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2021年6月20日 (日)

実は近畿天皇家の動きはもっと複雑ではないか(川瀬さん)

「「倭の五王」は九州王朝」という題名で書いたのだけれど,

川瀬さんから間違いの指摘と近畿天皇家の動きについてのお考えをいただきました。

無理にそれを挿入することもできないので,川瀬さんの後半のお考えについて

掲載させていただくことにしました。(合わせて「方位の考古学」についてもリンク)

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【ここから川瀬さん】

実は近畿天皇家の動きはもっと複雑ではないか。

 つまり九州王朝に倣って東偏⇒正方位と動いた勢力と、これに逆らって西偏に動いた勢力が拮抗した。

 近畿天皇家の最も古い寺院・飛鳥寺(=法興寺)は正方位だ。6世紀末から7世紀初頭。
 そして舒明天皇の都に併設されたと思われる百済寺(吉備池廃寺)も正方位だ。つまり舒明の百済宮が正方位であった可能性はある。これは7世紀前半。630年頃の話。
 しかし一方で厩戸皇子の上宮王家の拠点斑鳩の宮は西偏だ。7世紀前半。
 そして彼と手を組んでいた蘇我氏の飛鳥の拠点も西偏だ。馬子の墓は確実に西偏。7世紀前半。

 6世紀末から7世紀中頃にかけて近畿天皇家は内紛続きだ。
 推古が女帝として大王になったのも、王家内部の内紛。
 そして次の女帝の皇極が大王になったのも王家内部の内紛。
 そして皇極が一度退位したあと再度践祚した(斉明)のも王家内部の内紛。

 これは九州王朝の統一中国に対抗する路線をめぐる近畿天皇家内部の内紛と捉えるとはっきりする。
 そして近畿天皇家内部と有力豪族の中に、宮や寺院の方角では、正方位派と西偏派があったと理解するとこの対立構図はさらにはっきりすると思う。

 この宮や寺院の方位変遷は、九州北部=倭国王権、近畿=近畿天皇家 という別勢力だったととらえないと理解できない。
 だが「倭の五王」=九州王朝 を直接示したものではないです。

 「倭の五王}=九州王朝 を証明するには
1:記紀の5世紀の記述(継体の前)には中国や朝鮮との通交記録が出てこない。
2:記紀の5世紀の記述(継体の前)の主な記事は列島内統一の事業で、これは主語有無の論証からは近畿天皇家の記事ではなく、九州王朝の記事と理解できる。
 そして
3:中国正史の倭国記事では、倭国の中心部はずっと九州(北部)を示している。
 という文献の記録がまず大事。

 そして大問題は、考古学的にこれが証明できるかどうかだ。
 しかしここには大問題がある。古賀さんが指摘していたように。
4:5世紀の最大の古墳とその集中地は北九州ではなく近畿だ。
 九州では5世紀の大古墳群と言えば西都原古墳群になる=南九州だ。
 北九州の大きな古墳は6世紀になってしまう。
 これをどう理解するか。
5:5世紀の最大都市遺跡は北九州ではなく近畿(大阪上町台地)。
 北九州の大きな都市遺跡は6世紀になってしまう。
 これをどう理解するか。

 この考古学資料からは倭国中心は近畿となり倭の五王=近畿天皇家 となる。

 方位の考古学の威力が発揮されるのはこの4と5の問題。
 九州の考古学編年は、意図的に近畿より100年遅らされている。これが方位の考古学の結論。

 したがって
 九州最大の古墳群西都原古墳群は 5世紀⇒4世紀(九州南部の熊と曾と対抗する最前線)。
 北九州の巨大古墳は 6世紀⇒5世紀。
 北九州の巨大都市遺跡 6世紀⇒5世紀。

 「方位の考古学」の最大の威力は、土器編年が意図的に、九州や関東では、近畿より100年後ろにずらされて、近畿がずっと列島中心であったと考古学が証明する基盤となってきた通説を、根底的に破壊するところにあるのです。

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【方位の考古学】

https://iush.jp/uploads/files/20191119161903.pdf

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 まず間違いが三か所。
>(誤)589年南朝が北魏に滅ぼされる⇒(正)589年南朝が隋に滅ぼされる。
>(誤)【近畿王朝】西偏 → 5世紀後半,九州王朝に倣う → 6世紀後半,西偏に
    ⇒(正)6世紀末から7世紀初頭、西偏に
>(誤)九州王朝 6世紀後半,正方位に(太宰府ほか)⇒6世紀末から7世紀初頭、正方位に

