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2021年7月24日 (土)

「国境」にいた「須磨の関守」とは,九州勢?近畿勢?それとも両方?

「国境」問題に長居しているが,「相棒」の杉下右京をマネて

「最後にもう一つだけ質問」させて下さい。

「須磨の関守とは,どの勢力の人たちなのか?」というものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ア.九州勢がいた

イ.近畿勢がいた

ウ.板門店のように両勢力がいた

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ご意見いただけたら幸いです。

【古代の須磨】

大化改新(645年)と律令の制定によって、神戸周辺は摂津国となり、平安時代に生田、神戸、宇治、八部、長田の郷(里)からなる八部郡(やたべぐん)となりました。須磨は長田郷の一部でした。

当時の須磨は地形上の問題もあり、あまり田畑も開かれず、浜辺に漁師の家が点在する寂しい地域でした。しかし、畿内への入口という条件から、交通の要地となり、駅家や関がおかれたといわれています。

交通事情としては、須磨の海岸線の一部は磯が荒かったため、山陽道は北へ迂回するルート(鉢伏山~多井畑~塩屋)となっていましたが、平安時代には、荒かった磯も土砂の堆積によって安全に通行できるようになり、山陽道が海岸を通るルートになりました。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥えさんへ
意見ではなく単なる「思い付き」ですが、四国から淡路島に渡り、須磨へ上陸するルートなら、小舟でも渡れるのではないでしょうか(小舟なので人数は限られますが)。
そのように四国側から小舟で畿内へ入るのを見張っていたとか考えられないでしょうか。
もちろん、当時の須磨あたりに船着き場があったとしての話ですが・・・。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 意見ではなく単なる「思い付き」ですが、四国から淡路島に渡り、須磨へ上陸するルートなら、小舟でも渡れるのではないでしょうか(小舟なので人数は限られますが)。

ということは,ア~ウでいうと,「須磨の関守は近畿勢」ということになりますかね。

肥さん
>ということは,ア~ウでいうと,「須磨の関守は近畿勢」ということになりますかね。

いえ、難波京は九州王朝の都という前提ですので、もちろん以西も九州王朝です。
須磨の関は畿内(首都圏)の守りとしての位置付けです。

山田さんへ
コメントありがとうございます。


〉 いえ、難波京は九州王朝の都という前提ですので、もちろん以西も九州王朝です。
須磨の関は畿内(首都圏)の守りとしての位置付けです。

そうですよね。
だが,そうすると,「須磨の関の両側に九州勢がいる」という矛盾が起きないでしょうか?
これでは関所を作る意味がなくなってしまう。

ということで,私は「ウの板門店のように九州勢,近畿勢が対峙している」ということになります。
九州王朝副都説では,須磨の関守がある理由を説明できないと思うのです。
これは「肥さんが放った一本の逆矢」です。🏹
いかがでしょうか?

肥さんへ
問題提起ありがとうございます。

肥さんの主張は、「関所は反対勢力が対峙する場所にしか設けられない」(関所があればその両側には反対勢力)というものと理解しましたが、「その理解(仮説)で全ての関所が合理的に説明できる」ならば、その主張は正しいと認められますが、本当にそれで全ての関所が説明できるでしょうか(関所の「定義が狭すぎる」ように思います)。

私見を述べれば、「畿内(帝都圏)は万一に備えて防備しておくのがよい」(味方だって寝返ることもある)との考えで設けられることもある、とゆるく考えています。
「関所のある場所のどちらかの側(片側)に重要な場所・区域がある」という程度の考えです。
箇条書きで私見をまとめれば、
関(関所)とは、
①重要と考える区域の防備のために、
②敵が侵攻(侵入)してくる想定ルート上に、
③自然の地形を利用して防備できる地点を選び、
④戍(防備兵)を常駐させ、
③許可がなければ通行が許されない場所(軍事拠点)。
である、と考えています。
須磨の関は、①が畿内(帝都圏)、②が四国・淡路・須磨のルート、③が船着き場、と考えたわけです(①は「改新之詔」の「畿内」、②③は単なる「思い付き」です)。

本当に反対勢力と対峙している(攻撃される可能性がある)場合なら、「関」ではなく「防(土塁)」や「柵」のような防御施設を設置するであろうと思います。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

〉 本当に反対勢力と対峙している(攻撃される可能性がある)場合なら、「関」ではなく「防(土塁)」や「柵」のような防御施設を設置するであろうと思います。

須磨は現在海水浴場もある砂の海岸になっていますが,
古代は親知らず子知らずのような岩場の海岸で,山側ルートで東山道を通していたらしいです。
そこは渓谷のようになっていて,あえて土塁などを造らなくても通行が難しかったと思われます。

