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2021年8月30日 (月)

謎の人物「伊勢王」は,九州王朝の天子だったのか?

「日本書紀」には,「伊勢王」という不思議な人物がおり,10回登場してくる。

王というからには身分のある人物に思うが,「未詳官位」などと書いてあってかなり怪しい。

また,白雉(九州年号)に関する輿の持ち手として不自然な役割もさせられている。

(通常前後2人ずつ4人で輿は担ぐが,なぜか5人(前が2人・後ろが伊勢王を含む5人)で担いでいる)

前に「九州王朝の天子」であるということを聞いたことがあったが,

その時はそのままになってしまって,追跡はしないままだった。

今回「新古代学の扉」の検索で「伊勢王」と入れてみたら,すでにけっこう議論されているらしいことがわかった。

(48件ヒットした)

「伊勢王は薩夜麻の前代の九州王朝の天子で「専守防衛」の立場だったが,薩夜麻が開戦に走った」との解釈も。

検索してみたい方は「伊勢王」と入れてみて下さい。リンクしておきました。

http://www.furutasigaku.jp/msearch/msearch.cgi?query=%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%8E%8B

なお,「古田史学とme」サイトにも,伊勢王についての分析があり,こんなふうに書いてありました。

いずれの記事でも「淨大肆」という冠位(官位)が書かれています。この冠位は「六八五年」に定められたという「冠位四十八階」の十一番目のものでしかありません。しかし既に述べたように「伊勢王」と「弟王」については「天智紀」と「斉明紀」と二回ある「死亡記事」のいずれにも「薨」という語が使用されており、これは『書紀』『続日本紀』では「三位以上」の高位者のみに使用されるものですから、「諸王五位」あるいは「淨大肆」という「五位」程度の位階しかなかったように書かれている事には疑いが生ずることとなります。これは彼らが実際には「明位階」にあったことを示すものと思われ、「諸王」と云うより「親王」であったと考えられるわけです。

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(孝徳紀)白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸味經宮、觀賀正禮味經、此云阿膩賦。是日、車駕還宮。二月庚午朔戊寅、穴戸國司草壁連醜經、獻白雉曰、國造首之同族贄、正月九日、於麻山獲焉。於是、問諸百濟君、百濟君曰、後漢明帝永平十一年白雉在所見焉、云々。又問沙門等、沙門對曰、耳所未聞・目所未覩、宜赦天下使悅民心。道登法師曰「昔高麗、欲營伽藍、無地不覽。便於一所白鹿徐行、遂於此地營造伽藍、名白鹿薗寺、住持佛法。又白雀見于一寺田莊、國人僉曰休祥。又遣大唐使者持死三足烏來、國人亦曰休祥。斯等雖微尚謂祥物、況復白雉。」僧旻法師曰「此、謂休祥足爲希物。伏聞、王者旁流四表則白雉見。又王者祭祀不相踰・宴食衣服有節、則至。又王者淸素則山出白雉、又王者仁聖則見。又周成王時、越裳氏來獻白雉曰。吾聞、國之黃耈曰、久矣無烈風淫雨江海不波溢三年於茲矣、意中國有聖人乎、盍往朝之、故重三譯而至。又晉武帝咸寧元年、見松滋。是卽休祥、可赦天下。」是以白雉使放于園。

甲申、朝庭隊仗如元會儀、左右大臣百官人等爲四列於紫門外。以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時、左右大臣就執輿前頭、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎執輿後頭、置於御座之前。天皇卽召皇太子共執而觀、皇太子退而再拜。使巨勢大臣奉賀曰「公卿百官人等奉賀。陛下以淸平之德治天下之故、爰有白雉自西方出。乃是、陛下及至千秋萬歲淨治四方大八嶋。公卿百官及諸百姓等、冀磬忠誠勤將事。」奉賀訖再拜。

(斉明七年)六月、伊勢王薨。秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪。冬十月癸亥朔己巳、天皇之喪歸就于海。於是、皇太子泊於一所哀慕天皇、乃口號曰、

