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2021年5月17日 (月)

とりあえず「国分寺の方位」(未精査のものも含む)

川瀬さんから「国分寺の方位」についての資料を送っていただきました。

まだ建物からの精査を経ていないものも少なくないのですが,

すべて精査が終わってからというと気が遠くなるので,

現在の時点でのものを地図に落としてみました。

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Img_0382

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ひと口に「国分寺の方位」と言っても,創設時のものと,現在のものは変更されている場合がありますし,

また政治的な理由から途中変更されたものもあるようです。

そういうものが入り混じっているということをお含みおき下さい。

川瀬さんからも「すべては、全国国分寺の遺構を精査してからです。

肥沼さんは気が早いですね。まだ九州がようやく終わりに近づいた段階。」と言われておりますが,

「今こういうふうに研究が進んでいます」とお伝えしておきたいと思いましたので・・・。

川瀬さんの「国分寺の精査」が進むにつれて,「創設時の国分寺の方位」も明らかにされていきます。

多元的「国分寺」研究サイトをご注目下さい。

【多元的「国分寺」研究サークル】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 なぜこの時点で、全国の国分寺の伽藍中軸線の方位一覧を送ったか。
 「東日本で西偏がみつからない」と嘆いていた肥沼さん。
 すでに方位の考古学のための全国遺跡悉皆調査で、少なくとも現在わかっている全国の官衙遺構と寺院遺構の方位の調査は終わっています。まだ報告書で詳細を検討していないとはいえ、一定の傾向はわかるわけ。
 
 どうして肥沼さんは「方位の考古学のあゆみ」ファイルもしくは、ご自身の「多元的国分寺研究サークル」ブログを精査しないのだろう?

 こうした疑問から「方位の考古学の歩み」ファイルだけで一覧をつくりました。
 所要時間は1時間弱。
 この程度の持続的調査ができないと、歴史研究はできないですね。

 おもいつきだけであれこれ「仮説」を出し、そのくせそれを証明するために、史料の精査は行わない。自説に都合の良い史料しかみない。
 これが古代史ファンの「歴史研究」の実態です。「歴史研究」の実態は「単なる妄想」。
 肥沼さんの「古代史研究」も、いまのままでは、この類だ。

 九州王朝の逆らって国分寺を西偏にした国々は、新羅文化の強い地域ではないか。

 この仮説を証明するには、
 1:全国の新羅文化の痕跡をしらべる⇒秦氏の分布。各地の古代寺院などの精査・・・・
 2:全国の国分寺の方位調査⇒全国官衙遺構寺院遺構悉皆調査結果の精査。

 ここまでやって初めて、先の「仮説」が成り立つかどうかがわかるのです。

 結論:実は仮説が成り立つかどうかは不明のまま。
 理由:①西偏の国分寺が九州王朝時代のものかはまだ未精査だから。
     ②秦氏居住地域の国分寺の方位もまちまちだから。
 ①の検証が進むと進展があるかも?

 でもそもそも「新羅文化」云々は、西偏にはかかわりない。
 なぜなら、九州王朝時代に国府に付属して作られた寺院(=後の国分寺)が、わざわざ九州王朝の、東偏や正方位という政策に逆らって西偏にしたこと自体が、その意図を表明している。 
 九州王朝が東偏・正方位にした意図=中国南朝や隋唐に対抗する。
 これに従わない意図=中国南朝や隋唐に対抗するのは危険だとの認識。
 だからです。

 この背景に新羅文化がなくても成り立つ。
 九州王朝の外交路線が危険だと気が付くには。その結末を予想する力さえあれば。
 その力の源泉に、百済一辺倒ではなく、多元的な国際交流があった可能性はあるが、これを証明するのは至難の業。
 なぜなら九州王朝に逆らって独自外交路線を取ったのは、近畿王朝だけだから。
 そしてこの近畿王朝の動きしか、「日本書紀」には記録されていないから。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

また川瀬さんの貴重な国分寺の再精査の時間を奪ってしまい,
申し訳ありません。

九州王朝(本家)を取り囲むように周りの国の西偏が出てきたので,
ほかの地域はどうかというのと,新羅との関係が重なり,
話が大きくなってしまいました。

確かに時期や状況によって西偏の意味は違うと思うので,
このグラフはあまり役立たないと思います。

肥沼さんへ
>確かに時期や状況によって西偏の意味は違うと思うので,
このグラフはあまり役立たないと思います。

 いや、手がかりぐらいにはなる。考える手掛かりには。
 肥沼さんの癖は、答えがどこかに転がっているかのように、探そうとすること。ネット検索くらいでわかるものなら、すでに誰かがやっている。
 そうではなく、手がかりから自分で考えて答えを見つけるのだ。

 たとえばこの地図で、山陽地方に西偏国分寺がいくつか目立つ。
 安芸・備中・備前・播磨だ。
 私の論考、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2-9②)にこの国々の国分寺の資料と考察がある。
 http://kawa-k.vis.ne.jp/20161211musasi2-9-2.pdf

