「日本書紀」の中で最初の「詔」と最後の「詔」
先日594年にまつわって,推古紀二年の「詔」は「主語有無」(九州王朝の天皇が主語)ではないかということで,
これは大当たりだった。
その後,「そういえば東山道のところでも「詔」(彦狭嶋王の息子を都督に命じた?)が使われていた」ということを思い出した。
やはり天皇の関係だけあって「詔」が多い。もしかしたら,「詔」の多くが「主語有無」だったりして・・・。
調べてみたら,「日本書紀」全文検索で「詔」は403個あった。(欽明44,孝徳45,天武63,持統51)
また,「賜」も多くて329個だった。
ここでは,一番多いと思われる「詔」について考えてみる。
全文検索で一番最初に出て来る「詔」は,神武天皇のところに出て来る。(なんと,スタートから「主語有無」!?)
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四年春二月壬戌朔甲申、詔曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。
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また,全文検索で一番最後に出て来る「詔」は持統天皇のところである。
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十一年春正月甲辰、饗公卿大夫等。戊申、賜天下鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者、稻各有差。癸丑、饗公卿百寮。二月丁卯朔甲午、以直廣壹當麻眞人國見爲東宮大傅、直廣參路眞人跡見爲春宮大夫、直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。三月丁酉朔甲辰、設無遮大會於春宮。
夏四月丙寅朔己巳、授滿選者、淨位至直位、各有差。壬申、幸吉野宮。己卯、遣使者祀廣瀬與龍田。是日、至自吉野。五月丙申朔癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。
六月丙寅朔丁卯、赦罪人。辛未、詔讀經於京畿諸寺。辛巳、遣五位以上、掃灑京寺。甲申、班幣於神祇。辛卯、公卿百寮、始造爲天皇病所願佛像。癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。秋七月乙未朔辛丑夜半、赦常𨰃盜賊一百九人、仍賜布人四常、但外國者稻人廿束。丙午、遣使者祀廣瀬與龍田。癸亥、公卿百寮、設開佛眼會於藥師寺。
八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。(ここで「日本書紀」は終わり)
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これも,「主語有無」の論証により,九州王朝の天皇のものということなのでしょう。
となると,「詔」は「日本書紀」の最初から最後まで利用されているということになるかもしれません。(403分のどれくらい?)
また,最後の一文についてはいろいろ議論があったと思いますが,今は思い出せないのでごめんなさい。
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PS 服部さんの「本薬師寺は九州王朝の寺」の話は,上記の藥師寺(青色)と関係するのでしょうかね。
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肥沼さんへ
冒頭の神武紀4年の詔。
この前後の記事とは独立した記事なので、詔を出した主体が省略されていることから、九州王朝の事績からの盗用でしょうね。岩波本の注に、この記事は古事記にはない記事だと記されいることが傍証でしょう。
最後の持統紀の11年6月の詔。
この詔は、すぐ後にくる記事「公卿百寮、始造爲天皇病所願佛像」と対応したものでしょう。
そしてここに突如出てくる「天皇」は持統のこと。
近畿天皇家の大王が病に伏した。だから都周辺の寺院でお経を読ませ、官人たちを派遣して寺を清めさせ、さらに病気平癒を願って仏像を作らせた。
仏像を作らせたことの主語は「公卿百寮」。近畿天皇家の高級官人たち。
これ以外の、経を読ませたり、寺院清掃のために官人を送ったり、神社に幣を送ったりした主体はすべて省略されているから、命令の主体は九州王朝の天皇でしょう。
薬師寺で「天皇病気平癒」のために作られた仏像の開眼供養。この主語は「公卿百寮」なのでこれは近畿天皇家の記事です。
したがってこれらの記事を根拠にして薬師寺は九州王朝のための寺院とは言えません。
最後の記事
「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」
は文武即位にかかわる記事。
定説は持統が孫の皇太子に位を譲ったと読む。
わたしは
持統が宮中で大王の跡継ぎを定め、その皇太子に九州王朝天皇をして天皇位を譲らせた
と読んだ記事だ。
403個の詔の全部に主語があるかないかくらいは、検証可能では?
投稿: 川瀬健一 | 2021年7月 3日 (土) 13:00
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 最後の記事
「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」
は文武即位にかかわる記事。
定説は持統が孫の皇太子に位を譲ったと読む。
わたしは
持統が宮中で大王の跡継ぎを定め、その皇太子に九州王朝天皇をして天皇位を譲らせた
と読んだ記事だ。
そうでした,そうでした。
〉 403個の詔の全部に主語があるかないかくらいは、検証可能では?
そうですね。やってみますか。
投稿: 肥さん | 2021年7月 3日 (土) 21:49