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2021年9月24日 (金)

最古の前方後円墳はどこ? もう「箸墓古墳」とは言えない?(検討中)

「箸墓古墳と同じくらい古い前方後円墳」を捜索中!

まず,最初に同じ纏向遺跡群の中の纏向石塚古墳。93m。箸墓古墳の3分の1。石原博信氏は,3世紀初頭(210年頃)と比定。

もう1つは,福岡県博多市の那珂八幡古墳。3世紀中頃。

さらにもう1つは,京都府向日市の五塚原古墳。3世紀中頃。

両方リンクしてみたので,記事を読んでみて下さい。

「箸墓古墳は我が国最古の前方後円墳である」とは,もう言えなくなってきた!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【福岡県・那珂八幡なかはちまん古墳】ウィキペディア「那珂八幡古墳」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

那珂八幡古墳

【京都府・五塚原いつかはら古墳】最古級の前方後円墳に石室 京都・向日で出土

https://www.sankei.com/article/20190917-W3ACFK4QVRJ6RKKDQ7AYJILMZQ/

そして,追加。

【兵庫県姫路市・丁瓢塚(よろひさごづか)古墳】古墳時代初期 98.8m

Hisagozuka Kofun (Himeji), zenkei-2.jpg

さらに,追加。

【筑前?権現塚古墳】(調査中)

何か,「ほぼ同じ頃スタートしている」ような気がしてきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一覧表をお借りしていた青松さんからもコメントが入りました。

「日本古代史つれづれブログ」サイトより

https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-188.html

20171210183052fd7.jpg

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 那珂八幡古墳。2世紀中頃ですか。衝撃的な年代ですね。
 肥沼さんは気が付いているかな?
 これは卑弥呼の100年前ということ。
 そして従来は古墳時代は3世紀からと考えられているから、3世紀中頃でも、かなり始まりの方なのだが、それよりずっと前ということは、弥生時代後半だ。
 この撥方古墳だということを確認した1985年の報告書があった。
 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/17159
 ここからダウンロードできる。
 ここでの年代比定は古墳時代前期初頭と考えたので3世紀中頃だった。これは土器編年ではない。

 でもこんなサイトがあった。
 https://koikoi2011.blog.fc2.com/blog-entry-937.html
 この記事の中に2019年の最新の発掘の結果が報告されており。
1:那珂八幡古墳はこれまで、後円部の直径と前方部の長さの比率が2:1の纒向型古墳とみられていたのだが、確定した比率は8:5で、纒向型とは違うプランの古墳であることが明らかになった。

 これは箸墓より古い纏向型のホタテ貝式古墳ではなくて、ずっと前方部が長くて高い箸墓型に近いのだというう意味。

2:出土した土器などから、3世紀半ばの古墳時代初頭、あるいは弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての過渡期に築造されたとみられ、九州最古の古墳である可能性も出てきたという。

 つまり弥生時代終末期だから2世紀台かもしれないという結論が出てきたと。

 いよいよ方位の考古学の結論と同じ結論が考古学の方からもでてきたね。

 表示されている全国最古級前方後円墳の一覧の古墳を方位の考古学で年代をずらしてみると、関東や四国にも2世紀台のものがでているね。

 やはり古墳時代の始まりは卑弥呼の時代である3世紀ではなくて、その前の2世紀台の可能性が高くなってきましたね。
 ということは確実に卑弥呼の墓は古墳だ。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  那珂八幡古墳。2世紀中頃ですか。衝撃的な年代ですね。
 肥沼さんは気が付いているかな?
 これは卑弥呼の100年前ということ。

はい,気が付きましたが,信じられないので「?」を付けてしまいました。(笑)