 そして疑問点が一か所。
>近畿王朝はそれに背くかのように「西偏」政策を取るようになるのだ。(つまりこの時点で1回も「正方位」は取っていない)
>(近畿王朝が正方位を取ったのは,白村江の戦いで九州王朝が滅亡した後の7世紀後半から)

 これは方位の考古学研究の初期の見解。
 実は近畿天皇家の動きはもっと複雑ではないか。
 つまり九州王朝に倣って東偏⇒正方位と動いた勢力と、これに逆らって西偏に動いた勢力が拮抗した。

 近畿天皇家の最も古い寺院・飛鳥寺(=法興寺)は正方位だ。6世紀末から7世紀初頭。
 そして舒明天皇の都に併設されたと思われる百済寺(吉備池廃寺)も正方位だ。つまり舒明の百済宮が正方位であった可能性はある。これは7世紀前半。630年頃の話。
 しかし一方で厩戸皇子の上宮王家の拠点斑鳩の宮は西偏だ。7世紀前半。
 そして彼と手を組んでいた蘇我氏の飛鳥の拠点も西偏だ。馬子の墓は確実に西偏。7世紀前半。

 6世紀末から7世紀中頃にかけて近畿天皇家は内紛続きだ。
 推古が女帝として大王になったのも、王家内部の内紛。
 そして次の女帝の皇極が大王になったのも王家内部の内紛。
 そして皇極が一度退位したあと再度践祚した(斉明)のも王家内部の内紛。

 これは九州王朝の統一中国に対抗する路線をめぐる近畿天皇家内部の内紛と捉えるとはっきりする。
 そして近畿天皇家内部と有力豪族の中に、宮や寺院の方角では、正方位派と西偏派があったと理解するとこの対立構図はさらにはっきりすると思う。

 この宮や寺院の方位変遷は、九州北部=倭国王権、近畿=近畿天皇家 という別勢力だったととらえないと理解できない。
 だが「倭の五王」=九州王朝 を直接示したものではないです。

 「倭の五王}=九州王朝 を証明するには
1:記紀の5世紀の記述(継体の前)には中国や朝鮮との通交記録が出てこない。
2:記紀の5世紀の記述(継体の前)の主な記事は列島内統一の事業で、これは主語有無の論証からは近畿天皇家の記事ではなく、九州王朝の記事と理解できる。
 そして
3:中国正史の倭国記事では、倭国の中心部はずっと九州(北部)を示している。
 という文献の記録がまず大事。

 そして大問題は、考古学的にこれが証明できるかどうかだ。
 しかしここには大問題がある。古賀さんが指摘していたように。
4:5世紀の最大の古墳とその集中地は北九州ではなく近畿だ。
 九州では5世紀の大古墳群と言えば西都原古墳群になる=南九州だ。
 北九州の大きな古墳は6世紀になってしまう。
 これをどう理解するか。
5:5世紀の最大都市遺跡は北九州ではなく近畿(大阪上町台地)。
 北九州の大きな都市遺跡は6世紀になってしまう。
 これをどう理解するか。

 この考古学資料からは倭国中心は近畿となり倭の五王=近畿天皇家 となる。

 方位の考古学の威力が発揮されるのはこの4と5の問題。
 九州の考古学編年は、意図的に近畿より100年遅らされている。これが方位の考古学の結論。

 したがって
 九州最大の古墳群西都原古墳群は 5世紀⇒4世紀(九州南部の熊と曾と対抗する最前線)。
 北九州の巨大古墳は 6世紀⇒5世紀。
 北九州の巨大都市遺跡 6世紀⇒5世紀。

 「方位の考古学」の最大の威力は、土器編年が意図的に、九州や関東では、近畿より100年後ろにずらされて、近畿がずっと列島中心であったと考古学が証明する基盤となってきた通説を、根底的に破壊するところにあるのです。

 肥沼さん。自分でやった研究の意義を理解していないね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

皆さんに読んでいただきたいので,
本文として掲載させていただきました。

 肥沼さんへ

 何も自分の書いた「「倭の五王」は九州王朝」の本文を削除して、私の書いたコメントの後半を掲載することはないと思うな。
 あれはあれで意味がある。
 つまり宮や寺院の方位変遷という問題を考えると、倭の五王=九州王朝 と考えざるを得ないといいたいわけでしょ。肥沼さんの本文は。

 これじゃ私のコメントの意味が不明となる。

 私のコメントを他の人に読んでもらいたいのなら、別項目で紹介すれば良いことだ。

 肥沼さんは、人に批判されるとすぐに折れてしまう心の弱さをもっているね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

