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2021年7月 3日 (土)

主語があるかないか(1)

「日本書紀」に出て来る400程の「詔」に主語があるかないか,

つまり主語があるのが近畿王朝の天皇で,ないのが九州王朝の天皇(近畿の盗用)だという仮説で

「日本書紀」を読んでみようという試みである。

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【神武紀1】

四年春二月壬戌朔甲申、詔【なし】曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

【崇神紀9】

四年冬十月庚申朔壬午、詔【なし】曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」

五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭、然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭。

七年春二月丁丑朔辛卯、詔【なし】曰「昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、蓋命神龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」

時、得神語隨教祭祀、然猶於事無驗。天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿內而祈之曰「朕、禮神尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。」是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主神曰「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。」

秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢而奏言「昨夜夢之、有一貴人誨曰『以大田々根子命爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。』」天皇、得夢辭、益歡於心、布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」天皇曰「朕當榮樂。」乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者、吉之。又卜便祭他神、不吉。

十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄而以物部八十平瓮作祭神之物。卽以大田々根子爲祭大物主大神之主、又以長尾市爲祭倭大國魂神之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・國社及神地・神戸。於是、疫病始息、國內漸謐、五穀既成、百姓饒之。

八年夏四月庚子朔乙卯、以高橋邑人活日、爲大神之掌酒。掌酒、此云佐介弭苔。冬十二月丙申朔乙卯、天皇、以大田々根子令祭大神。是日、活日、自舉神酒、獻天皇。仍歌之曰、

許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺 椰磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐

如此歌之、宴于神宮。卽宴竟之、諸大夫等歌之曰、

宇磨佐開 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 伊弟氐由介那 瀰和能等能渡塢

於茲、天皇歌之曰、

宇磨佐階 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 於辭寐羅箇禰 瀰和能等能渡烏

卽開神宮門而幸行之。所謂大田々根子、今三輪君等之始祖也。

九年春三月甲子朔戊寅、天皇、夢有神人誨之曰「以赤盾八枚・赤矛八竿、祠墨坂神。亦以黑盾八枚・黑矛八竿、祠大坂神。」四月甲午朔己酉、依夢之教、祭墨坂神・大坂神。

十年秋七月丙戌朔己酉、詔【なし】群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔【なし】之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、大彥命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彥命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、

瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓鳥塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望
一云「於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望」

於是、大彥命異之、問童女曰「汝言何辭。」對曰「勿言也、唯歌耳。」乃重詠先歌、忽不見矣。大彥乃還而具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」

於是、更留諸將軍而議之。未幾時、武埴安彥與妻吾田媛、謀反逆、興師忽至、各分道、而夫從山背、婦從大坂、共入欲襲帝京。時天皇、遣五十狹芹彥命、擊吾田媛之師、卽遮於大坂、皆大破之、殺吾田媛、悉斬其軍卒。復遣大彥與和珥臣遠祖彥國葺、向山背、擊埴安彥。爰以忌瓮、鎭坐於和珥武鐰坂上。則率精兵、進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而蹢跙草木、因以號其山曰那羅山。蹢跙、此云布瀰那羅須。更避那羅山而進到輪韓河、與埴安彥、挾河屯之、各相挑焉、故時人改號其河曰挑河、今謂泉河訛也。

埴安彥、望之、問彥國葺曰「何由矣、汝興師來耶。」對曰「汝逆天無道、欲傾王室。故舉義兵、欲討汝逆、是天皇之命也。」於是、各爭先射。武埴安彥、先射彥國葺、不得中。後彥國葺、射埴安彥、中胸而殺焉。其軍衆脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其處、曰羽振苑。亦其卒怖走、屎漏于褌、乃脱甲而逃之、知不得免、叩頭曰「我君。」故時人、號其脱甲處曰伽和羅、褌屎處曰屎褌、今謂樟葉訛也、又號叩頭之處曰我君。叩頭、此云迺務。

是後、倭迹々日百襲姬命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姬命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姬命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姬命、仰見而悔之急居急居、此云菟岐于、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。時人歌之曰、

飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂

冬十月乙卯朔、詔【なし】群臣曰「今反者悉伏誅、畿內無事。唯海外荒俗、騷動未止。其四道將軍等、今急發之。」丙子、將軍等共發路。

十一年夏四月壬子朔己卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。是歲、異俗多歸。國內安寧。

十二年春三月丁丑朔丁亥、詔【なし】「朕初承天位、獲保宗廟、明有所蔽、德不能綏。是以、陰陽謬錯、寒暑矢序、疫病多起、百姓蒙災。然今解罪改過、敦禮神祇、亦垂教而緩荒俗、舉兵以討不服。是以、官無廢事、下無逸民、教化流行、衆庶樂業、異俗重譯來、海外既歸化。宜當此時、更校人民、令知長幼之次第、及課役之先後焉。」秋九月甲辰朔己丑、始校人民、更科調役、此謂男之弭調・女之手末調也。是以、天神地祇共和享而風雨順時、百穀用成、家給人足、天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也。

十七年秋七月丙午朔、詔【なし】曰「船者天下之要用也。今海邊之民、由無船、以甚苦步運。其令諸國、俾造船舶。」冬十月、始造船舶。

卌八年春正月己卯朔戊子、天皇勅豐城命・活目尊曰「汝等二子慈愛共齊、不知曷爲嗣。各宜夢、朕以夢占之。」二皇子、於是、被命、淨沐而祈寐、各得夢也。會明、兄豐城命、以夢辭奏于天皇曰「自登御諸山、向東而八廻弄槍・八𢌞擊刀。」弟活目尊以夢辭奏言「自登御諸山之嶺、繩絚四方、逐食粟雀。」則天皇相夢、謂二子曰「兄則一片向東、當治東國。弟是悉臨四方、宜繼朕位。」四月戊申朔丙寅、立活目尊、爲皇太子。以豐城命令治東、是上毛野君・下毛野君之始祖也。

