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2021年6月 6日 (日)

東山道の設置年代

東山道の設置年代についての話が,3年前の古賀さんの「洛中洛外日記」に出ていた。

当時私は講演会(『発見された倭京~太宰府都城と官道』)の準備などに忙しく,この話は読み損ねていたと思う。

あらためて当時を振り返るとともに,その後のまず知見を付け加えたい。

その前に,古賀さんの「洛中洛外日記」をどうぞ。

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第1709話 2018/07/19


「東山道十五国」の成立時期

 9月1日(土)の『発見された倭京』出版記念東京講演会(東京家政学院大学・千代田三番町キャンパス)に向けて、講演者の準備も着々と進められています。中でも、「九州王朝の古代官道」について講演される肥沼孝治さんと山田春廣さんの講演内容の目次や当日使用されるパワーポイントの画像作成状況が、両氏のブログにリアルタイムで紹介されており、その内容が面白く、ますます講演会が待ち遠しくなってきました。
 特に山田さんが講演される「東山道十五国」(『日本書紀』景行紀55年条)を九州王朝の「東山道」とするテーマは画期的な発見であり、多くの皆さんにお聴きいただきたい研究です。もちろん、まだまだ研究・検証が必要な仮説で、その「東山道十五国」記事がなぜ『日本書紀』景行紀55年条に記されているのかなど重要な課題も残されています。この点については、山田さんご自身も「『東山道十五國』の比定」(『発見された倭京』所収)の末尾で次のように述べられています。

 「また、『古事記』にはない“以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督”記事がなぜ『日本書紀』景行紀にあるのかも未解明です。これらは今後の研究に委ねたいと思います。」(145頁)

 『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。

 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」

 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
 九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。

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私が講演会の内容の元になる「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」を書いた時,

東山道武蔵路から出土した須恵器の土器編年から「7世紀第4四半期」としていた。

これはその後〈方位の考古学〉の発見により,100年遡った「6世紀第4四半期」と変更した。

そして,東山道武蔵路は東山道と東海道を結ぶ支線なので,本線である東山道はもう少し早く

6世紀半ば〜6世紀第3四半期ではないかと考えた。

この時期は,北魏や隋の台頭してくる時期に相当すると考えた訳である。

その後,九州王朝は6世紀末から7世紀初頭に太宰府を建設していくその前段階にもなるので,ふさわしいのではないか。

あなたはどう思います?

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コメント

肥沼さんへ

 方位の考古学の成果により、東山道の支線である東山道武蔵路の成立が6世紀第四四半期。それゆえ東山道本体はその少し前の6世紀半ば〜6世紀第3四半期との推定。
 これは正しいと思います。
 これは全国一律に幅12mの直線道路で全国の国府を繋いだ時期をさししめしています。

 ただし古賀ブログに出てくる
 「以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督」とは切り離して考えるべきでしょう。
 この場合の「東山道」は道ではなく、軍管区であるとは、山田さんの論に説明されています。
 もちろんすでに何らかの東山道と名付けられた道路があったことは事実でしょう。
 だからこそ九州王朝の王都から東に伸びる東山道の沿道諸国を一つの軍管区として位置付けた。

 では軍管区としての「東山道十五か国」の成立はいつか。
 たしかなことは、6世紀半ば以前です。
 ここで連想することは、倭王武の上表文にある、「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国」です。
 倭王武の君臨する倭国の中心が筑紫国であることは先の古田さんの論証で明らか。
 したがって海北の95か国は朝鮮半島を指し、西の66か国は「衆夷」とあるので、筑紫以外の九州島の国々。
 問題は東の毛人の国々の55か国。
 通常は九州の東の瀬戸内と理解されている。
 でも「毛人」と言えば後に遣唐使が毛人を連れて唐に行った事実をもとにすれば、どう見ても中央高地の東側、今の関東東北を指します。

 この上表文は478年のこと。5世紀後半。
 これ以前のどこかに神武による東征があり、その後10代懸けてナガスネヒコの後裔の銅鐸の国を滅ぼし近畿天皇家が近畿地方を制圧した。
 この神武東征ー近畿制圧の前に、彼らの動きを支援した吉備が九州王朝の勢力下にあったことは事実。
 ではその東、東海・関東・東北の制圧はいつなのか。
 神武から10代めの崇神紀に「四道将軍」派遣の記事がある。
 北陸に大彦命、東海に武渟川別命、西海に吉備津彦命、丹波に丹波道主命。

 そして2代あとの景行紀。
 前半の九州一円征服の話は筑紫の王者の話。倭王武の「西の衆夷」征服の話だ。
 その次が日本武尊の東海・関東・東北遠征。
 これが倭王武の「東は毛人を征すること五十五国」じゃないかな。
 これの次に出てくるのが先の 「以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督」。

 日本武尊に仮託された誰かの東国遠征のあとに「東山道十五か国」軍管区設置と都督任命があったことは確かだと思います。

 時代は倭王武の時代か少し前の時代。5世紀前半か中頃。
 幅12mの東山道ができた時代からみると100年ほど前の時代。

 と考えたらどうでしょうね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ただし古賀ブログに出てくる
 「以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督」とは切り離して考えるべきでしょう。
 この場合の「東山道」は道ではなく、軍管区であるとは、山田さんの論に説明されています。
 もちろんすでに何らかの東山道と名付けられた道路があったことは事実でしょう。
 だからこそ九州王朝の王都から東に伸びる東山道の沿道諸国を一つの軍管区として位置付けた。

はい,そうですね。私もそう思います。(村と村を繋ぐ道 → 国府と国府を繋ぐ官道)

〉 日本武尊に仮託された誰かの東国遠征のあとに「東山道十五か国」軍管区設置と都督任命があったことは確かだと思います。

 時代は倭王武の時代か少し前の時代。5世紀前半か中頃。
 幅12mの東山道ができた時代からみると100年ほど前の時代。

 と考えたらどうでしょうね。

ありがとうございます。霧が晴れてくるような気がしました。

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