「謎の四世紀」の謎は,その後解けたか?
若い頃古代史の本の題名に,「謎の四世紀」というものがあったように思う。
古い時代のことは謎があるからロマンがあると勝手に思っていたが,
その後この謎は解けたのだろうか?
一般にこの「謎の四世紀」は,以下のように説明されているようだ。
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日本に関しての描写が中国の歴史書から消えたのは4世紀のことです。そのため、4世紀の日本史では「謎の4世紀」や「空白の4世紀」などとよばれています。そのころ中国では、壱与から遣いを送られていた晋の国が異民族(匈奴など)から攻められてだんだん南下しており、五胡十六国時代といわれる政情が不安定な時代に突入していました。そのため日本ともあまり交流しなくなり、しだいに倭国に関係する説明もなくなってしまったと思われます。
・西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれる。
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史料での説明がないのは仕方がないにせよ,その時代にも倭国に人は住んでいたわけで,
考古学的遺物がまったくないということはないだろう。
4世紀とは,301~400年のことである。
古い遺跡に現れた当時の情報(遺跡,遺物,祭祀など)を集めてみた。
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・【出雲大社】
古事記は8世紀はじめに編纂されたが「出雲大社の成り立ちは、さらに前の時代が関係している」という人がいる。國學院大學 神道文化学部教授の笹生衛氏だ。古代の祭祀を研究する「祭祀考古学」の研究者である同氏は、出雲大社境内の発掘調査から、古事記誕生前の様子をこう推察する。「発掘調査では、境内から4世紀後半の土器や勾玉といった祭祀の遺物が見つかりました。土器はまとまった数が出てきたので、普通の生活ではなくお祭りに使われたものと考えられます。すでに4世紀後半には、神への何かしらの祭祀が行われていた証拠です」
・【宗像大社・沖ノ島】
沖ノ島で国家的な祭祀が始まったのは出土遺物の年代編年から古墳時代前期、4世紀後半頃と推測される。
391年に倭国が高句麗へと出兵した際、北部九州が前線となった時期に相当する。
・【鹿島神宮】
出雲大社と同様に、鹿島神宮の境内や周辺にも多数の祭祀遺跡が残されているという。
「鹿島神宮周辺からは5世紀の祭祀で使われたとされる遺物が出土しています。その中には当時繁栄したヤマト王権とのつながりを感じる物も多く、剣や鏡などを石で模した石製模造品、勾玉に細かな突起の入った子持勾玉は、ヤマトの中心地で出土したタイプに類似。5世紀に行われた鹿島神宮の祭祀は、当時の中央であるヤマトの影響下だった可能性が高いです」
こう語るのは、國學院大學 神道文化学部教授の笹生衛氏。古代祭祀の遺跡から歴史を紐解く「祭祀考古学」の専門家は、鹿島神宮周辺を「関東でも特に古い祭祀遺跡」と説明する。実際、国家的な祭祀が始まったのは4世紀後半とされ、この連載で紹介した宗像大社(福岡県)、出雲大社では4世紀後半の遺跡が見つかっている。
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ここで,出雲大社から出土した遺物で,土器編年の年代比ていが疑われているものを紹介しよう。
★★★ 出雲大社から出土した遺物は,4世紀のものなのか,それとも弥生時代に作られたものなのか? ★★★
つまり、4世紀後半にはすでに出雲で祭祀が行われ、しかもヤマト王権も重要視するほどの力があったといえる。
「出雲大社だけでなく、その付近からは銅鐸や銅剣、銅戈といった遺物も発掘されています。4世紀よりさらに前、弥生時代に作られたと推測できるものも多く、もしかするとその頃からもう出雲は勢力を持っていたのかもしれません。だからこそ、その表れとして巨大神殿が生まれたと考えられます」
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4世紀が土器編年での「4世紀」とすれば,〈方位の考古学〉の応用で時代を遡ることができるのではないかと考えました。
つまり「「謎の4世紀」はなかった」「「空白の4世紀」はなかった」ということなのではないか?。
それがたまたま倭国についての記述がないことに重なったのではないか。
あなたはどう思いますか?
