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2021年8月16日 (月)

日本国という国名について(川瀬さん)

 「日本国」という表記は神代の巻にも出て来るし神武紀からずっと使われているので、日本国表記がいつ始まったかの検証にはつかえない。
 でも「日本天皇」で検索すると、継体紀が最初。
 継体天皇の死を伝えた記述の後に注として、百済記に曰くとして・・・日本天皇と皇太子が死ぬという記事が出てくる。
 つまり継体と同時代の九州王朝天皇、おそらく磐井と戦った天皇から日本天皇と名乗っていたのであり、国名も日本国となったのだと思う。
 時代は6世紀半ば少し前。倭の五王の次の時代で、中国で北魏が南朝を圧迫し北を統一した時期。あとは南朝を抑え込めば統一中国が生まれるという時期。
 この時期に九州王朝は、年号を採用しているから、我こそは世界の中心と認識し、衰えた南朝に変わって東アジア世界の中心に躍り出ようとしたのでしょう。これは北魏に対抗してという意味でもある。
 日本国という国名。
 後にタリシホコが隋の皇帝に送った国書で、自らを「日出る国の天子」と名乗り、隋の皇帝を「日没する国の天子」としたことにつながる。
 どちらが優位と認識していたかわかりますね。

 だから一般的な情勢の変化ではなく、東アジアの国家間情勢が変化したことにともなう、国家意識の変化。

 倭国⇒日本国となったことで、倭=大和に変化する。
 つまり近畿天皇家の国号が倭国になるわけだ。
 この変化も継体紀の時代からと考えて良いと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(肥沼)考えてみると,「継体」という名称自体,かなり政治的な匂いを感じさせますね。

「前の王朝を継ぐ正当な立場」であるという自己主張です。

(「日本書紀」自体,そういう立場の書であって,決して正しい歴史を記している書とは言い難い。

「昔からこの国は天皇が治めて来た」という歴史思想書です。歴史教科書は「歴史」と勘違いしているが)

これは対内的にみると,悪逆・武烈天皇に代わる期待の星(五世の孫だけど)の登場ということであり,

対外的に見ると,南朝を継ぐ一の子分(というかなり過剰の自負)の出現ということでしょうか。

その主張が,国名の変更(日押し付けられた倭国→日本国)や年号の制定(九州年号の建元・517~712年)

にも表れてきて,都として太宰府を建設し,全国に6300キロの官道を張り巡らし,

白村江の戦いに乗じては,分家による本家のへ併呑・・・というかなりダイナミックな,

そして「事実は小説より奇なり」的な歴史を形作っていく・・・。

今孝徳紀の「詔」について「主語有無」という方法で検討していますが,これからどう展開するかますます楽しみです。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「肥沼コメント」は、九州王朝の事績・意識と、近畿天皇家の事績・意識がごっちゃに混在している。

1:継体(年号としての)は九州王朝の事績。最初の年号。西暦517年から21年。書紀の継体の時代。
 この年号を制定した意識はまさしく、正当な南朝を継ぐというもの。
 ⇒その主張が,国名の変更(日押し付けられた倭国→日本国)や年号の制定(九州年号の建元・512~700年)
にも表れてきて,都として太宰府を建設し,全国に6300キロの官道を張り巡らし,白村江の戦いにまで至る。

2:継体(天皇の中国風諡号としての)は、近畿天皇家が日本書紀を編纂するさいに、自らの王家の初代であるオオド王の諡号に、九州王朝年号の最初のものを借用した。
 この諡号に借用した意識は、武烈まで続いた前王朝を継ぐという意識。新たな王朝の創始という意味でもある。

 ←この近畿天皇家の意識は、「白村江の戦いに乗じては,分家による本家の併呑」に由来する。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  「肥沼コメント」は、九州王朝の事績・意識と、近畿天皇家の事績・意識がごっちゃに混在している。

そうですね。
【九州王朝】~
【近畿王朝】~
と分けて行かないといけませんでした。

肥沼さんへ
『日本書紀』ではじめて「日本」が現われるのは「大日本豊秋津洲」ですが、ここには「日本、此云耶麻騰」との割注があります。「日本」と書いてヤマトと訓むということです。最初にこうあるので『日本書紀』の日本は全てヤマトということです。
『古事記』はどうかと言うと「日本」は出現しません。『日本書紀』が「日本」と記述しているところ、例えば先の「大日本豊秋津洲」を『古事記』は「大倭豐秋津嶋」と、「神日本磐余彥天皇」を「神倭伊波禮毘古命」と、「日本武尊」を「倭建命」と、「白髮武廣國押稚日本根子天皇」を「白髮大倭根子命」と、「日本」は「倭」に変わっています。
成立順序から言うと、『古事記」の「倭」を『日本書紀』は全て「日本」に書き換えたことになります。
順序は別にして、普通に考えれば、日本も倭もヤマトと訓むのでしょう。
日本国内の人が自分の国の名を「ヤマト」と呼んでいて、その漢字表記に「倭」と「日本」があったとわけです。