枳瀰我梅能 姑裒之枳舸羅儞 婆底々威底 舸矩野姑悲武謀 枳瀰我梅弘報梨

乙酉、天皇之喪還泊于難波。

(天智七)夏四月乙卯朔庚申、百濟遣末都師父等進調。庚午、末都師父等罷歸。五月五日、天皇縱獵於蒲生野。于時、大皇弟・諸王・內臣及群臣、皆悉從焉。六月、伊勢王與其弟王、接日而薨。未詳官位。

(天武十二)十一月甲申朔丁亥、詔諸國習陣法。丙申、新羅、遣沙飡金主山・大那末金長志、進調。十二月甲寅朔丙寅、遣諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八國・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、幷判官・錄史・工匠者等、巡行天下而限分諸國之境堺。然、是年不堪限分。庚午、詔曰、諸文武官人及畿內有位人等、四孟月必朝參。若有死病不得集者、當司具記申送法官。又詔曰、凡都城宮室、非一處必造兩參、故先欲都難波。是以、百寮者各往之請家地。

十三年春正月甲申朔庚子、三野縣主・內藏衣縫造二氏賜姓曰連。丙午、天皇、御于東庭、群卿侍之。時召能射人及侏儒・左右舍人等射之。二月癸丑朔丙子、饗金主山於筑紫。庚辰、遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地。是日、遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形、將都是地歟。三月癸未朔庚寅、吉野人宇閉直弓、貢白海石榴。辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。乙巳、金主山歸國。

夏四月壬子朔丙辰、徒罪以下皆免之。甲子、祭廣瀬大忌神龍田風神。辛未、小錦下高向臣麻呂爲大使・小山下都努臣牛甘爲小使、遣新羅。閏四月壬午朔丙戌、詔曰「來年九月必閲之、因以、教百寮之進止威儀。」又詔曰「凡政要者軍事也。是以、文武官諸人務習用兵及乘馬。則馬兵幷當身裝束之物務具儲足。其有馬者爲騎士・無馬者步卒、並當試練、以勿障於聚會。若忤詔旨、有不便馬兵亦裝束有闕者、親王以下逮于諸臣、並罰之。大山位以下者、可罰々之・可杖々之。其務習以能得業者、若雖死罪則減二等、唯恃己才以故犯者不在赦例。」又詔曰「男女並衣服者、有襴無襴及結紐長紐、任意服之。其會集之日着襴衣而長紐、唯男子者有圭冠々而着括緖褌。女年卌以上、髮之結不結及乘馬縱横、並任意也。別巫祝之類、不在結髮之例。」

壬辰、三野王等、進信濃國之圖。丁酉、設齋于宮中、因以赦有罪舍人等。乙巳、坐飛鳥寺僧福楊、以入獄。庚戌、僧福楊、自刺頸而死。

五月辛亥朔甲子、化來百濟僧尼及俗男女幷廿三人、皆安置于武藏國。戊寅、三輪引田君難波麻呂爲大使・桑原連人足爲小使、遣高麗。六月辛巳朔甲申、雩之。秋七月庚戌朔癸丑、幸于廣瀬。戊午、祭廣瀬龍田神。壬申、彗星出于西北、長丈餘。

冬十月己卯朔、詔曰、更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。是日、守山公・路公・高橋公・三國公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏賜姓曰眞人。辛巳、遣伊勢王等、定諸國堺。是日、縣犬養連手繦爲大使・川原連加尼爲小使、遣耽羅。

壬辰、逮于人定、大地震。舉國、男女叫唱不知東西、則山崩河涌、諸國郡官舍及百姓倉屋・寺塔神社、破壞之類不可勝數。由是、人民及六畜、多死傷之。時、伊豫湯泉、沒而不出、土左國田菀五十餘萬頃、沒爲海。古老曰、若是地動、未曾有也。是夕、有鳴聲如鼓、聞于東方、有人曰「伊豆嶋西北二面、自然増益三百餘丈、更爲一嶋。則如鼓音者、神造是嶋響也。」甲午、諸王卿等賜祿。