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肥沼さんへ
4世紀は、考古学の時代観では古墳時代前期です。
つまり土器でいえば土師器の時代。須恵器は次の5世紀初頭以後と考えられています。
したがって
>4世紀が土器編年での「4世紀」とすれば,〈方位の考古学〉の応用で時代を遡ることができるのではないか
との直感は正しい。
確実に関東や九州なら100年、中部地方や中国四国地方なら50年遡ります。
したがって次の年代は動きます
1:出雲大社の4世紀後半の土器や勾玉といった祭祀の遺物⇒4世紀前半
2:沖ノ島での祭祀の始まりは4世紀後半⇒3世紀後半
3:鹿島神宮周辺からは5世紀の祭祀で使われたとされる遺物⇒4世紀
4:宗像大社の4世紀後半の祭祀遺跡⇒3世紀後半
つまり土師器とは古墳時代に始まる土器の形式。
したがって九州や関東の古墳の年代は実際より100年後ろにずらされているのです。
そして方位の考古学で見たように、太宰府の年代も7世紀後半と100年後ろにずらされています。
すでに古田さんは「ここに古代王朝ありきー邪馬一国の考古学」で考古学の相対編年に疑問を呈しています。北九州で卑弥呼の時代に相当する3世紀の遺跡がほとんどないことに依拠して年代の決め方がおかしいと。空白の3世紀と呼んでいますね。
この古田さんの疑問を「古田学派」で継承している人はほとんどいません。
古賀さんなどは、考古学の相対編年をそのまま考察の基礎にしている。だから北九州に古代寺院が数少なく、最も古い都城もなくということになり、都城では今の考古学では前期難波宮の7世紀中頃が一番古くなり、これを信じた結果が、「前期難波宮九州王朝副都説」となるわけ。
大宰府Ⅰ期政庁は7世紀後半⇒6世紀後半となり、Ⅱ期政庁も8世紀前半⇒7世紀前半と変わりますので、日本で最も古い都城は大宰府になるわけです。
そして前期難波宮を7世紀中頃とするのは大阪歴史博物館だけで、近畿の考古学者の定説は7世紀後半の天武朝です。
天武の都だったから、彼をリスペクトしている聖武はこれが焼失したあと、その遺構を壊さないようにその中庭の中にすっぽり収まる後期難波宮を建て、さらに聖武が作らせた宮や寺院では天武の時代の単弁蓮華文軒丸瓦のリバイバルとなったわけ。
考古学の年代は、大和王権が3世紀後半には全国を統一したという歴史観に依拠して、これを証明する年代に動かされています。
このとき年代を動かす説明の根拠が、「文化伝番の時間差」です。
統一王権ができたと言っておきながら、統一王権の文化(古墳や土師器、そして須恵器も)が大和から全国に伝搬するには時間差があったと言い切る。
だから古墳も土師器も須恵器も、大和を中心にして、関東と九州は近畿より100年遅らされ、中部と中国四国は50年遅らされた。
したがって軒丸瓦の場合も、同様に年代をずらされたことは服部さんが証明した。
この「文化伝搬の時間差」説のひな型は、例の古墳から出土する三角縁神獣鏡を3世紀の魏の鏡だと断定してしまったものの、出土する場所は4世紀から5世紀の古墳なので、この矛盾を埋めるために考えられた学説が「伝世鏡」説。大切な宝なので何代にもわたって守り伝えられたから、魏から100年後の古墳に埋納されたのだと。なのになぜ100年で埋納されたかは説明なし。
でもこの「伝世鏡」説が定説となるとともに、これが拡大解釈されて「文化伝搬時間差」説となったわけ。
考古学の年代観は近畿一元説で汚染されています。
「方位の考古学」はここに焦点を据えて、考古学の見直しを提起したもの。
投稿: 川瀬健一 | 2021年6月 4日 (金) 01:09
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉考古学の年代観は近畿一元説で汚染されています。
〉 「方位の考古学」はここに焦点を据えて、考古学の見直しを提起したもの。
思い切って,この話題をアップしてよかったです。
古田史学の人も取り上げていないし,今回はドキドキのアップでしたが,
これは〈方位の考古学〉の試金石となると考え,書いてみました。
今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: 肥さん | 2021年6月 4日 (金) 05:29