 ★安芸:発掘で、門ー金堂ー講堂ー僧房が南北に連なる伽藍であることは確定。塔は金堂の南西。回廊が出ていないので伽藍を確定できないが、よく見ると金堂ー講堂の距離にくらべ、門ー金堂の距離が広いことに気が付く。これだけ空いていれば、そこに小型の塔なら入る。
 つまり元は門と講堂とを回廊でつなぎ、その中に南北に金堂・塔がならぶ四天王寺式伽藍が浮かんでくる。
 此の四天王寺式伽藍の塔を解体して、回廊の外の金堂の南西に作り替えたと考えることが可能だ。
 とすればこれは今は東大寺式などの塔が回廊の外にある新式伽藍であるが、元は古式伽藍であったと考えることが可能だ。
 すなわち創建時の安芸国分寺は、四天王寺式伽藍で、伽藍中軸線は西偏10度となる。

 この寺院を作った豪族は九州王朝の南朝や隋唐に対抗する路線に従わなかったと推定できる。
 秦氏の分布で見るとここは秦氏の本貫の地ではないが、この周囲は皆秦氏本貫の地なので、安芸にも新羅文化の伝統があるかもしれない。

 ★備中:ここは南門と中門、そして中門に取りつく回廊の一部しか掘られていない。
 だが中門と南門が近接しているので、確実に回廊の中に塔と金堂がある古式伽藍だ。想定では法起寺式とされている。
 そして中門とその回廊の東南に建てもの跡があるので、これが塔なら、回廊内にあった塔を解体して、回廊外に移した可能性大。
 そして伽藍中軸線は西偏10度。

 確実に九州王朝時代の古式寺院で創建は7世紀前半に遡れる。
 とすればここも九州王朝の外交路線に逆らった豪族が建てたと思われる。

 そして備中は秦氏の本貫の地なので新羅文化は強い。

 ★備前:ここも中門ー金堂ー講堂ー僧房が南北に並び、中門と講堂を結ぶ回廊が回っている。現在塔跡は回廊の東側に確認されているが、回廊内の空間を見れば、金堂と中門との間の空間が広い。
 元はここに塔があったと考えることも可能だ。
 つまり四天王寺式伽藍。そして中軸線は西偏10度。

 要するに備前国分寺も九州王朝時代の古式寺院で西偏だから、九州王朝の外交路線に反対する豪族が建てた可能性が見て取れる。
 そして備前もまた秦氏の本貫の地だ。

※播磨は検討していないが、山陽道の西偏国分寺の内の安芸・備中・備前の三か国はどれも四天王寺式伽藍で、九州王朝時代にその外交路線に反対した豪族が建てた可能性が見て取れる。

 ね、ちょっと資料を検討しただけでも肥沼仮説を支持する可能性が高い場所が三つ見つかった。

 答えをすぐに拾おうとせずに、資料を精査して見れば、仮説を支持する資料位出てくるのです。
 この地道な努力を積み重ねるといつか、仮説が証明されるかもしれない。
 これが歴史研究の方法です。

 ★播磨国分寺を検討してみよう。
 ウィキペディアでは伽藍中軸線は西偏4度。南大門・中門・金堂・講堂・僧坊が南から一直線で、寺域南東隅には塔が配される東大寺式伽藍配置が確認される現在の姿。示された軒丸瓦は明らかに平城宮式のリバイバル単弁。聖武詔の時期の寺であることは確実。
 
 では伽藍配置図はどこかにないか。
 この寺院は山田さんが精査していた。
 https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/05/post-2216.html

 これによると播磨国分寺は極めて東大寺と伽藍配置の数字が良く似ているとのこと。たしかに図面を見ただけでもわかるが、比で示すとさらによくわかる。
 つまりこの寺は聖武詔に新たにつくられた「国分寺」ということだ。先のリバイバル単弁が創建瓦だ。

 ではもとの国府寺はどこか?
 これを探さないとここはいけないね。播磨は秦氏の拠点の一つだ。播磨国府のそばに、西偏の古式の寺院があればグッドだが。
 播磨国府は国分寺の西5キロほどのところにある、播磨国総社、射楯兵主(いたてひょうず)神社のすぐそばと推定されている。
 なんと姫路城の真ん前で姫路市街の中心地。
 これじゃ古代官衙遺跡や寺院が出てくるとは思えないが・・・・・。


 ネットで答えを探すのではなく、出てきた資料を精査し考察すると、意外なものが見えてくる。山陽道の国分寺精査をお楽しみに。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  ね、ちょっと資料を検討しただけでも肥沼仮説を支持する可能性が高い場所が三つ見つかった。

 答えをすぐに拾おうとせずに、資料を精査して見れば、仮説を支持する資料位出てくるのです。
 この地道な努力を積み重ねるといつか、仮説が証明されるかもしれない。
 これが歴史研究の方法です。

なるほど。

〉  ネットで答えを探すのではなく、出てきた資料を精査し考察すると、意外なものが見えてくる。山陽道の国分寺精査をお楽しみに。

はい,楽しみにしております。

肥沼さんへ

>〉  ネットで答えを探すのではなく、出てきた資料を精査し考察すると、意外なものが見えてくる。山陽道の国分寺精査をお楽しみに。

はい,楽しみにしております。

 では、今やっている「西海道編」が終わったら、「山陽道編」に行くこととします。その次は「南海道編」かな。
 どちらも西偏が目立つ。
 その次が「山陰道編」だな。ここは東偏と正方位ばかり。

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