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2021年9月 3日 (金)

〈方位の考古学〉で九州の古墳を100年ズラすと・・・

〈方位の考古学〉によって,九州の古墳を100年ズラしてみる。

https://iush.jp/uploads/files/20191119161903.pdf

古賀さんの「洛中洛外日記」を参考にすると,以下のようになる。

従来の年代比定では「宮崎県に軍配」といったところだが,

〈方位の考古学〉だと様相が一変してくると思う。

少なくとも「「倭の五王」の宮都にふさわしい五世紀の遺構が見つからない」ということはないのではないか。

3世紀(博多湾岸) ⇒ 4世紀(宮崎県・西都原古墳群) ⇒ 5世紀(筑後地方) ⇒ 6世紀(宗像地方)

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女狭穂塚古墳(墳丘長176m、五世紀前半)〜宮崎県 ⇒ 4世紀前半

男狭穂塚古墳(墳丘長155m、五世紀前半)~宮崎県 ⇒ 4世紀前半

児屋根塚古墳(墳丘長110m、五世紀前半の前方後円墳)西都市茶臼原 ⇒ 4世紀前半

松本塚古墳(墳丘長104m、五世紀末~六世紀初頭の前方後円墳)西都市三納 や 4世紀末~5世紀初頭

菅原神社古墳(墳丘長110m、四世紀末~五世紀前半の前方後円墳)延岡市 ⇒ 3世紀末~4世紀前半

生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)は四世紀初頭 ⇒ 3世紀初頭

同3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)は四世紀前半 ⇒ 3世紀前半

生目(いきめ)古墳群(宮崎市跡江)の1号墳(墳丘長120m、前方後円墳)〜福岡県 四世紀初頭 ⇒ 3世紀初頭

同3号墳(墳丘長143m、前方後円墳)〜福岡県 四世紀前半 ⇒ 3世紀前半

福津市の宮地嶽古墳(現状径34m、七世紀前半、円墳)

 =奈良県・見瀬丸山古墳に次ぐ国内二番目の長さを誇る横穴式石室(22m) ⇒ 6世紀前半

法正寺古墳(墳丘長102m、前方後円墳、四世紀末、) ⇒ 3世紀末

石櫃山古墳(墳丘長115m、前方後円墳、五世紀後半、久留米市)※消滅 ⇒ 4世紀後半

石人山古墳(墳丘長110m、前方後円墳、五世紀前半~中頃、八女郡広川町) ⇒ 4世紀前半~中頃

岩戸山古墳(墳丘長138m、前方後円墳、六世紀前半、八女市) ⇒ 5世紀前半 ★

田主丸大塚古墳(墳丘長103m、前方後円墳、六世紀後半、久留米市) ⇒ 5世紀後半 ★

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「洛中洛外日記」によると,宮崎県からは国内最大の玉璧(直径33cm)が串間市王の山から出土しており、

えびの市・島内114号地下式横穴墓から出土した「龍」銀象嵌大刀とともに注目される。

古賀達也「洛中洛外日記」1504話(2017/09/20)〝南九州の「天子」級遺品〟、1502話(2017/09/17)〝「龍」「馬」銀象眼鉄刀の論理〟で論

じたので参照されたい。また「景初四年」(240年)銘を持つ斜縁盤龍鏡(兵庫県辰馬考古資料館蔵)が持田古墳群(児湯郡高鍋町)から出土している。

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今以上の内容をアップした時,「あれっ?」と思いました。

1年前の【九州は近畿に遅れていない(川瀬さん)】を思い出したのでした。

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2021/06/post-6a12e4.html

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コメント

肥沼さんに、お願いがあります。川瀬さんに宣化紀の分析をたのんでいただきたいのです。ここは倭の5王にも、関係する重要な箇所で有ると思います。

肥沼さんへ

 九州の古墳の年代を100年ずらしてみると。倭の五王の時代の5世紀の九州王朝の墳墓の地は筑後八女であることが明らかになりましたね。

 私は前から倭の五王の都は筑後八女と考えていました。
 根拠は、書紀景行紀にある、熊襲征伐の戦です。
 これは九州王朝に未だ従わない、南九州の襲国とそのすぐ北にある熊国(火の国の熊地方)を最終的に屈服させた遠征です。
 書紀には次のように記されています。
>十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰「於南方烟氣多起、必賊將在。」則留之、先遣多臣祖武諸木・國前臣祖菟名手・物部君祖夏花、令察其狀。