六十年秋七月丙申朔己酉、詔【なし】群臣曰「武日照命一云武夷鳥、又云天夷鳥從天將來神寶、藏于出雲大神宮。是欲見焉。」則遣矢田部造遠祖武諸隅一書云、一名大母隅也而使獻。當是時、出雲臣之遠祖出雲振根、主于神寶、是往筑紫國而不遇矣。其弟飯入根、則被皇命、以神寶付弟甘美韓日狹與子鸕濡渟而貢上。既而出雲振根、從筑紫還來之、聞神寶獻于朝廷、責其弟飯入根曰「數日當待。何恐之乎、輙許神寶。」是以、既經年月、猶懷恨忿、有殺弟之志、仍欺弟曰「頃者、於止屋淵多生菨。願共行欲見。」則隨兄而往之。先是、兄竊作木刀、形似眞刀。當時自佩之、弟佩眞刀、共到淵頭、兄謂弟曰「淵水淸冷、願欲共游沐。」弟從兄言、各解佩刀、置淵邊、沐於水中。乃兄先上陸、取弟眞刀自佩、後弟驚而取兄木刀、共相擊矣、弟不得拔木刀、兄擊弟飯入根而殺之。故時人歌之曰、

椰句毛多菟 伊頭毛多鶏流餓 波鶏流多知 菟頭邏佐波磨枳 佐微那辭珥 阿波禮

於是、甘美韓日狹・鸕濡渟、參向朝廷、曲奏其狀。則遣吉備津彥與武渟河別、以誅出雲振根。故出雲臣等、畏是事、不祭大神而有間。時、丹波氷上人名氷香戸邊、啓于皇太子活目尊曰「己子有小兒、而自然言之『玉菨鎭石。出雲人祭、眞種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底寶御寶主。山河之水泳御魂。靜挂甘美御神、底寶御寶主也。菨、此云毛。』是非似小兒之言。若有託言乎。」於是、皇太子奏于天皇。則勅之使祭。

六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔【なし】曰「農、天下之大本也、民所恃以生也。今河內狹山埴田水少、是以、其國百姓怠於農於農事。其多開池溝、以寛民業。」冬十月、造依網池。十一月、作苅坂池・反折池。一云、天皇居桑間宮、造是三池也。

六十五年秋七月、任那國、遣蘇那曷叱知、令朝貢也。任那者、去筑紫國二千餘里、北阻海以在鶏林之西南。

天皇、踐祚六十八年冬十二月戊申朔壬子、崩、時年百廿歲。明年秋八月甲辰朔甲寅、葬于山邊道上陵。

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ということで,これまでの10の「詔」は主語がない=九州王朝の天皇の盗用と考える。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 書紀原文をしめすだけで「詔を読んだ」ことになるのでしょうか?

 たしかに崇神紀の詔はすべて主語が省略されている。
 では単純にこれは九州王朝事績と言えるか。

 たとえば10年秋の詔。
 詔は未だ従わないものがいるので四方に使いを遣わすという内容。
 そしてこの詔を受けて、続く記事は、北陸・東海・西道・丹波に征討の使いを派遣したもので、主として北陸の大彦の事績。そしてその大彦が山背の埴安彥を討った話。
 これらの「征討記事」はみなその人物そして地域から見て近畿天皇家の話。
 この近畿天皇家の征討記事は、次の10年10月の詔まで続く。

 この構文がからして、10年秋の詔は近畿天皇家の事績と考えることもできます。

 肥沼さんはどう読みますか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 書紀原文をしめすだけで「詔を読んだ」ことになるのでしょうか?

私は「ある」か「ない」かを調べているので,
「読んだこと」になるとは考えていません。

肥沼さんへ

 10年秋の詔が意味すること
1:詔の主体が省略されている
2:詔を出した相手は「群卿」とあるので傘下の諸豪族。相手が九州王朝内部か近畿天皇家内部かは判断不能。
3:この詔に続く出来事は明らかに近畿天皇家が北陸・東海・西道・丹波に征討軍を出した記事で、この詔を受けての出来事と読める。

 3に主眼を置くと、この詔は主語が省略されているが近畿天皇家のこととなる。

これだと 主語が省略された詔は九州王朝のもの
と言い切れなくなる。

これを肥沼さんはどう判断するのですかという質問。

ここを考えないで字面だけでは判断できないですよ。

ちなみに岩波文庫本の注は
この詔はこの後に続く四道将軍派遣記事の前置きとして、「書記編者が創作した」ものと断定している。
理由はまったく書かれていないが。

また12年3月の詔も同じく四道将軍派遣記事のために書紀編者が創作したものとしている。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 403個の詔の全部に主語があるかないかくらいは、検証可能では?

前に川瀬さんが上のようにコメントされていたので,
「ある」「ない」の区別をしてみようと思った次第です。

〉  3に主眼を置くと、この詔は主語が省略されているが近畿天皇家のこととなる。

これだと 主語が省略された詔は九州王朝のもの
と言い切れなくなる。

これを肥沼さんはどう判断するのですかという質問。

ここを考えないで字面だけでは判断できないですよ。

「どう判断するか」までは考えていませんでした。
あまり意味のないことをしていたということになりますね。

〉 ちなみに岩波文庫本の注は
この詔はこの後に続く四道将軍派遣記事の前置きとして、「書記編者が創作した」ものと断定している。
理由はまったく書かれていないが。

また12年3月の詔も同じく四道将軍派遣記事のために書紀編者が創作したものとしている。

これこそ注を付けた人の「創作」のような気がしちゃいますが…。(笑)

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