最初は改訂版という形にしようと思いましたが,
川瀬さんの書かれた趣旨と違ってしまうといけないと思い,
後半の部分を載せさせていただきました。

>最初は改訂版という形にしようと思いましたが,
川瀬さんの書かれた趣旨と違ってしまうといけないと思い,
後半の部分を載せさせていただきました。

 指摘された間違いだけを訂正して「「倭の五王」は九州王朝」「改訂版」にして、
 私の意見を皆さんに見てもらいたいのなら、この後半部分を別項目で掲載すればよかったのです。

 一度消してしまった「「倭の五王」は九州王朝」の本文は、二度と復元できない。

 早まったことをしたものです。

追伸

 私の最初のコメントの最後の部分
> 肥沼さん。自分でやった研究の意義を理解していないね。

 を、ご自身が書いた記事の全面否定だと勘違いされたのかもね。

 私が言いたかったことは三つ。
1:記事に単純な間違いが多いよ(三点指摘しました)。
2:「近畿天皇家が九州王朝に反抗して西偏を選択した」との見解は古い。これを否定する事実に気が付いたのは肥沼さんなのに何しているの?ー630年頃の百済寺(吉備池廃寺)が正方位なのを指摘されたのは肥沼さん自身だ。
3:方位の考古学の威力を理解していない。方位の考古学は、「九州王朝による宮や寺院の方位変遷:5世紀中頃までは西偏⇒以後東偏⇒6世紀末から7世紀初頭から正方位」という仮説を元にして、これは全国展開のはずだから一斉に転換しているはず=全国同時に、西偏⇒東偏・ 東偏⇒正方位となる。
 という仮説を元にして、考古学の命である土器編年が近畿一元史観でゆがめられていることを論証したことにある。
 これをもとにすれば古賀さんの悩み=倭の五王の時代・5世紀に北九州にそれにふさわしい遺跡がない を解決できるというのが、三つ目の言いたいことだ。

 別に肥沼さんが書かれたことを否定したわけじゃない。
>この宮や寺院の方位変遷は、九州北部=倭国王権、近畿=近畿天皇家 という別勢力だったととらえないと理解できない。
 だが「倭の五王」=九州王朝 を直接示したものではないです。

 ここに力点が置かれ、「倭の五王}=九州王朝を証明するには、5世紀の北九州にそれにふさわしい遺跡があることを方位の考古学の成果が示していることを示したのだ。

 肥沼さんには日本語が正しく伝わらない。ここが最大の問題だ。
 だから勝手に誤解している。

川瀬さんへ 
コメントありがとうございます。

・・・

川瀬さんへ

最初のコメントから,5日間経ち,もう一度読み直してみました。

〉 そして大問題は、考古学的にこれが証明できるかどうかだ。
 しかしここには大問題がある。古賀さんが指摘していたように。
4:5世紀の最大の古墳とその集中地は北九州ではなく近畿だ。
 九州では5世紀の大古墳群と言えば西都原古墳群になる=南九州だ。
 北九州の大きな古墳は6世紀になってしまう。
 これをどう理解するか。
5:5世紀の最大都市遺跡は北九州ではなく近畿(大阪上町台地)。
 北九州の大きな都市遺跡は6世紀になってしまう。
 これをどう理解するか。

 この考古学資料からは倭国中心は近畿となり倭の五王=近畿天皇家 となる。

 方位の考古学の威力が発揮されるのはこの4と5の問題。
 九州の考古学編年は、意図的に近畿より100年遅らされている。これが方位の考古学の結論。

 したがって
 九州最大の古墳群西都原古墳群は 5世紀⇒4世紀(九州南部の熊と曾と対抗する最前線)。
 北九州の巨大古墳は 6世紀⇒5世紀。
 北九州の巨大都市遺跡 6世紀⇒5世紀。

 「方位の考古学」の最大の威力は、土器編年が意図的に、九州や関東では、近畿より100年後ろにずらされて、近畿がずっと列島中心であったと考古学が証明する基盤となってきた通説を、根底的に破壊するところにあるのです。

 肥沼さん。自分でやった研究の意義を理解していないね。

→ 川瀬さんがご指摘のように,意義を理解していませんでした。

私は「最初に間違いを指摘されると,全面否定されたように感じてしまい,
最後に追い打ちを掛けられると,読み返す気にならなくなる」という性分のようです。
コメントの引用をされ背ていただき,また本文に取り上げさせていただきます。

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