〉  やはり古墳時代の始まりは卑弥呼の時代である3世紀ではなくて、その前の2世紀台の可能性が高くなってきましたね。
 ということは確実に卑弥呼の墓は古墳だ。

はい,そういうことになりますね。
私たちが習った「歴史の常識」では考えられないことです。

那珂八幡古墳は三角縁神獣鏡が出ていますよ⁉️大丈夫ですか❓

上城さんへ

 三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡という通説的理解にたてば、この鏡が卑弥呼より前の時代の古墳から出土することはありえません。この観点からすれば、那珂八幡古墳が2世紀中頃との判定は大いにおかしなことと断定されます。
 しかしこの鏡の通説的理解に捕らわれなければ、この古墳が2世紀中頃ということが事実であれば、逆に三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏からもらった鏡という通説的理解が完全に否定されることになります。
 考古学も通説を一つ一つ再検証しなければいけない時期に来ていると思います。

肥沼さんへ

 古墳の年代を「方位の考古学」によって年代をずらす作業。一旦止めて、検証してください。
 那珂八幡古墳が3世紀中頃と判断された根拠は、土器編年ではありません。
 その撥型で前方部が短い纏向型前方後円墳と見られた墳形から、古墳時代前期初頭と考えたので3世紀中頃とされたのです。

 古墳の年代は土器編年によるものだけではなく、古墳の墳形から前期中期後期と判断されることも多く、これに基づいて絶対年代を出すこともおおいです。一つ一つ年代の根拠を確認する必要があります。

 またこの那珂八幡古墳の近年の発掘で、弥生時代終末期の古墳かもしれないという議論、つまり2世紀台の末の古墳かもしれないという議論が出てきているのは、この古墳から畿内の弥生時代末の土器が出ているからだと思います。そして土器の伝搬には年代差があるとの従来の考え方を捨てるべきだとの新しい考え方が古墳研究者の間で広がっているものと見られます。

 この新しい年代観で絶対年代を比定された古墳として肥沼さんが他のサイトから持ってきた一覧表の中の関東の上総・神門三号古墳があります。
 この古墳は3世紀前半から後半とありますが、この根拠はおそらく纏向型と同じ墳形であることと、同じ土器が出ているから、畿内の纏向型と同じ年代という判定だと思います。

 つまり発生期の古墳については、土器の普及に年代差はないという新しい年代観(これが方位の考古学の結論と同じもの)に基づいて正しく年代比定がされているものが出てきている可能性を示しています。
 これを100年動かして2世紀前半としてしまうと間違いとなる可能性大です。

 ということで
 古墳の年代を動かす作業を一旦止めて、一つ一つの古墳の年代が、土器編年に依拠したものなのかどうかを再検証することが必要だと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ということで
 古墳の年代を動かす作業を一旦止めて、一つ一つの古墳の年代が、土器編年に依拠したものなのかどうかを再検証することが必要だと思います。

「一旦止める」というのは良いのですが,どうやって「再検証」するのかが・・・。  

>「一旦止める」というのは良いのですが,どうやって「再検証」するのかが・・・。

一つ一つの古墳の名称でインターネット検索をかけて
1:その古墳の詳しい報告書
2:その古墳についての詳しいサイト
 などを見つけ出し、その古墳がどのようにして築造年代を推定されたかを調べるのです。

 たとえば「神門三号墳」で検索をかけると
1:https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/isekifile65.htm
 市原市埋蔵文化財調査センターのサイト
 弥生時代終末期の東海地方西部以西の特徴を持つ土器が出ていると記される。
2:file:///C:/Users/Owner/Downloads/KJ00003663832.pdf
 古墳時代の始まりを再検討した論文。この中に神門古墳群の詳細がしめされ、三つの古墳はみな弥生時代終末期から古墳時代前期との間に区分される土器が出土していることから、3世紀中葉前後と判定されたと明記される。 
 この判定方法は、土器の伝搬に時間差がないとの前提に立っていることに注意。

