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2021年5月 9日 (日)

渡る「九州王朝」は鬼ばかり(3)

歴史の教科書を見ると,倭国(王家)は百済から漢字や仏教を取り入れているようである。

実際白村江の戦いでも無理な形で参加して,王朝の滅亡に直結する大敗北を喫している。

(それに対して,長門にあったと考えられる「秦王国」は異質に感じられる)

百済からの文化の吸収に対して,新羅からの文化の吸収はなかったのか。あったのではないか。

白村江の戦いでの敗北後,いくら百済が滅んだからと言って,急に相手を換えるというのも不可解だ。

ということで,倭国(本家)の考えとは違い,倭国(分家)や豪族たちは,新羅と結びつきが強かった,

あるいは渡来人として新羅の文化や技術を伝えた人たちが少なからずいたと考えた。

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【倭国(本家)】・・・正方位にこだわる   【倭国(分家)・豪族たち】・・・西偏あるいは西偏に変更

百済と結びつきが強い            新羅との結びつきが強いと思われる秦王国や豊前・豊後

漢字や仏教,百済系の文化が伝えられる    新羅系の文化が伝えられる。同族との戦争回避か?

白村江の戦いに敗北して滅びる        白村江の戦い以降も大和王権とのつながりを持ち延命

~700年(701年,「大宝」建元のため)   白村江以降の「遣新羅使」の派遣に関わったと思われる

                         土木・冶金技術に長ける(銅山の開発・長門地方・香春地方

                          → 和同開珎(古和同)の製作)

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※ 遣新羅使(けんしらぎし)は、日本新羅に派遣した使節である。

特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。

779年宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。

(なんと,111年間に24回も派遣されている。これは4~5年に1回のペース)

 

※ 古賀達也の洛中洛外日記



第498話 2012/12/02


「古和同」の銅原産地

 斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)を読んで、最も興味深く思ったデータが二つありまし
た。一つは、これまで紹介してきましたように、アンチモンが冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるということです。もう一つは、古和同銅銭に使用された銅の原産地に関するデータでした。
 同書によれば和同開珎などの古代貨幣に用いられている銅の産地について、その多くが山口県の長登銅山・於福銅山・蔵目喜銅山産であることが、含有されている鉛同位体比により判明しています。
 ちなみに、「和銅」改元のきっかけとなった武蔵国秩父郡からの「和銅」献上記事(『続日本紀』和銅元年正月条)を根拠に、和同開珎の銅原料は秩父産とする説もありましたが、これも鉛同位体比の分析から否定されています(同書69頁)。
 他方、古和同銅銭については、「古和同のデータの一部は図12の香春岳鉱石の分布範囲と重なっている。」(同書68頁)とあり、古和同銅銭に用いられた銅材料の原産地の一つが福岡県香春岳であることが示唆されています。すなわち、九州王朝には地元に銅鉱山を有し、伊予国・越智国からは貨幣鋳造に必要なアンチモンが入手できたと考えられます。あとは国家として貨幣経済制度を導入する意志を持つか否かの判断です。
 以上、九州王朝貨幣についての考察を綴ってきましたが、九州王朝貨幣鋳造説にとって避けて通れない課題があります。それは貨幣鋳造遺跡と貨幣出土分布濃密地が北部九州に無いという問題です。このことを説明できなければこの仮説は学問的に成立しません。引き続き、検討をすすめたいと思います。

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コメント

肥沼さんへ

 コメントが遅れました。
 たしかに九州王朝は過度に百済に肩入れしすぎて自滅した感あり。
 ということは九州王朝に従わず、唐との戦に軍を送らなかったりした列島の豪族たちは、新羅との関係が強いのかも?
 という仮説は出てくる。
 問題はこれをどう証明するかだ。
 方法の一つは、近畿・長門・豊前・豊後・肥前・肥後の地域が新羅との関係が強いかどうかを、古代寺院遺構の特徴を調べてみることだと思います。

 またこの肥沼さんの図式化だと、九州王朝は新羅との関係が浅いようにみえるが、統一新羅(朝鮮半島を統一して以後の新羅をこう呼ぶ)以前の段階で、新羅が日本領だった加羅・任那を併合して以後は、九州王朝は頻繁に新羅に使いを送っていることは書紀で確認できる。
 つまり九州王朝は文化的影響とは別に、新羅との交渉のチャンネルを持っていたということです。

 先の新羅との関係を古代寺院遺構の特徴で調べる方法で、九州王朝の中枢である筑前・筑後も調べてみると良いと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  先の新羅との関係を古代寺院遺構の特徴で調べる方法で、九州王朝の中枢である筑前・筑後も調べてみると良いと思います。

「国分寺の方位」の違いからも,それは読み取れると思った次第です。

>「国分寺の方位」の違いからも,それは読み取れると思った次第です。

国分寺の方位の違いでわかることは、
その寺を作った地方の豪族が九州王朝に従っているかいないか
だけ。

 なぜ従わないかは、別の事を調べないと。
 新羅との関係を持っていたから、 は一つの仮説。
 これを調べるには新羅文化の痕跡を見つけないと。

 もう一つ仮説が立てられる。
 朝鮮諸国との関係ではなく、隋唐と対抗するという外交路線自身の危うさ
 に気が付いていた。
 というのもありだ。

 これは近畿天皇家以外では確かめようがない。
 近畿天皇家が九州王朝とは半ば独立して隋・唐とつながっていたことは、書記にも明確に記してある。
 だがほかの豪族の外交的動きは、これを示し資料そのものがない。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 国分寺の方位の違いでわかることは、
その寺を作った地方の豪族が九州王朝に従っているかいないか
だけ。

 なぜ従わないかは、別の事を調べないと。
 新羅との関係を持っていたから、 は一つの仮説。
 これを調べるには新羅文化の痕跡を見つけないと。

う~ん,これはなかなか難問だ。

〉 

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