十一月戊申朔、大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部連・平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・栗田臣・石川臣・櫻井臣・采女臣・田中臣・小墾田臣・穗積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川邊臣・櫟井臣・柿本臣・輕部臣・若櫻部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・來目臣・犬上君・上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣・阿閉臣・林臣・波彌臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣・池田君・玉手臣・笠臣、凡五十二氏賜姓曰朝臣。

庚戌、土左國司言、大潮高騰・海水飄蕩、由是、運調船多放失焉。戊辰昏時、七星倶流東北則隕之。庚午日沒時、星隕東方大如瓮、逮于戌、天文悉亂以星隕如雨。是月、有星孛于中央、與昴星雙而行之、及月盡失焉。是年、詔、伊賀・伊勢・美濃・尾張四國、自今以後、調年免役・役年免調。倭葛城下郡言、有四足鶏。亦丹波國氷上郡言、有十二角犢。

十二月戊寅朔己卯、大伴連・佐伯連・阿曇連・忌部連・尾張連・倉連・中臣酒人連・土師連・掃部連・境部連・櫻井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連・三宅連・兒部連・手繦丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連・弓削連・神服部連・額田部連・津守連・縣犬養連・稚犬養連・玉祖連・新田部連・倭文連倭文此云之頭於利・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狹井連・爪工連・阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・菟道連・小治田連・猪使連・海犬養連・間人連・舂米連・美濃矢集連・諸會臣・布留連、五十氏賜姓曰宿禰。

癸未、大唐學生、土師宿禰甥・白猪史寶然、及百濟役時沒大唐者、猪使連子首・筑紫三宅連得許、傳新羅至。則新羅遣大奈末金物儒、送甥等於筑紫。庚寅、除死刑以下罪人皆咸赦焉。

十四年春正月丁未朔戊申、百寮拜朝庭。丁卯、更改爵位之號、仍増加階級。明位二階・淨位四階、毎階有大廣、幷十二階、以前諸王已上之位。正位四階・直位四階・勤位四階・務位四階・追位四階・進位四階、毎階有大廣、幷卌八階、以前諸臣之位。是日、草壁皇子尊授淨廣壹位、大津皇子授淨大貳位、高市皇子授淨廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子授淨大參位。自此以下諸王諸臣等、増加爵位各有差。

二月丁丑朔庚辰、大唐人・百濟人・高麗人、幷百卌七人賜爵位。三月丙午朔己未、饗金物儒於筑紫、卽從筑紫歸之、仍流着新羅人七口附物儒還之。辛酉、京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努、卒。壬申、詔、諸國毎家作佛舍、乃置佛像及經、以禮拜供養。是月、灰零於信濃國、草木皆枯焉。夏四月丙子朔己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不出也。丁亥、祭廣瀬龍田神。壬辰、新羅人金主山、歸之。庚寅、始請僧尼安居于宮中。

五月丙午朔庚戌、射於南門。天皇、幸于飛鳥寺、以珍寶奉於佛而禮敬。甲子、直大肆粟田朝臣眞人、讓位于父、然勅不聽矣。是日、直大參當麻眞人廣麻呂卒、以壬申年之功贈直大壹位。辛未、高向朝臣麻呂・都努朝臣牛飼等、至自新羅、乃學問僧觀常・雲觀從至之。新羅王獻物、馬二匹・犬三頭・鸚鵡二隻・鵲二隻及種種寶物。

六月乙亥朔甲午、大倭連・葛城連・凡川內連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河內漢連・秦連・大隅直・書連、幷十一氏賜姓曰忌寸。秋七月乙巳朔乙丑、祭廣瀬龍田神。庚午、勅定明位已下進位已上之朝服色、淨位已上並着朱花朱花此云波泥孺・正位深紫・直位淺紫・勤位深緑・務位淺緑・追位深蒲萄・進位淺蒲萄。辛未、詔曰、東山道美濃以東・東海道伊勢以東諸國有位人等、並免課役。八月甲戌朔乙酉、天皇幸于淨土寺。丙戌、幸于川原寺、施稻於衆僧。癸巳、遣耽羅使人等還之。

