エビノコ郭というものが,飛鳥宮にあった。だいぶ前に「夢ブログ」でも扱った。
本日「飛鳥宮跡解説書」(関西大学考古学研究室・二〇一七年)という資料を見ていたら,
大変気になる記述が書いてあったので,報告したい。
https://asukamura.jp/youtube/asukakyuseki.pdf
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「【Ⅲ―A期】
最上層にあるⅢ期遺構は、斉明・天智・天武・持統天皇が使用した後飛鳥岡本宮及び、飛鳥浄
御原宮と考えられています。Ⅲ期遺構は最上層に位置するため、詳細に遺跡の構造がわかって
います。遺跡の構造は大きく分けて宮殿の中枢部を成す内郭部分、内郭から東南部分に位置するエ
ビノコ郭、内郭とエビノコ郭を囲う外郭に分けることができます。またⅢ期の遺構は、このエビノ
コ郭の造営の前後によって、A期とB期に分けることができます。この内、Ⅲ―A期の遺構は斉明
天皇と天智天皇が使用した後飛鳥岡本宮と考えられています。
遺跡の中でも南北 197 m、東西 152 mの柱列で囲まれた部分が、宮殿中枢部を成す内郭です。
内郭は塀によって南北に区画されています。内郭南区画は砂利敷きとなっており、北区画では玉石
が敷かれるという違いから、南北の区画はそれぞれ使用目的が異なっていたと考えられます。
[1]内郭南区画
南区画中央には南北2間×東西5間の南門があり、その北側には南北4間×東西7間の大型建物
(第4・5図①)が建っていました。この大型建物の周りは砂利敷きになっていました。南区画東
部では南北 10 間×東西2間の南北棟建物跡(②)が2つ見つかっています。宮殿が左右対称の構
造であったと考えると、南区画西部にも同じ建物があったと考えられます。
[2]内郭北区画
北区画の南部には、廂ひさしが南北についた南北4間×東西8間の大型建物(③)があり、建物の東西
にはそれぞれ南北4間×東西3間の付属建物が建てられていました。大型建物と付属建物は、廊下
状建物によってつながっていました。また、この大型建物と全く同じ形の建物(④)が北区画中央
部分で発見されました。同様の構造は平城宮内裏の正殿においても類例が見られ、飛鳥時代から伝
統的にこのような形をとっていたと考えられます。
内郭北区画北部には掘立柱建物群が建ち並んでいます。北部中央部には長廊状の建物(⑤)が建っ
ており、その北には南北に廂を持つ二面廂建物(⑥)が2棟ありました。長廊状の建物の東西にも
二面廂建物がそれぞれ置かれています。二面廂建物の多くからは床を支えるための床ゆかづか束の跡が見つ
かっていることから、高床の建物であったと考えられます。内郭北区東北部には井戸が設けられて
おり、この井戸は、現在の遺跡で復元されています。
北区画は、宮殿の入り口である南門から奥まった位置にあることを考えると、外部の人々と接触
する機会が少なく、天皇にとって私的な居住空間の性格が強かったといえます。一方、南区画は入
り口に近く外部の人々が多く出入りするため、公的な儀礼や政治を行う場であったと考えられます。
[3]外郭
外郭の区画に関わる施設は、東側の南北に並んでいる掘立柱列と、北側を区画する可能性のある
石組みの溝が見つかっているのみです。東側の掘立柱列に沿って幅約 1.5 mの石組みの溝が設けら
れており、これを側そっこう溝とした幅約9mの道路があったことも確認されています。東側の整地土から
「辛しん巳し年」と書かれた木簡が見つかっています。「辛巳年」は天武 10(681)年を示すと考えられ、
東側石組み溝はこの木簡の年代から、天武 10 年以降に改修されたといえます。外郭の東西規模は、
東側の柱列から内郭の中心までの距離を参考に復元すると、約 372 mとなります。しかしこの復
元では西側の区画が飛鳥川を超えるため、Ⅲ期の宮殿は内郭を中心とした左右対象な構造ではな
かったという考えもあります。
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Ⅲ―A期
Ⅲ―B期
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【Ⅲ―B期】
Ⅲ―B期の遺構は天武・持統天皇が使用した飛鳥浄御原宮と考えられています。
内郭の多くはⅢ―A期の多くを継承し、周囲に新たに建物が付け加えられました。
またⅢ期宮殿の廃絶時には、外郭の区画施設となっている柱列は柱が抜き取られていましたが、
内郭部分の柱では切り取られているものが多く見つかっています。これは柱の腐食の程度に由来
し、柱の使用期間には差があったためと考え
られます。これらのことから、飛鳥浄御原宮
は後飛鳥岡本宮から改修される際に、エビノ
