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2021年7月24日 (土)

播磨国と摂津国との間に「国境」があったとしたら・・・

九州王朝が「彦狭島王を東山道十五国の都督に任じた」と思われる記事」が,景行紀五十五年春二月壬辰条にある。

この十五国について『発見された倭京〜太宰府都城と官道』(明石書店)で山田春廣さんは,以下の国を比定した。

【豊前国ー長門国ー周防国ー安芸国ー吉備国ー播磨国ー摂津国ー山城国ー近江国ー美濃国ー飛騨国ー信濃国ー上野国ー武蔵国ー下野国】

この時期は十五国の比定をめぐって山田さんと楽しく意見交換した記憶があるのだが,

そしてまた,特に代案がある訳ではないのだが,

この比定の途中の「播磨国ー摂津国」について,

「須磨の関守が置かれるくらいなのに,ここを通れるのかな?」と思ったのである。

山田さんでも誰でも,この疑問にお答えいただけたら・・・。

なお,例の百人一首の「淡路島通ふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守」の須磨の関は,

この和歌の作者・源兼昌(平安後期)の頃にはなくなっていたようである。

九州王朝が滅亡し,もう関所を置く必要がなくなっていたということか。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

>この比定の途中の「播磨国ー摂津国」について,
「須磨の関守が置かれるくらいなのに,ここを通れるのかな?」と思ったのである。

 関所というところはどこでも、通行手形があれば通れるものです。
 通行手形とは公的権力が、その関所を通って●●まで通行することを許可した証明書。

 だから古代の有る時期にここに九州王朝と近畿天皇家の領国の境があって関所があったのなら、九州王朝や近畿天皇家の通行手形があれば通れた。
 手形なしで通ろうとすれば、逮捕され、一定の罪に問われたはず。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  だから古代の有る時期にここに九州王朝と近畿天皇家の領国の境があって関所があったのなら、
九州王朝や近畿天皇家の通行手形があれば通れた。
 手形なしで通ろうとすれば、逮捕され、一定の罪に問われたはず。

ということは,その通行手形が発見されたら,大発見ですね。
漆のツボの蓋の紙に使われていれば,古代でも残っていておかしくないです。

肥えさんへ
東山道十五国の紹介ありがとうございます。
>この比定の途中の「播磨国ー摂津国」について,
>「須磨の関守が置かれるくらいなのに,ここを通れるのかな?」と思ったのである。

もちろん、許可無く通れません。ここに関がある理由は、「改新之詔」にある畿内の西境がここだからです。都は言うまでもなく難波京です。
次に畿内の範囲を図示しています。
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/05/post-192e.html

肥沼さんへ

 須磨が畿内の西の外れであるとの山田さんのご指摘はその通り。
 最初は九州王朝との境。
 のちに近畿天皇家の勢力範囲が広がった結果、畿内と畿外の境になったわけだ。

 改新の詔の中にある畿内の規定は以下の通り。
>凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、兄、此云制西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。
 これが近畿天皇家の畿内の規定であることは明白。
 そしてその中心が難波宮であることも明白。確実に前期難波宮(ただしこれは天武の宮)。
 だが詔にはその中心の都は書かれていない。
 改新詔の直前に、「冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。」と入れて、この時期の日本の中心の都が摂津の難波であったと偽装している。
 ただしこの「難波長柄豐碕宮」が九州博多の宮であることは私が前に論証した。

 この詔は前後の文の検討から九州王朝史書からの盗用は明白。
 したがってここに入っていた本来の畿内は別の場所だ。
 そして九州王朝の中心の都は、この詔を出した当時は、後に孝徳が死去した「難波宮(ただし博多の)」。そしてこの詔にあるように新たに「京師」を造り、それが太宰府であり、その宮は、「白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸味經宮」の味経宮だ。
 また孝徳紀の所でやりますが、九州王朝の畿内の四境を復元することも課題です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 この詔は前後の文の検討から九州王朝史書からの盗用は明白。
 したがってここに入っていた本来の畿内は別の場所だ。
 そして九州王朝の中心の都は、この詔を出した当時は、後に孝徳が死去した「難波宮(ただし博多の)」。そしてこの詔にあるように新たに「京師」を造り、それが太宰府であり、その宮は、「白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸味經宮」の味経宮だ。
 また孝徳紀の所でやりますが、九州王朝の畿内の四境を復元することも課題です。

孝徳紀には45の「詔」があります。検討が楽しみなところです。 

追伸
>なお,例の百人一首の「淡路島通ふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守」の須磨の関は,
この和歌の作者・源兼昌(平安後期)の頃にはなくなっていたようである。
九州王朝が滅亡し,もう関所を置く必要がなくなっていたということか。

 この推測は的外れ。九州王朝滅亡は8世紀初頭。この歌は12世紀。400年もたってから「必要がなくなったので廃止」はありえません。

 12世紀といえば、王朝国家が衰微した時期。
 つまり関所を維持する力もなくなったし、通行手形を発行する力もなくなった。だから自然消滅。
 というのがありうることです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  12世紀といえば、王朝国家が衰微した時期。
 つまり関所を維持する力もなくなったし、通行手形を発行する力もなくなった。だから自然消滅。
 というのがありうることです。

あるサイトに,もっと早く,「8世紀末〈789年?〉には須磨の関はなくなっていた」と書いているものがありました。

肥沼さんへ

>あるサイトに,もっと早く,「8世紀末〈789年?〉には須磨の関はなくなっていた」と書いているものがありました。

 あるサイトってどこのサイト? リンクしてくれないとたどり着けない。
 そして789年にはなくなっていたとの根拠は?

 ここまで示してくれないと議論にならない。

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