九月甲辰朔壬子、天皇宴于舊宮安殿之庭。是日、皇太子以下至于忍壁皇子、賜布各有差。甲寅、遣宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王於京及畿內、各令校人夫之兵。戊午、直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者・直廣肆石川朝臣蟲名爲東山使者・直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者・直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者・直廣參路眞人迹見爲南海使者・直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者、各判官一人・史一人、巡察國司・郡司及百姓之消息。

是日、詔曰、凡諸歌男・歌女・笛吹者、卽傳己子孫令習歌笛。辛酉、天皇、御大安殿、喚王卿等於殿前以令博戲。是日、宮處王・難波王・竹田王・三國眞人友足・縣犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋、凡十人賜御衣袴。壬戌、皇太子以下及諸王卿、幷卌八人賜羆皮山羊皮、各有差。癸亥、遣高麗國使人等還之。丁卯、爲天皇體不豫之、三日誦經於大官大寺・川原寺・飛鳥寺、因以稻納三寺各有差。庚午、化來高麗人等賜祿各有差。

冬十月癸酉朔丙子、百濟僧常輝封卅戸、是僧壽百歲。庚辰、遣百濟僧法藏・優婆塞益田直金鍾於美濃、令煎白朮、因以賜絁綿布。壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。甲申、以淨大肆泊瀬王・直廣肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、幷廿人任於畿內之役。己丑、伊勢王等亦向于東國、因以賜衣袴。是月、說金剛般若經於宮中。

十一月癸卯朔甲辰、儲用鐵一萬斤、送於周芳總令所。是日、筑紫大宰、請儲用物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐵一萬斤・箭竹二千連、送下於筑紫。丙午、詔四方國曰、大角小角鼓吹幡旗及弩抛之類、不應存私家、咸收于郡家。戊申、幸白錦後菀。丙寅、法藏法師・金鍾、獻白朮煎。是日、爲天皇招魂之。己巳、新羅、遣波珍飡金智祥・大阿飡金健勳、請政、仍進調。

十二月壬申朔乙亥、遣筑紫防人等、飄蕩海中皆失衣裳、則爲防人衣服以布四百五十八端、給下於筑紫。辛巳、自西發之地震。丁亥、絁綿布以施大官大寺僧等。庚寅、皇后命以、王卿等五十五人賜朝服各一具。

朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯、御大極殿而賜宴於諸王卿。是日詔曰、朕問王卿以無端事、仍對言得實必有賜。於是、高市皇子、被問以實對、賜蓁揩御衣三具・錦袴二具、幷絁廿匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端。伊勢王、亦得實、卽賜皁御衣三具・紫袴二具・絁七匹・絲廿斤・綿卌斤・布卌端。是日、攝津國人百濟新興、獻白馬瑙。庚戌、請三綱律師及大官大寺知事・佐官、幷九僧、以俗供養々之、仍施絁綿布各有差。辛亥、諸王卿各賜袍袴一具。甲寅、召諸才人・博士・陰陽師・醫師者、幷廿餘人、賜食及祿。

乙卯酉時、難波大藏省失火、宮室悉焚。或曰、阿斗連藥家失火之引及宮室。唯、兵庫職不焚焉。丁巳、天皇御於大安殿、喚諸王卿賜宴、因以賜絁綿布各有差。是日、天皇問群臣以無端事、則當時得實重給絁綿。戊午、宴後宮。己未、朝庭大酺、是日、御窟殿前而倡優等賜祿有差、亦歌人等賜袍袴。庚申、地震。是月、爲饗新羅金智祥、遣淨廣肆川內王・直廣參大伴宿禰安麻呂・直大肆藤原朝臣大嶋・直廣肆境部宿禰鯯魚・直廣肆穗積朝臣蟲麻呂等于筑紫。

