳群の謎が解けるでしょ!!!

そうですね。
私たちは古田説=北九州王朝説に親しんできましたが,
福岡県は都市開発が進んでいて,発掘も早い時期から行われていたせいが大きいのかも。
これからは南九州に着目していかなければなりませんね。
いずれにしても「九州島」の中ではありますが・・・。

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