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2021年9月 3日 (金)

「糟屋の屯倉」とは,どういう場所か?

磐井の乱の後の子の葛子が献上したという「糟屋の屯倉」とは,

正確にはわからないが,だいたい福岡市東区ということらしい。

実は,ここは古代史に登場するような有名なものが沢山ある地区なのである。

東区 (福岡市)位置図

宮地嶽古墳は,そこから北東にわずかな数キロのところ(紫色のところ)で,

「糟屋の屯倉」(福岡市東区とすると青色のところ)を献上するということは,

ほとんど息の根を止められたということと同じなのではないかと思った。

 

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ
>「糟屋の屯倉」(福岡市東区とすると青色のところ)を献上するということは,
ほとんど息の根を止められたということと同じなのではないかと思った。

 これはその北にある宮地嶽古墳が磐井の墳墓だと考えるからですね。

 でも糟屋がこの地なら、筑紫の中枢部の北部だよね。国生み神話の地である能古島の東側の地。
 ここが筑紫君である磐井一族の領土だったということですね。

 この能古島のすぐ南の地域が、那の津のある、もう一つの筑紫の中枢部だ。
 このもう一つの筑紫中枢部は誰のものだったのだろうか。

 さらに筑紫中枢部の一部を屯倉として献上された九州王朝の天皇の本拠地は、筑紫ではないことを示しているね。
 じゃあどこなのか?
 怪しいのは、磐井の反乱で天皇が逃げたのが長門だったということ。
 この時の九州王朝の天皇の本拠地は、周防・長門・豊前だったのじゃないかな?
 これに対して磐井一族の本拠地は、筑前と筑後。
 その筑前の中枢の一部を屯倉として献上させたわけだ。

 ここで大事なのは磐井一族の王家の墓の地である筑後は割譲されていない。

 だから乱の平定後、磐井の墓が作られたとしたら、それは本来の本拠である筑後八女しかないと思う。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 怪しいのは、磐井の反乱で天皇が逃げたのが長門だったということ。
 この時の九州王朝の天皇の本拠地は、周防・長門・豊前だったのじゃないかな?
 これに対して磐井一族の本拠地は、筑前と筑後。
 その筑前の中枢の一部を屯倉として献上させたわけだ。

なんか頭がくらくらしてきました。
「九州王朝の天皇の本拠地」なのに,九州島は豊前だけということなのですね。
「海峡国家」というか・・・。

肥沼さんへ

 わたしは「この時の九州王朝の天皇の本拠地は」と書いて、周防・長門・豊前としました。

 磐井は倭の五王の末裔にあたる九州王朝の王族の一人だと思います。
 彼の本拠地は筑前と筑後。

 さらに筑後の南の火の国は同じく九州王朝の王族の一人である火の君の本拠地です。

 この時期は孝徳紀にある常色改革のずっと以前なので、天皇と言えども全国を実際に支配していたわけではない。
 天皇の本拠地があるように、それぞれの王族の本拠地も、そして有力貴族の本拠地もある。それぞれが広大な私有地を領していた。

 つまり常色改革の前の九州王朝は有力豪族の連合国家。
 この有力豪族には、筑紫の君磐井や火の君のような王族もおれば、大伴氏・物部氏・阿部氏などの有力貴族もいる。近畿天皇家はずっと東の近畿地方を支配する九州王朝の王族。ただし近畿天皇家が近畿全体を私有地としていたわけではなく、その有力臣下である豪族と分け合っていた。

 私が指摘した周防・長門・豊前を本拠地とした(ただしこの地域全部を私有したわけではなく、ここにも有力家臣の豪族の私有地もあった)王族が磐井の乱のときの九州王朝の天皇だったというだけ。

 おそらく九州王朝の天皇位は、有力王族の間で行ったり来たりしていたのでしょう。王位継承の争い。
 これは近畿天皇家も同じで、書紀には、そして古事記にも、近畿天皇家内部の大王位継承の争いが詳しく記されている。
 これと同じことが九州王朝でもあったのでしょう。
 その一つが磐井の乱。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 おそらく九州王朝の天皇位は、有力王族の間で行ったり来たりしていたのでしょう。王位継承の争い。
 これは近畿天皇家も同じで、書紀には、そして古事記にも、近畿天皇家内部の大王位継承の争いが詳しく記されている。
 これと同じことが九州王朝でもあったのでしょう。
 その一つが磐井の乱。