二月辛未朔甲戌、御大安殿、侍臣六人授勤位。乙亥、勅、選諸國司有功者九人授勤位。三月辛丑朔丙午、大辨官直大參羽田眞人八國、病、爲之度僧三人。庚戌、雪之。乙丑、羽田眞人八國卒、以壬申年之功贈直大壹位。

夏四月庚午朔丁丑、侍醫桑原村主訶都授直廣肆、因以賜姓曰連。壬午、爲饗新羅客等、運川原寺伎樂於筑紫、仍以皇后宮之私稻五千束、納于川原寺。戊子、新羅進調、從筑紫貢上、細馬一匹・騾一頭・犬二狗・鏤金器、及金銀霞錦綾羅虎豹皮、及藥物之類、幷百餘種。亦智祥・健勳等、別獻物、金銀霞錦綾羅金器屏風鞍皮絹布藥物之類、各六十餘種、別獻皇后・皇太子及諸親王等之物各有數。丙申、遣多紀皇女・山背姬王・石川夫人於伊勢神宮。

五月庚子朔戊申、多紀皇女等至自伊勢。是日、侍醫百濟人億仁、病之臨死、則授勤大壹位、仍封一百戸。癸丑、勅之大官大寺封七百戸、乃納税卅萬束。丙辰、宮人等増加爵位。癸亥、天皇始體不安、因以於川原寺說藥師經、安居于宮中。戊辰、饗金智祥等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫退之。是月、勅遣左右大舍人等掃淸諸寺堂塔、則大赦天下、囚獄已空。

六月己巳朔、槻本村主勝麻呂賜姓曰連、仍加勤大壹位、封廿戸。庚午、工匠・陰陽師・侍醫・大唐學生及一二官人、幷卅四人授爵位。乙亥、選諸司人等有功廿八人、増加爵位。戊寅、卜天皇病、祟草薙劒、卽日送置于尾張國熱田社。庚辰、雩之。甲申、遣伊勢王及官人等於飛鳥寺、勅衆僧曰、近者朕身不和、願頼三寶之威、以身體欲得安和。是以、僧正僧都及衆僧、應誓願、則奉珍寶於三寶。是日、三綱律師及四寺和上・知事、幷現有師位僧等、施御衣御被各一具。丁亥、勅之遣百官人等於川原寺爲燃燈供養、仍大齋之悔過也。丙申、法忍僧・義照僧、爲養老各封卅戸。庚寅、名張厨司災之。

秋七月己亥朔庚子、勅、更男夫着脛裳・婦女垂髮于背、猶如故。是日、僧正僧都等、參赴宮中而悔過矣。辛丑、詔諸國大解除。壬寅、半減天下之調、仍悉免徭役。癸卯、奉幣於居紀伊國々懸神・飛鳥四社・住吉大神。丙午、請一百僧讀金光明經於宮中。戊申、雷光南方而一大鳴、則天災於民部省藏庸舍屋。或曰、忍壁皇子宮失火延燒民部省。癸丑勅曰、天下之事、不問大小、悉啓于皇后及皇太子。是日、大赦之。甲寅、祭廣瀬龍田神。丁巳詔曰、天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者、乙酉年十二月卅日以前、不問公私皆免原。

戊午、改元曰朱鳥元年朱鳥此云阿訶美苔利、仍名宮曰飛鳥淨御原宮。丙寅、選淨行者七十人以出家、乃設齋於宮中御窟院。是月、諸王臣等、爲天皇造觀世音像、則說觀世音經於大官大寺。

八月己巳朔、爲天皇、度八十僧。庚午、度僧尼幷一百、因以、坐百菩薩於宮中、讀觀世音經二百卷。丁丑、爲天皇體不豫、祈于神祗。辛巳、遣秦忌寸石勝、奉幣於土左大神。是日、皇太子・大津皇子・高市皇子各加封四百戸、川嶋皇子・忍壁皇子各加百戸。癸未、芝基皇子・磯城皇子各加二百戸。己丑、檜隈寺・輕寺・大窪寺各封百戸、限卅年。辛卯、巨勢寺封二百戸。

