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2021年7月13日 (火)

神武天皇の「詔」~記から紀へ

単に数の上で比べると,記での「詔」の数は5で,

紀の「詔」の数は1である。

これはかなり気になる変化である。

重なったものなのか,それともまったく関係ないのか?

あなたはどう思いますか?

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【神武記の5つの「詔」】

神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。

亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。

故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。

故、神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。爾神倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子卽寤起、「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。

故、天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。

・・・(後半の皇后選定に至り)爾大久米命、以天皇之命、其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、

阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米

爾大久米命、答歌曰、

袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米

故、其孃子、白之「仕奉也。

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最後の「詔」は後半の「皇后選定」のところに出てきて,なかなか見つからなかったが,

この5つはどれも「おっしゃった」や「●●に~させた」という形だった。

単なる敬語(近畿大王を天皇並みに扱っている)ということなのだ。

それが神武紀となると大きく変わる。

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【神武紀の「詔」は1つ】

四年春二月壬戌朔甲申、曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

これは大和橿原での即位のあと。これが紀の神武紀唯一の「詔」であった。

これだと,単に尊敬語というより,天下に宣言するという感じで,列島支配者の統治宣というスタイルになると思うのだ。

講談社学術文庫の「現代語」には,「わが皇祖の霊が,天から降り眺められて,我が身を助けて下さった。

今多くの敵はすべて平らげて天下には何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と,

神々の祀りの場を,鳥見山の中に設けて,そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った」

と訳されていた。

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コメント

肥沼さんへ

 工事中だけどわかりましたのでコメントします。

 神武記の記述は、冒頭から
 神武を神倭伊波禮毘古命
 としている。
  これは大和を制圧して即位してからの名前だ。
  つまり古事記は最初から彼は即位した存在として記述している。
  これが証拠に、冒頭に日向から筑紫に向かう際に、「卽自日向發、幸行筑紫。」と記述し、「幸」=行幸として彼をすでに即位した存在として記述している。
 だから以後彼の命令はみな、詔として記述されたのだと思う。

 これに対して神武紀は
 天皇との形で記述しているが、あくまで実態は彥火火出見としての動き。
 だからその命令を詔として記述することはなく
 辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。(大和の大王に即位したということ)
 の以後になって初めて詔を使うこととなったわけだ。

 詔という言葉の使い方で見ると
 書紀の方が古事記よりも状況を正しく記述していることがわかる。

 以上肥沼さんの問いへの私の答え。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。


「工事中」と書いておいたのですが・・・。

肥沼さんへ
>この5つはどれも「おっしゃった」や「●●に~させた」という形だった。
単なる敬語(近畿大王を天皇並みに扱っている)ということなのだ。

 この詔してを「おっしゃった」や「●●に~させた」と訓読したのは現代語訳の訳者でしょ。
 あくまでも「詔」なのですから、「詔す」と訳すべきなのです。それが古事記の編者の意図です。

 だが現代人は日向にいた時の神武はまだ即位前だと知っているから、「詔す」ではおかしいから「「おっしゃった」や「●●に~させた」と訳したのでしょう。
 古事記編者は最初から彼を「天下を統治した天皇」と扱っているのです。

追伸

神武紀の詔の訳について。
次のように訳すべきです。

「わが皇祖の霊が,天から降り眺められて,我が身を助けて下さった。今多くの敵はすべて平らげて天下には何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と詔す。すなわち神々の祀りの場を,鳥見山の中に設けて,そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った。

書紀の体裁もまた天下を治める天皇の宣言という形です。
ここでもまた現代人はこの時の神武は天下を統治していないから、「詔す」とかかれているのを無視する。

付け加えればこの詔の主体は省略されているから、本来は九州王朝の天皇が出したものを盗用して、鳥見山山中に祭壇を設けた記事にくっつけたのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 古事記編者は最初から彼を「天下を統治した天皇」と扱っているのです。

〉 書紀の体裁もまた天下を治める天皇の宣言という形です。

例は良くありませんが,たとえばこの「肥さんの夢ブログ」で,
やけに「詔」がたくさん出て来るなあ思ったら,
肥沼が「幸行した」と最初の方にさりげなく書いてあったみたいなものですね。(笑)

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