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2021年4月12日 (月)

都>国府>郡(評)衙だとしたら・・・

川瀬さんが,「豊前国府と豊前国分寺は6世紀末から7世紀初頭に

正方位で作られた」ということを精査された。

これで私がまず思い出したのは,泉官衙遺跡(福島県)のこと。

7世紀初頭からⅡ期となりやはり正方位。

次に思ったのは,国府や郡(評)衙は単独で方位は決められないだろうということだ。

ではどこが決めるかというと,当然国家(時代的にいうと九州王朝)。

とすると,都>国府>郡(評)衙という関係からして,「都の方位も正方位だった」とならないか。

九州王朝の都=太宰府は6世紀末~7世紀初頭には,正方位の都だったのではないかということだ。

これは藤原京(694~710年)の7世紀末スタートと比べて約100年早い。

やはり,〈方位の考古学〉を使わないと,日本の本当の歴史が見えてこないと思うのだが・・・。

〈方位の考古学〉では,九州の遺跡に対して,土器編年から100年遡らせる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【方位の考古学】

https://iush.jp/uploads/files/20191119161903.pdf

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

>次に思ったのは,国府や郡(評)衙は単独で方位は決められないだろうということだ。

ではどこが決めるかというと,当然国家(時代的にいうと九州王朝)。

 これは九州王朝が全国の統治権を握っていれば
 という前提がないと成り立ちませんね。

 九州王朝が全国の統治権を握るのは、
 いわゆる「大化改新」。645年から。
 ここで初めて全国土と民は天皇のもの(=公地公民制)
 となり、国・郡・里の長はみな中央(=天皇)の任命制となる。

 でも従来の国々の王(=君)は大きな権力を保ち、その国の中心となる複数の郡司を独占し、国庁の現地官人の上位者も独占していたことは奈良時代の資料からも明らか。
 公地公民制をしいても、現地の実力者=郡司層を従えないと統治できなかったわけ。

 これは聖武の七重塔を作れとの命令もなかなか実行されず、「作ってくれたら褒美をやり官位を上げる」との餌をばらまかなければいけなかった事実からわかることです。

>九州王朝の都=太宰府は6世紀末~7世紀初頭には,正方位の都だったのではないかということだ。

 これはすでに方位の考古学で明らかにしましたね。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 >九州王朝の都=太宰府は6世紀末~7世紀初頭には,正方位の都だったのではないかということだ。

 これはすでに方位の考古学で明らかにしましたね。

はい。それを末端の官衙から遡らせていけないかと思って書いてみました。

〉 九州王朝が全国の統治権を握るのは、
 いわゆる「大化改新」。645年から。
 ここで初めて全国土と民は天皇のもの(=公地公民制)
 となり、国・郡・里の長はみな中央(=天皇)の任命制となる。

国府や国分寺より更に早い時期の「日本古代ハイウェー」は,どういう形で作られたのでしょうね?たとえば,各地の王にお願いしたとか?

>国府や国分寺より更に早い時期の「日本古代ハイウェー」は,どういう形で作られたのでしょうね?たとえば,各地の王にお願いしたとか?

 古代官道の中で、東山道武蔵路は、7世紀第四四半期の建設だと、道路建設に伴って埋納された土器の年代から判断されています。
 これは方位の考古学によって100年年代を上にあげますので、6世紀第四四半期となります。
 つまり575年~600年まで。
 国府や国分寺と同じ時代の事業だと思う。

 ではどうやって作ったか。
 当然九州王朝から命令が各地の王や王朝の官人たちに出たはず。
 王朝の直轄地なら直接王朝が官人を指揮して、民を動員して建設。
 そうでない地域なら、その地域の王=豪族が指揮して民を動員して建設。

 官道は都との官人や軍隊の往来や、国や郡同士の往来に不可欠なもの。
 国府も国の統治に不可欠な機関。
 国府寺も国の統治の宗教的側面に不可欠な機関。

 どれも必要不可欠ですから、お願いなど不要ではないでしょうか。
 命令で済むと思う。
 当時はまだ中央からの任命制ではなく、現地の有力者が郡や国を統治していたとはいえ、何が国家に必要で必要ではないかは、当然わかるでしょう。

 後の聖武の七重塔を作れとの命令など、余計なこと。
 何しろうち続く飢饉や疫病が流行っている中だ。
 そのうえそもそも彼は母方は王の血を引いていないし、跡継ぎもいない、権威のない王だ。
 そんな王の命令を郡司層いや、中央貴族である国司層だってやすやすとは命令を聞かないでしょう。
 飢饉や疫病退散を願うとの表向きの理由だが、聖武が仏に祈りたかったことは、自身の王朝の継続。娘(白壁王に嫁いだ長女の井上内親王)が男子を生んで王朝の継承者を作り、彼(生まれて他戸親王と名付けられた)が無事成長してくれることを祈ったもの。
 すごく個人的動機なのは明々白々。
 だから各地の国々を実際に統治している郡司層は動かなかった。
 だから冠位や褒美で釣ってお願いするしかなかった。
 それでも聖武の死までに七重塔を完成させたのは、わずか26か国。

 不要なものを作れと命令するにはお願いと褒美が不可欠だが、必要不可欠なものを作るには命令だけで充分でしょう。
 王朝から半ば自立した豪族層と言えども、国家的視点は持っているのだから、そこまで王朝側が卑屈になる必要はないと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 不要なものを作れと命令するにはお願いと褒美が不可欠だが、必要不可欠なものを作るには命令だけで充分でしょう。
 王朝から半ば自立した豪族層と言えども、国家的視点は持っているのだから、そこまで王朝側が卑屈になる必要はないと思います。

なるほど,そういうことですか。
日本古代ハイウェー(国家的危機)>聖武詔(個人の願い)という訳ですね。

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