九月戊戌朔辛丑、親王以下逮于諸臣悉集川原寺、爲天皇病誓願、云々。丙午、天皇、病遂不差、崩于正宮。戊申、始發哭、則起殯宮於南庭。辛酉、殯于南庭、卽發哀。當是時、大津皇子、謀反於皇太子。

甲子平旦、諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日、肇進奠卽誄之。第一大海宿禰荒蒲、誄壬生事。次淨大肆伊勢王、誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴、總誄宮內事。次淨廣肆河內王、誄三月己未朔己卯、以花縵進于殯宮、藤原朝臣大嶋誄焉。五月戊午朔乙丑、以百濟敬須德那利、移甲斐國。六月戊子朔戊戌、詔「令天下、繋囚極刑減本罪一等、輕繋皆赦除之。其令天下皆半入今年調賦。」秋七月丁巳朔丁卯、大雩。旱也。丙子、命百濟沙門道藏請雨、不崇朝、遍雨天下。八月丁亥朔丙申、嘗于殯宮而慟哭焉、於是、大伴宿禰安麻呂誄焉。丁酉、命淨大肆伊勢王、奉宣葬儀。辛亥、耽羅王遣佐平加羅、來獻方物 左右大舍人事。次直大參當麻眞人國見、誄左右兵衞事。次直大肆采女朝臣竺羅、誄內命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人、誄膳職事。乙丑、諸僧尼亦哭於殯庭。是日、直大參布勢朝臣御主人、誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂、誄法官事。次直大肆大三輪朝臣高市麻呂、誄理官事。次直廣參大伴宿禰安麻呂、誄大藏事。次直大肆藤原朝臣大嶋、誄兵政官事。

(持統2)三月己未朔己卯、以花縵進于殯宮、藤原朝臣大嶋誄焉。五月戊午朔乙丑、以百濟敬須德那利、移甲斐國。六月戊子朔戊戌、詔「令天下、繋囚極刑減本罪一等、輕繋皆赦除之。其令天下皆半入今年調賦。」秋七月丁巳朔丁卯、大雩。旱也。丙子、命百濟沙門道藏請雨、不崇朝、遍雨天下。八月丁亥朔丙申、嘗于殯宮而慟哭焉、於是、大伴宿禰安麻呂誄焉。丁酉、命淨大肆伊勢王、奉宣葬儀。辛亥、耽羅王遣佐平加羅、來獻方物

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朝日日本歴史人物事典 - 伊勢王の用語解説 - 生年:生没年不詳7世紀後半の皇親。天武12(683)年工匠らと共に巡行して諸国の境界を分けた。時に諸王五位。朱鳥1(686)年1月天武天皇の質問によく答えて御衣,袴などを賜った。

 

 

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コメント

肥沼さんへ

 伊勢王ですか。
 古田史学の会の方たちは史料を信じてかつ精査していませんね。
1:伊勢王が最初に出てくるのは
 白雉改元のきっかけとなった穴戸国司による白雉献上の儀式だ。その白雉が乗った輿を殿舎の前まで運ばせて、そこから天皇の御前に運ぶ役の一人。輿の前は左右大臣が持ち、輿の後ろを持つ三人の中に伊勢王が。
 651年。場所は味経宮。
 この一連の記事の冒頭の正月拝賀の儀式からずっと主語が省略されている。
 味経宮に行く主体は「車駕」という天子の乗り物で示し、白雉献上の意味を様々なものに問う主体も省略されている。
 これは明らかに九州王朝の事績だ。
 つまり伊勢王とは九州王朝の王族の一人。それもかなり高位の皇族。

2:伊勢王の死去の記事。薨去という高位の貴族にしか使わない言葉でその死が示される。
 斉明7年・661年。先の記事から10年後。二人は同一人物だろう。

3:伊勢王と弟王が同時に死んだ記事。ここも薨去なので高位の貴族。
 この記事の年次は天智7年。669年。2の記事の8年後だから別の人物。おそらく代々「伊勢王」の名を継ぐ皇族がいたということだ。これも九州王朝の王族。これを示す証拠が「未詳官位」だ。

