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2021年4月28日 (水)

旧・飛鳥寺と新・飛鳥寺のアイデア

飛鳥寺を1期だけで作ったとすると,様々な矛盾があって頭が混線してくる。

ここに多元的古代の考えを使ったらどうかと考えた。

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      【旧・飛鳥寺】                         【新・飛鳥寺】

本尊   石の本尊・石の台座                    飛鳥大仏・石の台座は再利用

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高さ約2.5m。素朴な姿のミロクさん ⇦ この大きさが石の台座に対応か?

飛鳥川の東岸にある、不思議な石仏『弥勒石(みろくいし)』。

飛鳥寺(Wikipedia)の南西方面、徒歩で10分くらいの位置にあります。

弥勒石は、高さが2.5メートルほど。素朴な彫り方のお地蔵様にも見えます。

木製の簡素な祠(と休憩所)が建てられていて、懐かしい田舎のバス停留所のよう。

美しいお花が手向けられていて、ちゃんと地元の方に守られているのが伝わってきます。】

【石の台座】 昭和31年(1956)・昭和59年(1985)の調査により、

竜山石(兵庫県高砂市付近産)の切石による巨大な台座とその上に宣字形須弥座が据えられていることがわかった。

【竜山石(宝殿石)】http://www.city.takasago.lg.jp/index.cfm/18,1085,176,886,html

【飛鳥大仏】609年、当代一流の仏師であった仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像

 高さ約3m、当時は銅15t、黄金30kgを用いて造られました。(弥勒石と,ほぼ同じ高さ)

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        ※ 飛鳥大仏の中金堂への収納や塔心礎の新宝物を封入の際に改装か

基壇   全部の伽藍が乱石積みで作られる ⇒ 中金堂と塔が新たに壇正積基壇に変えられる

    (横穴式石室の古墳で使われ      (7世紀中頃から使われ

     ていた技術の応用)         8世紀に流行)

副葬品  古墳時代当時にふさわしいもの    飛鳥時代当時にふさわしいもの

    (旧・飛鳥寺の際の埋葬)       (新・飛鳥寺の際に埋葬)

Img_0192 Img_0191

※ 飛鳥寺の地下には,西偏の遺構があるらしい ※ 現在の飛鳥寺は,正方位

 

 

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コメント

なるほど。
基壇外装が違うから、西金堂・東金堂と中金堂・塔は違う時期に作られた。
ここから
最初の飛鳥寺は、すべて乱石積で作られていたが、何らかの理由で
中金堂と塔は基壇外装を壇正積基壇に改装された。

 ここまでは私の推理と同じだ。
 違うのはこの先。

 肥沼さんは、中金堂の元の本尊は台座が石だから、本尊ももとは石の仏像、つまり百済からもたらされたという弥勒石像だったという説を利用して、
 元の飛鳥寺                            新飛鳥寺
中金堂の本尊は弥勒石像        ⇒       中金堂の本尊は金銅釈迦如来坐像
全ての堂の基壇外装は乱石積              中金堂と塔のみ壇正積に改装
塔心礎埋納物=古墳時代の系譜の物          塔心礎埋納物=飛鳥時代のもの

と考えたわけだ。

推理の筋は通っているが、疑問がいくつか出る。
1:塔心礎埋納物が変わったのは鎌倉時代に焼けて作り直した際は確認されているが、肥沼推論の根拠は埋納物に異なる時代のものが入っているという事実だけを根拠にしている。塔心礎は基壇の中の地下数メートルにあるので、中身を入れ替えるには、上の塔本体をどけないと無理。塔本体が焼けて亡くなったので作り替えるに際して、塔心礎の中身を確認し、新たに付け加えることができたわけだ。飛鳥大仏を中金堂に入れたとき、同時に塔も解体して作り直したのだろうか?
2:肥沼推論では、東・西金堂の改造が同時になされなかった理由が説明できない。
3:弥勒石=飛鳥寺の元の本尊 この説は成り立つのだろうか?鎌倉時代の様子を記した「七大寺私記」には東金堂には弥勒石像が祀られていたとある。これと弥勒石が同一物との証明はどうやってやるのかな?