 こうした方法で地道に再検証するしかないです。

 やはり古墳時代については従来の土器編年を並行して、全国一斉に古墳は発生普及したとの考え方で再検証が進んでいるようです。
 つまり従来の土器普及に年代差があるとの観点の古い編年法による古墳と、この新しい編年法による古墳が併存しているの状況だとわかります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 やはり古墳時代については従来の土器編年を並行して、全国一斉に古墳は発生普及したとの考え方で再検証が進んでいるようです。
 つまり従来の土器普及に年代差があるとの観点の古い編年法による古墳と、この新しい編年法による古墳が併存しているの状況だとわかります。

箸墓古墳の場合も,「三世紀前半」「中頃」「後半」と意見が分かれているようです。
昨日買ってきた『邪馬台国の候補地・纏向遺跡』のなかで,著者の石野博信さんは,
「三世紀中葉説があるが,容認できない」と書いていました。

>箸墓古墳の場合も,「三世紀前半」「中頃」「後半」と意見が分かれているようです。

 箸墓古墳について意見が割れる理由は簡単です。
 この古墳は陵墓参考地なので宮内省の管轄。だから一度も学術的調査がされていない。
 墳形は航空写真や近年ではレーザー測量で正確にわかるが、年代を決めるのに必要な内部構造、つまり墓室の形式や大きさ、そして副葬品、さらには出土する土器や埴輪。こうした情報がないからです。
 たしか石野さんのご見解は、宮内省が所蔵する後円部の頂上で見つかった埴輪の破片でしょ。

 この墓の主が卑弥呼だと言いたい人は3世紀中頃説をとる。
 また撥型古墳ということで前方後円墳で一番古い型と言いたい人は3世紀前半という。
 そして今確認できる唯一の史料である埴輪を基準に考える人は3世紀後半という。

 前方後円墳の発展の歴史は
1:ホタテ貝式→2:ホタテ貝式+撥型(纏向型古墳だ)⇒3:前方部の長い撥型(これが箸墓古墳)⇒4:さらに前方部が高く大きくなる
 という発展の歴史であろうことはわかっている。
 箸墓は3の中の超巨大古墳。
 4が4・5世紀のものだから(畿内を基準)3の一番最後の方と考えると3世紀後半が形式からも一番妥当。これに埴輪の形式が加わった石野説は最も妥当だと思う。
 箸墓は土器が確認されていないから、年代決定が難しい。

 大型古墳の年代を決めるためには、天皇陵と陵墓参考地古墳が発掘されていないのが問題なのです。

先のコメントで示した「古墳時代の始まりを考える」という論文がとても興味深いです。その中の発生期の古墳一覧がとくに。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 前方後円墳の発展の歴史は
1:ホタテ貝式→2:ホタテ貝式+撥型(纏向型古墳だ)⇒3:前方部の長い撥型(これが箸墓古墳)⇒4:さらに前方部が高く大きくなる
 という発展の歴史であろうことはわかっている。
 箸墓は3の中の超巨大古墳。
 4が4・5世紀のものだから(畿内を基準)3の一番最後の方と考えると3世紀後半が形式からも一番妥当。これに埴輪の形式が加わった石野説は最も妥当だと思う。
 箸墓は土器が確認されていないから、年代決定が難しい。

 大型古墳の年代を決めるためには、天皇陵と陵墓参考地古墳が発掘されていないのが問題なのです。

最後は,その壁に当たってしまうのですね。
残念だなあ。

こんにちは。
初めてコメントします。

私のブログを引用いただいていることに気づきました。
ありがとうございます。

前方後円墳について、深い洞察をされているようですね。

質問なのですが、肥さんは、
那珂八幡古墳が、最古の前方後円墳と推測しているのでしょうか?

前方後円墳集成他によると、筑前では、
権現塚古墳が最古とされています。

他にも、神戸3号墳や萩原1号墳、下瓢塚墳なども古く、
どれが最古かは、何ともいえないところです。

土器編年では、同じ地域の古墳の前後はわかっても、
遠く離れた地域同士の前後は、断定できません。

結論を導くには、炭素同位体や地層年代など、
科学的な手法が必須だと考えてます。

青松さんへ
コメントありがとうございます。
また,大変お世話になっております。

〉 質問なのですが、肥さんは、
那珂八幡古墳が、最古の前方後円墳と推測しているのでしょうか?