4:諸国の境を明らかにするために派遣された貴族の中に伊勢王が。天武12年。683年。2の記事からは14年。2の弟と共に死んだ伊勢王とは別人。このことも「伊勢王」の中が継承されていることを示す。
 この時の位は「諸王五位」。それほど高い身分ではない。
 この使いを送った記事は「遣」という天子の行為を示す特殊な用語を使い主語を省略しているから九州王朝天皇の行為。翌年天武13年にも伊勢王は諸国に派遣されている。14年10月にも伊勢王は東国に派遣。このとき彼に「賜衣袴」とあるから天皇から衣服を賜っている。「賜」という天子特有の用語を使って主語を省略しているから、この賜も派遣も主語は九州王朝天皇。

5:天皇が大極殿で廷臣に様々な質問をして答えられたら褒美を与えるという記事。この時褒美をもらった一人が伊勢王。この記事は「御大極殿」と、「御」=おわすという天子特有の用語を使って主語を省略しているから、九州王朝天皇の行為。ここに見える伊勢王も九州王朝の廷臣である。
 年代は朱鳥元年。686年。 4の最後の記事の翌年。これらも同一人物。この年の6月に今度は飛鳥寺に派遣されているから、この時期伊勢王は九州王朝廷臣であるとともに、近畿天皇家の廷臣でもあったのではないか。

6:この年の9月、近畿大王天武が死去した際に、殯の宮での偲び事を二番目に諸王を代表して述べたのが伊勢王。

7:持統2年の記事。6の2年後で同じく天武の葬儀を執り行うことを命じられたのが伊勢王。ここの記事も葬儀を命じた主体が省略されているので、これは九州王朝の天皇の命令であったと思われる。
 天武紀・持統紀での伊勢王の位は淨大肆。48階の11番目。高位だが最も高いグループではない。

 書紀に出てくる伊勢王は三人いる。
 最初と二人目は九州王朝の高位の廷臣として。
 三人目は九州王朝と近畿天皇家の両方の廷臣として仕えた貴族。高級貴族ではあるが、トップクラスではない。多分大臣クラスの次。
 しかし近畿大王天武の葬儀を取り仕切ったのだから、かなりの重要な人物。

 伊勢王の名はすくなくとも三代にわたって継承されていると思われる。

 以上が史料を信じてかつ詳細に分析してわかることだ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 書紀に出てくる伊勢王は三人いる。
 最初と二人目は九州王朝の高位の廷臣として。
 三人目は九州王朝と近畿天皇家の両方の廷臣として仕えた貴族。高級貴族ではあるが、トップクラスではない。多分大臣クラスの次。
 しかし近畿大王天武の葬儀を取り仕切ったのだから、かなりの重要な人物。

 伊勢王の名はすくなくとも三代にわたって継承されていると思われる。

「伊勢王」の継承という発想は,これまでの議論にはなかったと思います。
そういえば,「竹内宿禰」というのも,560歳と聞いたことがあるが,襲名していたとすればうなづける。

>「竹内宿禰」

 正しくは「武内宿祢」ですね。

 「伊勢王の名はすくなくとも三代にわたって継承されていると思われる。」
 という結論は、根本史料である「日本書紀」をいじらずに、史料状況に嘘はないと信じて行った分析の結果です。
 通常は伊勢王死亡記事が二度あるので、これを史料の間違いと断じてしまう。
 だがよく見ると内容が異なる。
 一度目の記事は、伊勢王一人が薨去。
 二度目の記事は、伊勢王とその弟王が同時に薨去。
 これは異なる出来事だ。
 そして二度目の薨去記事のあとにも伊勢王が出現するのだから、当然結論は「伊勢王」は三人いる。
 つまり「伊勢王との名が継承されている」。
 史料をいじらずその記述を信じて素直に読めば、この結論以外ない。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 正しくは「武内宿祢」ですね。

そうです。失礼しました。昔「お札」の顔にもなっていました。

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