爰有女人、曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰「願無下兵。我之屬類、必不有違者、今將歸德矣。唯有殘賊者、一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上。二曰耳垂、殘賊貧婪、屢略人民、是居於御木木、此云開川上。三曰麻剥、潛聚徒黨、居於高羽川上。四曰土折猪折、隱住於緑野川上、獨恃山川之險、以多掠人民。是四人也、其所據並要害之地、故各領眷屬、爲一處之長也。皆曰『不從皇命。』願急擊之。勿失。」於是、武諸木等、先誘麻剥之徒。仍賜赤衣・褌及種々奇物、兼令撝不服之三人。乃率己衆而參來、悉捕誅之。天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也。

冬十月、到碩田國。其地形廣大亦麗、因名碩田也。碩田、此云於保岐陀。到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言「茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟。一曰靑、二曰白。又於直入縣禰疑野、有三土蜘蛛、一曰打猨、二曰八田、三曰國摩侶。是五人、並其爲人强力、亦衆類多之、皆曰『不從皇命。』若强喚者、興兵距焉。」天皇惡之、不得進行、卽留于來田見邑、權興宮室而居之。

仍與群臣議之曰「今多動兵衆、以討土蜘蛛。若其畏我兵勢、將隱山野、必爲後愁。」則採海石榴樹、作椎爲兵。因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛而破于稻葉川上、悉殺其黨、血流至踝。故、時人其作海石榴椎之處曰海石榴市、亦血流之處曰血田也。復將討打猨、侄度禰疑山。時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。

天皇、初將討賊、次于柏峽大野、其野有石、長六尺・廣三尺・厚一尺五寸。天皇祈之曰「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而舉焉。」因蹶之、則如柏上於大虛。故、號其石曰蹈石也。是時禱神、則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣。

十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇詔群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」

於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰「無愁熊襲之不服。妾有良謀、卽令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文賜於火國造。

十三年夏五月、悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛御刀、此云彌波迦志、則召爲妃。生豐國別皇子、是日向國造之始祖也。

十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、

波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮
夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試
異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固

是謂思邦歌也。
十八年春三月、天皇將向京、以巡狩筑紫國。始到夷守、是時、於石瀬河邊人衆聚集、於是天皇遙望之、詔左右曰「其集者何人也、若賊乎。」乃遣兄夷守・弟夷守二人令覩。乃弟夷守、還來而諮之曰「諸縣君泉媛、依獻大御食而其族會之。」

夏四月壬戌朔甲子、到熊縣。其處有熊津彥者、兄弟二人。天皇、先使徵兄熊、則從使詣之。因徵弟熊、而不來、故遣兵誅之。壬申、自海路泊於葦北小嶋而進食、時召山部阿弭古之祖小左、令進冷水。適是時、嶋中無水、不知所爲、則仰之祈于天神地祗、忽寒泉從崖傍涌出、乃酌以獻焉。故號其嶋曰水嶋也、其泉猶今在水嶋崖也。

五月壬辰朔、從葦北發船到火國。於是日沒也、夜冥不知著岸。遙視火光、天皇詔挾杪者曰「直指火處。」因指火往之、卽得著岸。天皇問其火光之處曰「何謂邑也。」國人對曰「是八代縣豐村。」亦尋其火「是誰人之火也。」然不得主、茲知非人火。故名其國曰火國也。

六月辛酉朔癸亥、自高來縣、渡玉杵名邑、時殺其處之土蜘蛛津頰焉。丙子、到阿蘇國、其國也郊原曠遠、不見人居、天皇曰「是國有人乎。」時有二神、曰阿蘇都彥・阿蘇都媛、忽化人以遊詣之曰「吾二人在、何無人耶。」故號其國曰阿蘇。秋七月辛卯朔甲午、到筑紫後國御木、居於高田行宮。時有僵樹、長九百七十丈焉、百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、

阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆瀰 伊和哆羅秀暮 瀰開能佐烏麼志

爰天皇問之曰「是何樹也。」有一老夫曰「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」天皇曰「是樹者神木、故是國宜號御木國。」丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。八月、到的邑而進食。是日、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。昔筑紫俗號盞日浮羽。

 スタート地点は明記されていませんが、「幸筑紫」というのがこの遠征の始まりなので、筑紫つまり筑前ではないことはたしかです。
 そしてゴール地点は「到八女縣」と明記されているので、
 この九州一統を果たした天皇の都は筑後八女に会ったことが明らかです。

 八女古墳群は調べてみると弥生後期の方形周溝墓から始まって5世紀末の大型前方後円墳から7世紀前半の大型円墳までずっと王墓が連続しています。
 方形周溝墓は4世紀とありますが、全国的にみても3世紀ですので、そこから、4世紀末の大型前方後円墳から6世紀前半の大型円墳まで連綿と王墓が続いている。
 そしてここでは「6世紀後半の早い時期に前方後円墳は姿を消し、以後は円墳の時代となる」そうなので、5世紀後半にはここでは円墳の時代になっていたことを示すので、まさに倭の五王の時代までが大型前方後円墳の時代なのでしょう。
 したがって6世紀半ばである磐井の墓は(あるとすれば)大型円墳であったと思われます。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  九州の古墳の年代を100年ずらしてみると。倭の五王の時代の5世紀の九州王朝の墳墓の地は筑後八女であることが明らかになりましたね。

はい,とてもうれしいです。

〉 私は前から倭の五王の都は筑後八女と考えていました。
 根拠は、書紀景行紀にある、熊襲征伐の戦です。
 これは九州王朝に未だ従わない、南九州の襲国とそのすぐ北にある熊国(火の国の熊地方)を最終的に屈服させた遠征です。

〉 スタート地点は明記されていませんが、「幸筑紫」というのがこの遠征の始まりなので、筑紫つまり筑前ではないことはたしかです。
 そしてゴール地点は「到八女縣」と明記されているので、
 この九州一統を果たした天皇の都は筑後八女に会ったことが明らかです。

〉 八女古墳群は調べてみると弥生後期の方形周溝墓から始まって5世紀末の大型前方後円墳から7世紀前半の大型円墳までずっと王墓が連続しています。
 方形周溝墓は4世紀とありますが、全国的にみても3世紀ですので、そこから、4世紀末の大型前方後円墳から6世紀前半の大型円墳まで連綿と王墓が続いている。 

〈方位の考古学〉が歴史解明に役立てれば,本望です。

〉  そしてここでは「6世紀後半の早い時期に前方後円墳は姿を消し、以後は円墳の時代となる」そうなので、5世紀後半にはここでは円墳の時代になっていたことを示すので、まさに倭の五王の時代までが大型前方後円墳の時代なのでしょう。
 したがって6世紀半ばである磐井の墓は(あるとすれば)大型円墳であったと思われます。

このあと調べてみたいと思います。

上城さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんに、お願いがあります。川瀬さんに宣化紀の分析をたのんでいただきたいのです。ここは倭の5王にも、関係する重要な箇所で有ると思います。

川瀬さんへ
いかがでしょうか?

上城さんに質問

 宣化紀の分析をすることにはやぶさかではありませんが、一つ質問です。
>倭の5王にも、関係する重要な箇所
 宣化紀がこのようなところとのご認識は、どこから出てくるのでしょう。
1:諸国の屯倉の税を集めさせ、那の津の官家に集めさせた。
2:新羅が任那への侵攻を進めたときに、大伴金村大連の子の磐に三韓に備えて筑紫を治めさせ、狹手彥には任那を平定し百済を救援させた。
 その前の安閑紀と合わせてみると、倭王武の上表文にいう、海北・西・東を平らげて宋朝の威光を広めたという地域が具体的にわかるからからでしょうか?

また、この前の安閑紀は分析しなくても良いのですか。
 ここには全国に屯倉を設置した重要な箇所で、さらに武蔵国造の争いに介入て武蔵と上野に屯倉を設けたという重要な箇所。
 九州王朝の版図を推定するのに不可欠のところですが。

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