前方後円墳集成他によると、筑前では、
権現塚古墳が最古とされています。

他にも、神戸3号墳や萩原1号墳、下瓢塚墳なども古く、
どれが最古かは、何ともいえないところです。

〈方位の考古学〉という考えで,年代比定の修正をしているのですが,
(この題名で検索すると,読むことができます)
どうも古い古墳には適用できないのかなあ,と・・・。
今は「ほぼ同時の発生」と考えた方がいいと考えています。
1番を見つけるのは,「労多くして得る所少なし」かと思います。
何しろ正解は1つしかありませんから・・・。
権現山古墳について調べてみたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

肥沼さんへ

>〈方位の考古学〉という考えで,年代比定の修正をしているのですが,
(この題名で検索すると,読むことができます)
どうも古い古墳には適用できないのかなあ,と・・・。

 古い古墳には方位の考古学が適用できないのではない。
 すでに古墳発生期の古墳については、考古学会の方で土器編年が修正され、土器の伝番に時間がかかるとの通説を否定し、同じ土器なら同じ年代と考え方を変えているので、方位の考古学を適用する必要がないということ。

 「古墳時代の始まりを考える」との論文は読みましたか?
 この論文に発生期の古墳一覧と地図が載っています。
 全国ほぼ一斉発生で良いと思います。

 でもこの古墳発生期ではない、もう少し新しい古墳は従来の土器編年法で年代比定されていると思います。一つ一つ確かめる必要があると思いますが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  古い古墳には方位の考古学が適用できないのではない。
 すでに古墳発生期の古墳については、考古学会の方で土器編年が修正され、土器の伝番に時間がかかるとの通説を否定し、同じ土器なら同じ年代と考え方を変えているので、方位の考古学を適用する必要がないということ。

〉 全国ほぼ一斉発生で良いと思います。

そうなんですね。

〉 でもこの古墳発生期ではない、もう少し新しい古墳は従来の土器編年法で年代比定されていると思います。一つ一つ確かめる必要があると思いますが。

はい。どこまで〈方位の考古学〉が有効なのかを知りたいです。

青松さんに質問

 貴サイトに掲載の「全国最古級前方後円墳一覧」ですが間違いと不明があります。

1:播磨 下瓢塚古墳 ⇒ 丁瓢塚古墳 の間違いではないでしょうか。

 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239008/1/shirin_071_6_982.pdf

2:筑前 権現山古墳 ⇒ いくら調べても前方後円墳で古墳前期で段築なし埴輪なし箱型石棺の条件にあう古墳がありません。
 福岡県にはいくつも「権現山古墳」という名のものはありますがみな円墳でした。
 一体どの古墳でしょう。

 場所は違いますが、権現山古墳 前方後円墳 古墳時代前期
 の条件にあうものは、茨城県神栖市の権現山古墳がありましたが。この間違いでは?
  

川瀬さんへ
質問です。

〉  「古墳時代の始まりを考える」との論文は読みましたか?
 この論文に発生期の古墳一覧と地図が載っています。
 全国ほぼ一斉発生で良いと思います。

この論文が見つかりません。

file:///C:/Users/Owner/Downloads/KJ00003663832.pdf

アドレスは,これで合っていますか?

