大極殿はいつから?
天皇が「詔」を出したりする大極殿。その起源は,何なのか。
それは,○○説・××説が乱立するように,まだ「決定!」ということではないようだ。
ウィキペディアには大極殿についてこんなふうにいろいろ書いてある。
(副都説の方の文章のようだ)
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【ウィキペディア・大極殿】
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当たり前の話だが,発掘された遺跡に「ここは大極殿です」という名札が付いている訳ではない。
一番立派な建物があって,前庭が広いので,役人たちがたくさん集まれそうだし,
「日本書紀」にも出て来るので,「ここが大極殿だったのではないか?」と推定される訳だ。
例の「エビノコ郭」は,南北5間×東西9間とその規模については合格なのだが,
南に前庭はなく,飛鳥川が流れているばかりなので,不合格ということなのだろう。
(むなしく飛鳥川に向かって「詔」を読んだのだ・・・というのには,やはり無理があるか)
となると,役人たちを前に「詔」を読んだとすると,前庭が付いていないと具合が悪い。
となると,朝堂院式の宮というとになる?
今の時点で天武紀・持統紀に出て来る「詔」がどこで読まれたのかは不明である。
そこで争ってもあまり議論は前進しない。
ただ,「主語有無の論証」に従うならば,九州王朝の天皇(主語なし)がどこかで出した「詔」なのだ。
「近畿王朝」の「近畿王朝」による「近畿王朝」のための「詔」を・・・。
京都・下賀茂神社の写真らしい。なんか雰囲気が・・・っぽい?
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コメント
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肥沼さんへ
>ウィキペディアには大極殿についてこんなふうにいろいろ書いてある。
(副都説の方の文章のようだ)
前期難波宮=九州王朝副都説の人なら、前期難波宮には大極殿があったとするはず。
それは前期難波宮=孝徳の難波宮とする大阪歴史博物館が、ここに大極殿あったとするから。
このウィキペディアの記事を書いた人は、大阪歴博の孝徳難波宮との見解は支持するが、大極殿があったとは認めない通説派に立っていると思います。
投稿: 川瀬健一 | 2021年9月17日 (金) 21:41
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 このウィキペディアの記事を書いた人は、大阪歴博の孝徳難波宮との見解は支持するが、大極殿があったとは認めない通説派に立っていると思います。
そうなのですか。
大切なのは,大極殿のありかより,
その「詔」は誰が出したのか(出させられたのか)ということのような気がします。
つまり,「主語有無の論証」です。
投稿: 肥さん | 2021年9月17日 (金) 22:00
>大切なのは,大極殿のありかより,
その「詔」は誰が出したのか(出させられたのか)ということのような気がします。
いや、いつ大極殿が始まったか、どの宮に大極殿があったのかなかったのかも大事です。
そしてこれも「主語有無の論証」で明らかにできます。
書紀における大極殿の初出がいつか知っていますか?
皇極紀の最後、いわゆる乙巳の変、蘇我入鹿暗殺事件です。書紀ははっきりと大極殿にてと記します。
従来説は、そして古田学派もこれを疑問視し、例えば岩波文庫の書紀の注は「大安殿の間違い」とします。
なぜなら皇極の宮である板葺宮跡からは大極殿は出ないからです。
でも書紀が嘘を書いていないのなら、大極殿でこの暗殺事件は起きた。
ここからは九州王朝説の出番です。
九州王朝説に立てばこの事件の場所は大和飛鳥ではなくて、九州の九州王朝の宮で起きたこと。そしてこの宮にはすでに大極殿があったということです。
ではこの宮はどこか?
この事件の直後に皇極は退位し弟の軽皇子が即位します(孝徳)。そして孝徳は遷都を宣言します。これが難波長柄豊碕宮。
従来説はこれを大阪の前期難波宮とします。
でも「主語有無の論証」で孝徳紀を読んでいくと、どう考えてもこれは飛鳥でも摂津でもなく、九州の宮です。
なんと孝徳は近畿天皇家の王族・廷臣挙げて九州に移ったことがわかります。
これは隋唐と対抗路線を取っている九州王朝を絶対的に支持する動き。
これに近畿天皇家内部から反対路線が出てきます。
最初は蘇我倉山田麻呂。
彼は飛鳥に戻っていたのですが、孝徳は反乱をでっち上げて彼を殺します。
この事件がきっかけで、孝徳の皇太子(次期大王)である葛城王(中大兄)が反旗を翻し、彼の母である前大王皇極と妹である孝徳の妃、さらに彼の弟(大海人)らと語らって飛鳥の宮に戻ってしまいます。
近畿天皇家の分裂です。
その中で孝徳は病にかかって死にます。その場は難波宮と書紀は記します。
通説派はこの宮と難波長柄豊碕宮を同一とします。