肥さん
ご教示ありがとうございます。
>須磨は現在海水浴場もある砂の海岸になっていますが,
>古代は親知らず子知らずのような岩場の海岸で,山側ルートで東山道を通していたらしいです。
>そこは渓谷のようになっていて,あえて土塁などを造らなくても通行が難しかったと思われます。

しかし、問題はそこではなく、

>「須磨の関守とは,どの勢力の人たちなのか?」というものです。
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>ア.九州勢がいた
>イ.近畿勢がいた
>ウ.板門店のように両勢力がいた
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

という設問に対して、私は回答を「ア」(九州王朝が難波京の畿内の防備のために設置した関)としたのですが、肥さんは「九州王朝の関では矛盾する」という内容のご指摘を頂いたので、「関(関所)」とはどういうものかという私なりの理解を示しました。その点について肥さんの反論を期待しています。具体的には、「九州王朝が設置した関」という山田の見解と「山田の『関の定義』」では、「この点が矛盾する」というような反論を期待します。
私は、「肥さん、(関の両側には反対勢力と)思い込んでいませんか?」という問題提起をしたつもりですが・・・。

肥沼さんへ

 答えの選択肢の中に
>ウ.板門店のように両勢力がいた
 があることから、肥沼さんが板門店を関所だと考えていることがわかりました。

 だから一番最初の問いが「通れるのかな?」だったのですね。

 板門店は関所ではないです。
 軍事境界線上に設けられた臨時の交渉所。ここを通ることは前提としてありません。今まだ両国は戦争中(休戦)だから軍事境界線の両側に軍隊が展開している。
 でも予期せず軍事衝突が起きた場合に、両国の代表が話し合う場所。

 関所というのは通交が前提となり、その通交を制限するものです。

 もし国境を挟む両国が軍事的に対立していれば、国境の両側に軍事施設=砦や土塁、そして関を置きます。
 播磨と摂津の両側に関や土塁・砦があったという記録や痕跡はないです。

 九州王朝と近畿天皇家が軍事的に対立していた痕跡はありません。
 唯一仲哀の熊襲征伐のように近畿天皇家の軍が九州王朝中枢に攻め入った話がありますが、これは両者が友好国・連合国であったからこそできた話。

 推古紀で近畿天皇家軍が新羅征討のために筑紫に向かった時、途中で妨げられてはいません。そもそもこの軍事行動は九州王朝の要請です。
 また孝徳紀で孝徳・中大兄らが日本(九州)博多←⇒倭(大和)を往復するときも何ら妨げがありません。
 そして斉明紀でも近畿天皇家軍が筑紫に行くとき何ら妨げられていません。
 ずっと両国は友好国であり同盟国です。


 したがって須磨関は畿内の内側。摂津側の関所。
 これは畿内から畿外に許可されていないものが出ないように警備するところ。
 同時に畿外から畿内に、許可されていないものが入って畿内を混乱させないように警備するところ。

 ここに駐屯した兵士は、当然畿内を掌握している側の兵士。

 すなわち
>九州王朝副都説では,須磨の関守がある理由を説明できないと思うのです。
これは「肥さんが放った一本の逆矢」です。
 この肥沼さんの断定は砂上の楼閣です。
 前期難波宮九州王朝副都説でも、須磨関は畿内を防備するための関所。摂津も反対側の播磨もまた九州王朝の版図です。

 山田さんのご指摘のように肥沼さんの関所理解は、狭いというよりも、間違っています

 そもそも須磨関がいつ設けられたか?
 これを示す資料はないです。
大宝令で定められた「摂津の関」と考えられているだけ。つまり8世紀初頭。
 廃止された資料もないです。

山田さんへ 川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

お二人のコメントを読んで,「近畿王朝の作った関所」で,「近畿勢だけが詰めている」というように思いました。
九州勢は「関所を作る(認める)必要はなく,必要とあらば突破すればいい」ということなのかな?
命令は出たと思いますが,史料は残っていないと思います。
でも,史料がないから事実ではなかったとは言えないと思います。
「境川」「関守稲荷神社」「須磨の関守」という地名・神社名・役職名が「生き証人」ですので・・・。

肥沼さんへ

>でも,史料がないから事実ではなかったとは言えないと思います。
「境川」「関守稲荷神社」「須磨の関守」という地名・神社名・役職名が「生き証人」ですので・・・。

 須磨の関がなかったとは言っていないよ!
 いつ設置されたのか? いつ廃止されたのか? この史料が存在しないと言っただけ。

 肥沼さんの日本語力には本当に問題大ありです。

川瀬さんへ

〉 肥沼さんの日本語力には本当に問題大ありです。

この件,ここらへんで終わらせていただきたいと思います。

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