肥沼さんへ

 大変失礼しました。
 掲載したアドレスは、私のパソコンにダウンロードしたところ。

 早稲田大学のサイトです。

 方法は「神門三号墳」で検索する。・・・・と7番目に出てくるのでクリックすれば自動的にダウンロードされます。

 ただしこの論文は引用してあるデータは参考になりますが、読めばわかるように近畿一元史観で書かれているので参考にはなりません。

>はい。どこまで〈方位の考古学〉が有効なのかを知りたいです。

 ここは自分で確かめる方法を考えていくしかないですね(とりあえず私は一つのヒントは見つけました)。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ここは自分で確かめる方法を考えていくしかないですね(とりあえず私は一つのヒントは見つけました)。

そうなんですか・・・。

肥沼さんへ

>〉 ここは自分で確かめる方法を考えていくしかないですね(とりあえず私は一つのヒントは見つけました)。
そうなんですか・・・。

 そうなんですか・・・で終わりかな?
 ご自分では考え付かない?
 ヒントはずっと前にやった「方位の考古学による土器編年修正の適用範囲」です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ヒントはずっと前にやった「方位の考古学による土器編年修正の適用範囲」です。

実年代が判明しているものについては,適用できないというやつですか?

>実年代が判明しているものについては,適用できないというやつですか?

 ちがいます。
 「適用範囲」という言葉に注意。いつからいつまでというやつ。

それでは,西偏が続いた450~1150年の700年間の方でしょうか?

>それでは,西偏が続いた450~1150年の700年間の方でしょうか?

 少し近づきました。
 この700年間のすべての期間で「方位の考古学」に基づく土器編年修正を適用できましたか?

 たしか年代は限られていたはず。

 上限はいつ?(古い方)

 下限はいつ?(新しい方)

川瀬健一さんへ

>1:播磨 下瓢塚古墳 ⇒ 丁瓢塚古墳 の間違いではないでしょうか。

ご指摘のとおりです。誤記してました。

>2:筑前 権現山古墳 ⇒ いくら調べても前方後円墳で古墳前期で段築なし埴輪なし箱型石棺の条件にあう古墳がありません。
 福岡県にはいくつも「権現山古墳」という名のものはありますがみな円墳でした。
 一体どの古墳でしょう。

糸島市にある権現塚古墳です。
前方後円墳集成(九州編)のP32,37を参照ください。

津和崎権現古墳とも呼ばれているようです。

青木さんへ 川瀬さんへ

「夢ブログ」に,津和崎権現古墳のことを掲載しました。
全長36mだそうですね。
小ささが古さを表すとしたら,今までで一番小さい(古い?)。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 少し近づきました。
 この700年間のすべての期間で「方位の考古学」に基づく土器編年修正を適用できましたか?

 たしか年代は限られていたはず。

 上限はいつ?(古い方)

 下限はいつ?(新しい方)

う~ん,思い出せません。
下限は太宰府を扱っていた頃の「焼土」のことかなあ?
もう寝る時間となってしまいました。おやすみなさい。

肥沼さんへ

>う~ん,思い出せません。
下限は太宰府を扱っていた頃の「焼土」のことかなあ?

 だいぶ近づいた。
 19年11月の古代史セミナーでの発表原稿を作った後、ポイントになるところの「想定問答集」をつくりました。これを見つけ出せば、上限・下限のことが書いてあります。

古代史セミナー(11/9―11/10)想定問答

1:畿内を中心として東西で100年中間地帯で50年編年がずらされていることがわかったというが、このずれの年代をどのようにして測定したのですか?

2:九州王朝の方位の変遷を、6世紀中頃を画期としてそれ以前を西偏、それ以後を東偏と判断した根拠はなんですか。同じく6世紀末から7世紀初頭にかけて正方位に替えたと判断した根拠はなんですか。

3:近畿天皇家は6世紀末までは九州王朝に倣って東偏だったが、その後は西偏に変更したとの判断の根拠はなんですか。また7世紀後半からは正方位に替えたとの判断の根拠はなんですか。

4:この50年から100年編年がずらされている現象は、実年代で、いつ頃からいつ頃まで続いたのでしょうか。

5:九州王朝が6世紀の中ごろに中国にならって東偏に変更したことの意味は何だとお考えですか。
同じく6世紀末から隋王朝の設計思想にならって正方位に替えたことの意味は何だとお考えですか。

