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2021年7月27日 (火)

打率(九州王朝系の史料率)5割5分くらい(雄略紀までで)

「日本書紀」の中に出て来る「詔」記事について,

近畿王朝の大王の「詔」なのか,それとも九州王朝の天皇の「詔」の盗用なのか,

川瀬さんと7月半ばから毎日検討している。

一元史観ではすべて近畿王朝の天皇の「詔」と考える訳だが,

多元史観では,それとその前王朝である九州王朝の天皇の「詔」の記事であるのか,

確認する必要があるのである。(すでにいくつか「夢ブログ」で紹介した)

まだ375の「詔」のうち5分の1くらいではあるが,これまでのところを集計してみた。

「前後の文脈から(主語の有無を含む)」「古事記に出て来るか」などの観点で判断している。

【多元的古代・多目的コーナー】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/2021/07/post-09694c.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            出現数   九州王朝系史料    近畿王朝の史料    その他 

                  からの盗用か

 

神武紀           1       1          0         0

崇神紀           9       8          1         0

垂仁紀          14       5          9         0

景行紀~成務紀    12       9          3         0

仲哀紀~神功紀     5       0          4         1

応神紀           3       2          1         0

仁徳紀           5       2          3         1

履中紀~反正紀     3       1          2         0

允恭紀~安康紀     3       0          3         0

雄略紀          19      13          4         2

 

小計            74      41         30         3

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 集計お疲れ様です。
 雄略紀の途中まではほぼ半々で、九州王朝系史料からの盗用の方が多い。

 でも「紀」によって傾向は異なる。

九州王朝からの盗用が多い:神武・崇神・景行・雄略
あとは九州王朝史料からの盗用が少ないか、ほどんどないかだ。
この理由を考えてみると面白いね。
神武は近畿王朝の始まり以前で、まだ大和の磐余という一地方の王でしかない。
崇神は近畿王朝の始まりの王。ここで後の畿内大部分を統一。
景行は九州から東北までを統一した王とされるが、九州一統は盗用で、東海・関東・東北南部征討(日本武尊の遠征)も盗用の可能性はある。盗用でなければ、九州王朝の命令での遠征。
雄略。特に重要な役割を果たしてはいない。近畿王朝、特に天武朝の始祖である欽明の母が雄略の娘だからかな?


雄略の残り8つを考えると
6つが九州王朝史料からの盗用。
2つが中国正史の隋書・高祖紀からの盗用。

雄略紀の19個の詔の中で
九州王朝史料からの盗用が 13個。 近畿の大王の命令を詔としたものが、4個。そして隋書からの盗用が2個。
雄略紀は大部分が盗用だということですね。興味深い

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 九州王朝史料からの盗用が 13個。 近畿の大王の命令を詔としたものが、4個。そして隋書からの盗用が2個。
雄略紀は大部分が盗用だということですね。興味深い

前に一度「打率(盗用率)を集計してみたい」と予告していましたが,
このタイミングでやってみました。
雄略紀に盗用が多かったので,5割5分になるかもしれないですね。

訂正
 下記の所に間違いがありました。

>雄略。特に重要な役割を果たしてはいない。近畿王朝、特に天武朝の始祖である欽明の母が雄略の娘だからかな?

 欽明の母は雄略に殺された市邊押磐皇子の億計王=仁賢の娘の手白香皇女でした。
 雄略は大王家内部の殺し合いを通じて即位し、競争相手を皆殺し。しかし彼が死んだとき、彼の太子を九州王朝が援助して他の候補者を倒して大王位につけ、その清寧に子がいないので、雄略に父が殺されたときに播磨の屯倉(=九州王朝の天皇の領地)に逃げ込んだ二人の皇子(億計王と弘計王)を播磨国司が見出したことをきっかけにして彼らを清寧の次の大王位を継ぐように計らったのも九州王朝だ。
 だがその億計王=仁賢の太子で大王を継いだ武烈が、暴虐の限りを尽くして死んだとき、彼には跡継ぎがなかった。
 ここでまた動いたのが九州王朝。
 近畿天皇家の血筋でずっと前の応神の五世の孫という人物を引っ張り出して大王位につけ、皇后に仁賢の娘の手白香皇女を立てたが、大和を平定するのに20年の歳月を要した。大王位を継ぐ宣言を出したのはなんと24年の2月のこと。
 大和の争乱が完全に収まったのは、二人の間の男子が大王になってから(欽明)。

 新たな親九州王朝の近畿大王である継体ー欽明の擁立を生んだ、暴虐な近畿大王として雄略と武烈は重要なのかもしれませんね。
 だから古事記ではほとんど記事のない二人の大王の記事が多量の九州王朝史料の盗用で作られたのかな?

追伸:継体以後はますます九州王朝史料からの盗用が増えていると思う。だから近畿と九州の割合はどんどん九州に比重が移っていくと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  新たな親九州王朝の近畿大王である継体ー欽明の擁立を生んだ、暴虐な近畿大王として雄略と武烈は重要なのかもしれませんね。
 だから古事記ではほとんど記事のない二人の大王の記事が多量の九州王朝史料の盗用で作られたのかな?

追伸:継体以後はますます九州王朝史料からの盗用が増えていると思う。だから近畿と九州の割合はどんどん九州に比重が移っていくと思います。

雄略と武烈の暴虐はあまりにも極端なので,
「いくらなんでもそんなひどいことはしないでしょ」と前から疑っていました。
また,「そういう悪い天皇だから,俺たちの出番となった」というのは,
古今東西の王朝の定番のストーリーだったのでしょうね。
九州の比重が高くなっていく様子も,表やグラフにしてみたいものです。

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