次に、継体紀の「百済記に曰くとして・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨という記事」ですが、これは百済記にまさにその通りの記述があったという可能性と、百済記には「倭王と皇太子が死ぬ」と記述があったものを倭王を日本天皇に書き換えたという可能性があります。なぜならば、前述の通り『日本書紀』は「倭」を「日本」に全て書き換えているからです。どちらも可能性がありますので、この継体紀の記事をもってこの時期に「日本国」があったとするのは危険です。

服部さんへ
コメントありがとうございます。

〉 どちらも可能性がありますので、この継体紀の記事をもってこの時期に「日本国」があったとするのは危険です。

そうなんですか。川瀬さんはどのようにお考えでしょうか。

肥沼さんへ

 服部さんが指摘された
>『日本書紀』ではじめて「日本」が現われるのは「大日本豊秋津洲」ですが、ここには「日本、此云耶麻騰」との割注があります。「日本」と書いてヤマトと訓むということです。最初にこうあるので『日本書紀』の日本は全てヤマトということです。

 この日本=やまと との認識は、日本書紀編纂時、8世紀の日本国朝廷中枢の認識です。
 だから「古事記」の倭をすべて日本と書き換えた。

 しかし
 継体紀の注の百済記の「日本天皇」は、引用された史料ですから、
これを服部さんのように
>これは百済記にまさにその通りの記述があったという可能性と、百済記には「倭王と皇太子が死ぬ」と記述があったものを倭王を日本天皇に書き換えたという可能性があります。なぜならば、前述の通り『日本書紀』は「倭」を「日本」に全て書き換えているからです。どちらも可能性があります
 
 こう考えてしまうと、史料そのものを疑うということになり、ここからは歴史研究はできません。
 服部さんのご意見は、
 こんな早い時期に日本国と名乗っていたわけはない
 という認識が前提に有るものと思われます。

 日本書紀が引用した史料まで改変していると考えれば、この日本書紀を史料として歴史を考えることはできない。

 こういう結論になるからです。

 史料を根拠もなく自分の都合に合わせて改変する態度は、古田さんの依拠した実証主義歴史学ではないです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

服部さん,川瀬さんのご意見をうかがってどう思われたでしょうか?

論理では無くて、人格攻撃に持ち込まれるので、この回答で私からの発信は終ります。
「こんな早い時期に日本国と名乗っていたわけはないという認識が前提に有るものと思われます。」とされますが、先のコメントは、もう一つの可能性を根拠を付けて示しめしたのであって、上記を主張したものではありません。
2つの可能性があるのだから、これだけで断定してしまうのは危険だと言ったわけです。
他にも理由を探索・研究するか、見つからなければ一応断定までは避けておくべきでは、という話しです。
「こう考えてしまうと、史料そのものを疑うということになり、ここからは歴史研究はできません。」とされますが、
史料を疑いながら吟味して、信用できる部分を積み重ねていく、あるいは信用できるものを抽出していくという作業そのものが、私の歴史研究です。
「史料を根拠もなく自分の都合に合わせて改変する態度(ここは人格攻撃です)は、古田さんの依拠した実証主義歴史学ではないです。」とされますが、もう一つの可能性を示すという行為は、私のどのような都合にも合せていません。改変もしていません。
蛇足ですが、
古田先生が私たちに教えられたことは、『古代に真実を求めて』第二十四集の編集後記に示しました(ご参照下さい)が、人間の論理(道理)を根本におくこと、すべての用例をひとつひとう逐一再検証すること、の2つです。
判り易く言えば、普通の人の道理で判断してもらってそうだと納得してもらえるかどうか、そう納得してもらえる理屈が通っているかです。
次に、専門外だとか史料が無いとかと言って逃げずに、全てをあたって、そして先ずは疑い、自ら再検証するのが歴史研究で必要だと言われています。

服部さんへ
コメントありがとうございます。

お二人の議論が噛み合わないようですので,
このへんで「お開き」としたいと思います。

皆さん,ご自分のサイトを作って,そこでまず発表して下さいよ。
そうしたら,私もどんどんコメントを付けていきますから・・・。
以上です。

肥沼さんへ

 服部さん逃げましたね。
 注に引用された百済記で日本天皇および皇太子死す。
 この日本が書紀編纂の過程で倭⇒日本に改定された可能性があると服部さんは指摘。

 これはないです。
 地の文なら改変するでしょうが、史料を改変した時点で、その書物は歴史書ではありません。
 先ごろ肥沼さんと検証した孝徳紀に出てくる百済の王の言葉の中にも「日本天皇」とありますし、さらに引用された天皇の詔の中にも「日本天皇」とあります。
 服部さんの論理なら、これも本来は倭天皇とあったものを改変した可能性があるということになってしまいます。

 これでは地の文に引用した史料まで改変されているということになり、日本書紀は歴史史料としては使えないとなるということ。

 史料を疑うというのは歴史研究の基本ですが、
 これと「この史料は改変されている」とするのは異なります。

 私は地の部分の改変と史料の改変とは性格が異なると申し上げているのです。

 ここを服部さんに理解してもらえないのですから、議論がかみ合うはずはないですね。

 はい。

 お開きです。

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