コ郭が設けられただけでなく、外郭の規模の
拡大も行われたと考える意見もあります。
[1]エビノコ郭
周囲に加えられた建物群のひとつとしてエ
ビノコ郭があります。エビノコ郭の造営の際
にはⅢ―A期の石組み溝の一部が埋め立てら
れました。その溝より出土する土器の年代か
ら、天智9(670)年前後に造営が始まった
と考えられます。区画内の中心には南北5間
×東西9間の廂を持つ大型建物(⑦)が建っ
ていました。この建物はエビノコ大殿とも呼ばれ、現在見つかっている飛鳥宮の建物遺構の中では
最大規模のものです。大型建物の周りは、内郭南区画と同じく砂利敷きになっています。この砂利
は3ヶ所敷かれていない部分があるため、床束は見つかっていないものの、高床建物であったと考
えられます。エビノコ郭は遺構の様子が内郭南区画の建物と類似するため、同様に政治や儀礼の場
として使われていたと考えられます。
エビノコ大殿の南東で柱跡が見つかったことにより、南北に長い脇殿が置かれていたと推定され
ます。そして大型建物と脇殿を塀が囲い、エビノコ郭として区画しています。柱列の東側は調査で
明らかになっていませんが、中心建物の中軸から左右反転した復元がなされ、南北 55 m、東西
94 mの規模であったと考えられます。掘立柱塀には門が設けられていますが、内郭のものとは異
なり、こちらでは西側に門がありました。南側に門を復元する意見もありますが、南側柱列ではそ
のような痕跡が見つかっていないため、西側の正門のみが存在したと考えられます。
このエビノコ郭がどのような役割を果たしていたかについては、様々な意見で展開されています。
次章では現在見つかっているこれらの遺構が、政治施設としてどのような役割をしていたのかを詳
しく見ていきましょう。」
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結局「様々な意見が展開されている」ということは,「結論が出ていない」ということだと思う。
さて,最近川瀬さんとの共同研究で,「日本書紀」の「詔」を調査した。
その「詔」を出したのは,九州王朝の天皇なのか,それとも近畿王朝の天皇(大王)なのか,という調査である。
(川瀬さんの提唱する「主語有無の論証」という方法で行った)
そうすると,かなり極端な結果が出た。斉明と天智ーー天武と持統のまず「詔」の量に注目してほしい。
(●が九州王朝の「詔」で,○が近畿天皇(大王)の「詔」)
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斉明紀 ●●●○○
天智紀 ●○○○○○
天武紀 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●● ○○○○○○○○○○ 王朝交代の為の諸制度
持統紀 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●○○○○ 王朝交代の為の諸制度
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圧倒的に,後ろの二人の「詔」の方が多いということがわかるだろう。
そして,次にその質についてみてもらおう。●が圧倒的に多い。これがいわゆる,「九州王朝系史料からの盗用」というやつである。
さて,今回の話の最後に,これらの「詔」を出した場所について触れておきたい。
白村江の戦いに敗れ,風前の灯火とはいえ,日本列島の主権者はまだ九州王朝の天皇だったと思う。
主権者しか出せないのが,「詔」である。
そして,その九州王朝の天皇が「詔」を出すにふさわしい場所はどこか?
それは南北五間×東西九間という最大規模の建物である飛鳥宮の「エビノコ郭」しかないと私は思う。
砂利敷き,西門のみ(九州王朝の天皇の専用)という事実も後押ししてくれるだろう。
もしかしたらそれは,近畿王朝の官僚の用意した「詔」を棒読みするだけだったのかもしれないが,
終末を迎えようとする九州王朝の天皇ができる最後の仕事が,数々の「詔」を読み上げることだったと私は想像する。
つまりエビノコ郭は,「近畿王朝」の「近畿王朝」による「近畿王朝」のための「詔」を,
飛鳥川に向かって出す為の,「虚しい晴れ舞台(主役の名前は隠されて)」だったのではないか・・・。
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手前の建物が,エビノコ郭。
エビノコ郭の南には,飛鳥川が流れるのみ。
この川のがけっぷちは,九州王朝のがけっぷちでもあり,未来はなかった・・・。
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