6:太宰府の編年が7世紀末ではなく6世紀末に遡るとのことですが、これによって従来の太宰府理解にどのような変更が生まれるのでしょうか。

7:資料のB小郡官衙遺跡を、書紀孝徳紀にある小郡宮とした根拠はなんですか。

8:資料C有田・小田部遺跡の中の西偏の官衙を孝徳の難波長柄豊碕宮とした根拠はなんですか。

9:資料Fの岡山理科大学の磁気偏角データベースは、どのようなデータに基づいて算出したものなのでしょうか。またこの信憑性はどの程度なのでしょうか。

10:中国南朝や後漢・魏の都が東偏で作られた理由はなんでしょうか。またそれが隋以降は正方位に変わる理由は何でしょうか

11:資料のH2の漢魏洛陽城ですが、ここは南北に連なる地壇ー王宮ー天丘の線を基準とした都城の出現(東偏都城のはじまり) と説明されていますが、王宮は明示されていますが、地壇と天丘は明示されていません。どこにあるのでしょう。また王宮が二つ南北にあっても東西にずれていますので、この都城の中心の南北の軸線はどれでしょうか。

12:九州王朝は南朝や隋に倣って都を東偏や正方位にしたといいますが、九州王朝の都である太宰府には地壇・天丘はあるのでしょうか。同じように近畿天皇家の宮や、近畿王朝の都でも地壇・天丘はあるのでしょうか。

(肥沼)この12の内だと,4ということになりますか。
でも,私は答えられていないと思いますが…。

肥沼さんへ
>(肥沼)この12の内だと,4ということになりますか。
でも,私は答えられていないと思いますが…。

 そう4番です。ここの答えはどうなっていましたか?
 完全に記憶から抜けているのかな? きっと自分で答えられず、私の答えを丸暗記しようとしたからだろうね。

 パソコンのどこかに答えはないの?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 そう4番です。ここの答えはどうなっていましたか?
 完全に記憶から抜けているのかな? きっと自分で答えられず、私の答えを丸暗記しようとしたからだろうね。

いや,川瀬さんにご回答いただいたもの(7と8)については,手元のWordに記入してありますので,
これ(4)についてはなかったと思います。
12個の質問のうち2つの回答で,心細い気持ちで古代史セミナーに参加したことを思い出します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
7:資料のB小郡官衙遺跡を、書紀孝徳紀にある小郡宮とした根拠はなんですか。

★(2)小郡官衙(7世紀末~8世紀前半、8世紀後半)
 Ⅰ期以前:これは全部同じ方向をむいているので直交する主殿があると考えると東偏とも考えることができます。7世紀後半以前。どこまで遡れるかが鍵ですがヒントがないので西との東とも判断しにくい。
 Ⅰ期:3棟の正倉が同じ方向を向いているのでこれに直交する主殿があったと考えて西偏にされたのだと思いますが、3棟の正倉の長辺の向きと同じほうこう(つまり東向き)の官衙遺構があって、その中の脇殿の一つが東の方に一つ顔を見せているのかもしれません。東偏と判断します。7世紀後半。
この正倉の向きが14゜43´Wですから、逆の75°47′Eの東偏官衙かもしれません。
 Ⅱ期:SB804・・・36゜39'E を正殿と理解すると西偏63°51′になってしまう。この建物はむしろ西脇殿ではないだろうか。つまり東隣の正方位の正殿と北殿のあたりに、36゜39'E の東西棟の正殿があるのではないか。この視点で全体図を見ると、SB802とSB801の柱穴に交じって建物の軸が引かれていない大型の柱穴がいくつも存在する。これを正殿と見れば東偏でよい。このⅡ期官衙遺跡は、中庭の正殿と脇殿を、東西南北に長い建物で区切る形の古い宮殿形式だと思います。
 Ⅲ期:ここは明らかに正方位です。8世紀中葉~後半。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