なるほど,そういうことですか。

糟屋というのは古代には、相当広域であったと思われます。カスミという地名、カスヒ(香椎)カスガ、類縁地名だと思われます。日本書紀に書いてあるから、歴史事実であるというのは大丈夫なのでしょうか❓

上城さんへ
コメントありがとうございます。


肥沼さんへ

 上城さんのご指摘のように、糟屋郡は福岡市東区だけではなく、もっと広いです。
 ウィキペディアの糟屋郡の項を見ると、
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%9F%E5%B1%8B%E9%83%A1

 東区の東側に広がる、古賀市の地域が抜けていますね。

 なお上城さんの類似地名として挙げられた春日は
 糟屋郡の南にある那珂郡の一部ですね。

上城さんへ

 上城さんのコメント
>日本書紀に書いてあるから、歴史事実であるというのは大丈夫なのでしょうか
 これは磐井の息子葛子が糟屋屯倉を献上したと書紀がしるしていることは歴史的事実なのか?
 という意味でしょうか。

 この記述を疑った時点で、日本書紀を使って古代史を論じることはできなくなります。
 書紀が偽装しているのは、悠久の昔から列島の統治権は近畿天皇家にありということで、書紀に引用した九州王朝の事績もすべて近畿天皇家の事績に偽装しているだけ。
 糟屋屯倉を献上した先は九州王朝の天皇ですが、その献上先を近畿天皇家と読めるように偽装しているだけ。

 肥沼さんにも言いましたが、書紀は偽造の書ではありません。偽装の書です。
 書かれていることは歴史的事実として考えるしかありません。

 日本書紀以上に体系的に日本古代史を記した歴史的史料はありません。
 ただし様々な一次史料(詔や勅や表など)が原史料である外国の史書や九州王朝の史書「日本紀」から、注に引用したり本文に直接引用したりしてありますが、これを列島を悠久の昔から統治してきたのは近畿天皇家だという大義名分=この史書を編纂した目的に合わせて、全部近畿天皇家の事績だと読めるように偽装している。
 ここを注意しないと使えない史料です。
 これは編纂物である二次史料ならば当然のことです。

 九州王朝の正史「日本紀」が発見されれば別ですが。
 ただし「日本紀」もまた九州王朝の視点から一次史料を編集していることは確かです。

 プロの歴史家の多くも、そして古田史学の会などのアマチュアの歴史家の多くも、編纂物の歴史書が、歴史的事実を直接示す一次史料ではなく、一定の目的で一次史料を編纂加工している二次史料であることを忘れています。
 二次史料は、その編纂目的を確認し、その目的に沿ってどう歴史的事実を偽装しているかを判断しないと使えない。
 これが実証主義史学の方法論の史料批判の方法論です。

 この史料批判の方法論を理解していない人が、プロやアマの歴史家の多数を占めていることが大問題です。

肥沼さんへ

 上城さんに、書紀安閑紀・宣化紀の解読の件で連絡をとりたいとおもっています。
 上城さんのメールアドレスをおしえてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 上城さんに、書紀安閑紀・宣化紀の解読の件で連絡をとりたいとおもっています。
 上城さんのメールアドレスをおしえてください。

コメント欄が,名前もメールアドレスも,アドレスも任意になっていることもあると思いますが,
たいていの方は名前だけの投稿で,上城さんもメールアドレスを書かれていません。
ということで,私にもわかりません。

肥沼さんへ

 上城さんのメールアドレスの件。
 大下さんにお願いしたらメールを転送していただけて、先ほど上城さんとも直接連絡が付きました。
 お世話様。
 
 これからしばらくかけて書紀安閑紀・宣化紀精査を行います。
 お楽しみに。
 出来上がったらご連絡します。

 そうそう。上城さんがここを精査してほしい理由。
 磐井の乱も、安閑紀も宣化紀も、倭の五王とタリシヒコの間にあり、この流れを一貫して理解しないといけないから。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 これからしばらくかけて書紀安閑紀・宣化紀精査を行います。
 お楽しみに。
 出来上がったらご連絡します。

 そうそう。上城さんがここを精査してほしい理由。
 磐井の乱も、安閑紀も宣化紀も、倭の五王とタリシヒコの間にあり、この流れを一貫して理解しないといけないから。

そうですか。楽しみにしています。

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