« いきものがかりが「SONGS」に出演 | トップページ | ロッテ戦 4/15 »

2021年4月15日 (木)

古代官道(南海道)における道幅の謎

侏儒国民さんのサイト「もう一つの歴史教科書問題」に以下のような「問題」が出されていた。

多少とも古代官道に関わった私としては,興味ひかれるところだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

南海道土佐国の古代官道については、718(養老二)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国経由の野根山街道を経由するルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代によるものとする指摘は、701年のONラインの実在を大きく印象づけるものであった。
香南市の高田遺跡で古代南海道の遺構か?
 2018年に香南市野市町の高田遺跡で発見された推定古代官道跡は、南国市の土佐国府から安芸郡方面へ伸びていることから、当然ながら大和朝廷主導で敷設された阿波国を経る古代官道(養老官道)と考えられている。私も当初そのように考えていたが、一つ矛盾する点がある。高田遺跡で見つかった古代官道の幅が10.35mであったことだ。
高麗尺やめませんかーー古代官道の幅10.35m
 当時は深く考えず、むしろ高知新聞の記者が高麗尺を持ち出したことに批判的であった。ところが、『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)に次のように書かれていた。
 「地方では諸道の駅路が七世紀のものが10メートルから11メートル、奈良時代には12メートル・9メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は6メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も6メートルになることが多い」(P6~7)。
 木下良氏の記述に従えば、幅10.35mの古代官道は10~11mに納まるので、7世紀代に建設されたことになる。これは九州王朝時代の規格なのではないか。もし奈良時代に敷設されたのであれば、大和朝廷主導の12メートルないしは9メートル幅の規格になるはずだ。
 高田遺跡周辺には弥生時代から古代(奈良・平安時代)にかけて営まれた遺跡が所在している。ところが、古代のあとに続く中世(鎌倉・室町・戦国時代)の遺構や遺物はほとんど確認されていない。このことは796(延暦十五)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に官道(延暦官道)が変更されたことと対応しているようだ。
 だが、始まりが8世紀代とは言い切れない。高田遺跡からは、「平成27〜28年度の調査の結果、弥生時代の竪穴建物跡8軒と土器棺墓6基、古代の掘立柱建物跡24棟のほか、土坑や溝跡などが確認されました。遺物は弥生時代の土器や石器、古代の須恵器や土師器・土師質土器の他、金属製品や円面硯(えんめんけん)、緑釉(りょくゆう)・灰釉(かいゆう)陶器などが出土しました」との報告がある。
 一方、安芸市僧津の瓜尻遺跡が7世紀のものとされ、最大級の古代井戸跡も発見されている。少なくとも7世紀には土佐国府と安芸郡衙(評衙?)を繋ぐ古代官道が存在していたのではないだろうか。ただし、安芸郡と阿波国を結ぶ古代官道はまだなかったようだ。
 「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。

 このことは大和朝廷一元論では不思議とされてきたことであるが、九州王朝を起点とした古代官道は伊予ー讃岐ー阿波と通じており、一方で伊予ー土佐ルートもあったので、必ずしも土佐から阿波へと連結している必要性はなかったと言える。
 土佐国府から阿波国へ、全くのゼロから古代官道を新設するとなれば一大事業であり、莫大な費用もかかることだろう。今後の研究・調査が待たれるところではあるが、今回の帰結が正しいとすれば、「道ありき」「ローマは一日にして成らず」だったということである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★7世紀・・・10.35m
★奈良時代・・・12m・9m
★平安時代・・・6m
と普通には考えられているようだ。
私がこれに「アイデア」を付け加える。それは他でもない。
〈方位の考古学〉によって土器編年を遡らせるという方法だ。
すると,以下のように考えることができるのではないか。
★6世紀~7世紀・・・10.35m → 12m・・・北周や隋の台頭に対して※
★奈良時代・・・9m
★平安時代・・・6m
なので,6世紀の10.35mと7世紀の12mが九州王朝時代のもの。
奈良時代以降は大和王朝のものということになる。いかがだろうか。
※ 私が最初に「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」を書いた時,
東山道武蔵路の須恵器の出土から「7世紀第4四半期」としていたが,
その後の〈方位の考古学〉の発見により,関東の遺跡なので100年遡らせた。
※※ 方位の考古学

« いきものがかりが「SONGS」に出演 | トップページ | ロッテ戦 4/15 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

この古代官道の時代による幅の違い。
これに単純に方位の考古学による土器編年修正を当てはめて良いのか?
方位の考古学による遺跡の年代判定が適用できるのは、
1:それが土器編年による年代判定である。
2:その遺跡がどの地方にあるのか。
ここがはっきりしていて初めて適用できる。

木下良氏の
七世紀のものが10メートルから11メートル、
奈良時代には12メートル・9メートル、
      駅路以外の郡家間を繋ぐ伝路6メートル前後、
平安時代に入ると駅路も6メートルになる

 という数字が、「地方では」と書かれただけで、どの地方でなのかが書かれていない。
 そしてこの年代が土器編年なのか、文献なのかがわからない。

こうした性格不明なデータに方位の考古学による土器編年修正を当てはめることできません。

 ただこの7世紀や奈良時代が100年近く動く可能性があることはわかります。
 理由は道路建設の際の祭祀遺構から出た土器で7世紀第四四半期とされた東山道武蔵路が12m幅だから。
 ここは関東だから方位の考古学で土器編年を修正して、100年動かし、6世紀第四四半期、と判断できる。
 これは九州王朝時代だから次の7世紀の九州王朝時代も同じ12mと考えることができる。
 だから7世紀の10~11mは、この東山道武蔵路の6世紀第四四半期の前の時代になる。
 つまり6世紀台。
 だから
 6世紀~7世紀:10~11m⇒12m となるので
 奈良時代(8世紀):9m
 平安時代(9世紀~12世紀):6m

 と肥沼さんはしたのだと思います。
 これは単純に方位の考古学を適用した結果ではありませんね。

 結論は正しいと思うが、それを導き出す論証の過程を正確に記さないといけないですね。
 誤解を招きますので。

まずは当方のブログ記事をご紹介いただき、ありがとうございます。
『続日本紀』の記述によれば高田遺跡の古代官道は718年以降、大和朝廷によって建設されたと考えるべきところですが、『続日本紀』の記事には新道を作ったとか、駅家(うまや)を新設したなどとは書かれていません。土佐国からの申し出を許可したという内容です。後に駅家廃止記事は出てきます。
いわゆる聖武天皇の詔と同様なのです。すなわち九州王朝時代の遺産をそのまま活用した可能性があると推理したわけです。
古代官道の道幅に関してはもう少しデータを収集する必要があると思いますが、ONラインの画期を見出すことができたら面白いと考えています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 結論は正しいと思うが、それを導き出す論証の過程を正確に記さないといけないですね。
 誤解を招きますので。

そこのところ,さらに考えてみたいと思います。

侏儒国民さんへ
コメントありがとうございます。

〉 いわゆる聖武天皇の詔と同様なのです。すなわち九州王朝時代の遺産をそのまま活用した可能性があると推理したわけです。

私もそうではないかと思っています。

〉 古代官道の道幅に関してはもう少しデータを収集する必要があると思いますが、ONラインの画期を見出すことができたら面白いと考えています。

ぜひまたサイトに情報をお願いします。
ONラインは評が郡に変わった700年・701年だと思いますが,
その証拠探し(例えば,泉官衙遺跡(福島県)のさらに拡大した正方位の建物を作ったとか)ということでしょうか?

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« いきものがかりが「SONGS」に出演 | トップページ | ロッテ戦 4/15 »

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