でもこれはおかしい。
書紀の記述ではいわゆる大化改新令が出ると同時に新都造営が始まります。そしてほぼこれが完成した時白雉改元が行われて、その後新都が完成します。書紀の記述は味経宮。
通説派はこの宮の場所は不明としています。
私はこれこそ太宰府政庁=大極殿と朝堂院を中心とした政庁のすぐ北にあった内裏のことだと思います。
では九州王朝がこの新都=味経宮:太宰府に移る前の首都はどこにあったか。
これこそ孝徳が死去した場所である難波宮だと考えます。
この宮は文字通り、博多湾岸の難波に作られた宮。
ここが乙巳の変が行われた宮で、ここが初めて大極殿が作られた宮。
だが発掘で見つかっていないので、完全に無視されている。
九州王朝で大極殿を持つ宮は
1:難波宮⇒2:味経宮(=太宰府)⇒3:飛鳥浄御原宮 の順です。
しかし太宰府に都した九州王朝は唐・新羅に敗れ勢力を失い近畿天皇家に吸収されます。
吸収した時の近畿大王は天智。
つまり天智が作った近江京こそは九州王朝のための都。
ここには大極殿があったに違いありませんが、中枢が掘られていないので未確認。
そして天智ー大友を倒した天武は、近江京に居た九州王朝天皇を飛鳥に伴って岡本宮に戻る。
ここで天武は岡本宮の南側に九州王朝天皇のための宮殿=エビノコ郭をつくる。
その後天武は九州王朝天皇のための本格的な大極殿もある条坊都市をつくろうとした。
これが前期難波宮と未完成に終わった難波京(上町台地は条坊都市を作るには狭い)。
だから天武紀の中の九州王朝の天皇の発した詔はここで出されたと思う。
だが九州王朝の天皇はずっと近畿にいたわけではない。
前にコメントしたが、天武紀で正月元旦の朝見礼が行われているのは一年毎。つまり九州王朝の天皇は前期難波宮ができてからも一年おきに九州に戻っていた。
どこに戻ったかというと例の難波宮。きっと太宰府は何らかの理由で使えなかったのだろう。
したがって九州王朝の天皇が九州に居たとき出した詔は難波宮で出されたはず。
だが天武15年に火災が起きて難波宮は焼亡した。
そこで九州王朝は新たな宮の造営に着手し、完成とともに年号も変えた。朱鳥に。
このときの新宮が飛鳥浄御原宮だと書紀は明記する。
この宮が天武が即位した宮だというのは書紀の偽装。
天武即位の時にはこの宮はない。だから後期岡本宮=飛鳥浄御原宮という通説は間違い。
天武死後の大王位を巡る混乱を収拾した持統は、本格的な九州王朝天皇のための大極殿を備えた条坊都市建設に着手する。
この新都が藤原京だ。
この新都完成の直前に九州王朝天皇は船で伊勢に行幸し、その後陸路で飛鳥に入り、おそらく岡本宮で新都完成を待ったはず。
そして新都=藤原京ができてからの九州王朝天皇の詔はここの大極殿で発せられたはずだ。
近畿天皇家の宮で大極殿の歴史は
1:天智の近江京⇒2:天武の難波宮⇒3:持統の藤原京
以上のことは書紀を「主語有無の論証」を使って精査すると明らか。
あとは大極殿を伴う宮が近畿にない時に、近畿にいた九州王朝天皇の詔がどこで出されたかだ?
仮設としては岡本宮の大安殿の代用だ。
でも近畿に大極殿を持つ宮がない時代には、九州王朝の天皇の詔は近畿では出されなかった可能性もある。
ここは書紀の精査で、九州王朝天皇の詔が出された時期と、難波宮や藤原京の完成時期を照らし合わせると判断可能だと思います。
最後に明らかなことは、九州王朝天皇から近畿大王持統の孫に天皇位が禅譲された場所は、藤原京であり、この儀式が行われたのは、藤原宮の大極殿だ。
投稿: 川瀬健一 | 2021年9月18日 (土) 00:08
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 いや、いつ大極殿が始まったか、どの宮に大極殿があったのかなかったのかも大事です。
そしてこれも「主語有無の論証」で明らかにできます。
それは興味深いことです。
〉 九州王朝で大極殿を持つ宮は
1:難波宮⇒2:味経宮(=太宰府)⇒3:飛鳥浄御原宮 の順です。
〉 だが九州王朝の天皇はずっと近畿にいたわけではない。
前にコメントしたが、天武紀で正月元旦の朝見礼が行われているのは一年毎。つまり九州王朝の天皇は前期難波宮ができてからも一年おきに九州に戻っていた。
〉 近畿天皇家の宮で大極殿の歴史は
1:天智の近江京⇒2:天武の難波宮⇒3:持統の藤原京
〉 最後に明らかなことは、九州王朝天皇から近畿大王持統の孫に天皇が禅譲された場所は、藤原京であり、この儀式が行われたのは、藤原宮の大極殿だ。
う~ん,このジェットコースターのような歴史の動きは,歴史教科書で学んだ内容とはまったく違う。
また,九州王朝説から学んでいる人にとっても,未知の知見だと思います。
私としては,矢印の入った地図がほしいところです。
あと,「一年おきに九州に戻っていた」というのは,古代の「参勤交代」のようなことなのでしょうか?
まさか,九州王朝の天皇が「一人旅」をすることはないでしょうから・・・莫大なお金が掛かったはずです。
投稿: 肥さん | 2021年9月18日 (土) 04:52