8:資料C有田・小田部遺跡の中の西偏の官衙を孝徳の難波長柄豊碕宮とした根拠はなんですか。

★ 追伸
(1) 有田・小田部(有田) (7世紀後半~10世紀前半?)
 東偏官衙群と正方位官衙群。これは7世紀末から8世紀前半。100年ずらせば6世紀末から7世紀前半となり、九州王朝時代の最後を飾る時期。
 この時期に同時並行して存在した西偏の官衙群。
 これをどう理解したらよいか考えた。
 あと時代が50年あとならば8世紀初頭となり近畿王朝時代の官衙群と理解できる。
 でもそうではなく、周辺には九州王朝最盛期の東偏・正方位の官衙群が同時代に存在する。
解釈は二つある。
 一つはこの西偏官衙群が、先行する東偏もしくは正方位の官衙群を壊したあとにできたものである場合、先行する官衙群の遺物(土器や瓦)が大量に混ざった結果年代が先行する官衙群と同じになってしまった可能性。
 だが189次の図をみればわかるように、ここには先行する東偏や正方位の遺構は存在せず、むしろ後の時代の正方位の遺構しかないのだ。
 ここで想定できるもう一つの、唯一の解釈は、この西偏官衙群は近畿王朝の官衙だということ。そしてその最後の時代、7世紀前半と言えば、これは孝徳の難波長柄豊崎宮しかない。
 この遺跡群の位置を示す図を見てみる。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-14923/map1.jpg
 場所は室見川河口だ。そしてこの遺跡群の東側には、現在の博多大濠公園を含む広大な湾が存在した。古代の難波津だ。
 発掘報告書もこの遺跡を「那津官家」関連と考えている。
 この遺跡群は古代の難波津のすぐ西側の岸にあった可能性大である。
  ヤフー地図でこの場所を確認すると、189次発掘地のすぐ南200mほどは、室町後期の城・筑前小田部城推定地(有田宝満神社)で一帯は小高い丘である。この位置関係は孝徳の難波長柄豊崎宮にピッタリである。
 
 そして第189次の図を見れば(図10)
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-17839/up1.jpg
 西偏の官衙遺構の上に、ほぼ正方位の少し小型の建物群が乗っている。主殿SB04の大きな柱穴を切る、正方位の小型南北棟SB08の柱穴。そして北殿SB01の大きな柱穴もまた正方位の小型南北棟SB08の柱穴で切られている。
 この正方位の建物の詳細データが建物データにはないが、6世紀末から7世紀前半の西偏の建物を切る正方位の建物ということは、8世紀初頭(データで言えば9世紀初頭)の近畿王朝の正方位の官衙しか考えられず、こちらが早良郡衙と思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

幸か不幸か,古代史セミナーでは,川瀬さんが考えて下さったような質問はありませんでした。

肥沼さんへ

 多元的国分寺研究サークルのブログに中間まとめへの想定問題の答えがあります。
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2019/09/post-8fd28d.html#comments

 質問の1から5についてです。ご確認ください。

追伸

 質問6から9の答えは以下に。
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2019/10/post-ffbb3f.html

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私もやりとりしているので,当時の様子は思い出してきましたが,
なぜか質問についての回答案として受け取っていなかったようです。
というのは,あまりに長文になっているので,それを皆さんの前で読み上げる訳にもいかず,
川瀬さんがご指摘のように,要約能力のない私が要約してしゃべることは不可能と思ったので,
「回答案」として認識していなかったことによると思います。
なにしろ,発表時間20分・質問時間20分でしたから。
もう一度プリントし直して,読むことにしました。
なので,「地道」には,しばらく「非公開」としました。
もともと継ぎ足していくつもりで【工事中】みたいにしておいたと思うのですが,
どんどんコメントを入れてしまったために,私の能力を超えました。

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