私の考えはこうだ
二つの建物の外装基壇が改装されたのは、飛鳥寺が平城京に移されて元興寺となったとき。

   旧飛鳥寺(法興寺)            ⇒        新飛鳥寺(本元興寺)
 
中金堂の本尊・金銅釈迦如来坐像           中金堂の本尊・金銅釈迦如来坐像
東西金堂の本尊・薬師如来と阿弥陀如来  東西本堂の本尊⇒元興寺へ移転⇒空堂化
塔心礎埋納物=古墳+飛鳥のもの           塔心礎埋納物=古墳+飛鳥のもの
建物の基壇外装=乱積石基壇            事実上1金堂+塔伽藍に変更なので
                              中金堂・塔の基壇外装を壇正積に変更
 と考えました。
 平城京に飛鳥寺を移して元興寺としたのは8世紀ですから、壇正積基壇がもっとも流行った8世紀に符合します。

 私の考えの根拠は
 6世紀末~7世紀初頭にあった金堂の向きをそれぞれの浄土の位置に符合させて浄土を具現化するという思想が8世紀には廃れていて(背景には1金堂制に移行したから)、飛鳥寺に三つも本尊が置かれる必要がないと考えられ、首都平城京に太宰府と同じく鎮護国家の中枢寺院である元興寺を作ると近畿王朝が考えた際に、建物や本尊を既存の寺院から調達して移築としたのではないかと推測。
 元興寺の建物はどこから移築したか?は不明だが、
 本尊は飛鳥寺の東・西金堂のものを移したと考えてはどうか という仮説。
 これが根拠です。

 元興寺の建物と本尊の由来を調べないといけないですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

う~ん,まだまだ推理が足りませんでした・・・。

肥沼さんへ

 ところで、西門が南門より大きい謎は考えてみましたか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
 
〉 とところで、西門が南門より大きい謎は考えてみましたか?

南門より西門の方が重視されているのではないかと思いますが,
それは四天王寺の例があるのでそう思ったまでです。
ぜひ川瀬説をお聞かせ下さい。

>南門より西門の方が重視されているのではないかと思いますが,
それは四天王寺の例があるのでそう思ったまでです。

もちろんそうです。西門が重視されているのです。
 ではその理由は。
 ヒントは前に書いたこと。
1:仏教では西はどのような意味があるところ?
2:この寺院の伽藍中軸線の方位は?⇒したがって西門の方位は?

 この二つを考えれば答えはでます。
 ちなみに同じく西門が重視されている四天王寺は
 伽藍中軸線:西偏2度 ⇒西門の方位は 真西から南に2度寄った方向。ほぼ真西。

 なぜ四天王寺で西門が重視されているかは言い伝えがあるので、検索すればすぐわかります。

私に頼っていないで自分で推理してください。ここまでポイントを教えたんですから。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

飛鳥寺はほぼ正方位だと思うので,西門の方位もほぼ西。
「西方浄土の方位」ということてで西門を大きくしているということでしょうか。

>飛鳥寺はほぼ正方位だと思うので,西門の方位もほぼ西。
「西方浄土の方位」ということてで西門を大きくしているということでしょうか。

はい。正解だと思います。
 そしてこの西門の真ん中に太陽が沈む日が一年に一度あると思います。
 つまり太陽が真西に沈む日。
 調べてみてください。

訂正。
年に二度ですね。太陽が真西に沈むのは。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「お彼岸の豆知識」というサイトに,以下のようにありました。

「阿弥陀仏のいらっしゃる極楽浄土は「西」にあるとされています。そのため、真西に太陽が沈む春分の日、秋分の日は夕日が極楽浄土への道しるべと考えられました。
この日沈む太陽が示す極楽浄土への道を信じて進めば、必ず極楽浄土に至ると信じられ、現在の彼岸の行事が生まれました。」

ということは,飛鳥時代に「浄土教」「阿弥陀教」は伝わってきていたということですね。

>ということは,飛鳥時代に「浄土教」「阿弥陀教」は伝わってきていたということですね。

 はい。その通りです。
 そして常識に反して、奈良時代もすでに浄土思想のオンパレードです。
 ただし平安末期と異なるのは、平安末期は西方極楽浄土、つまり阿弥陀浄土だけなのですが、飛鳥時代奈良時代の浄土思想は、阿弥陀の西方浄土だけではなく、薬師の東方浄土、そして弥勒の兜率天浄土など、さまざまな浄土が信じられていたという違いがありますが。

 そしてこの思想に基づいて作られた寺院の伽藍形式として最も古いものが「飛鳥寺式」、この形式は複数の浄土を具現化するもの。
 そして次が「観世音寺式」、阿弥陀浄土だけの具現化です。
 さらに豊後国分寺がもし東方浄土を具現化した東金堂だった場合は、この形式が三つ目となり、薬師如来の東方浄土具現化伽藍となるわけです。

 すなわち浄土を具現化した伽藍形式は、
 1:全部一遍に具現化する飛鳥寺式。
 として始まり、
 2:それぞれの浄土を一つだけ具現化する観世音寺式と仮称「豊後国分寺式」。
 へと分化したのだと思う。
 そして
 3:他の浄土が忘れ去られたあとでも残ったのが西方極楽浄土。
 平安時代中頃以後にまた、西方極楽浄土を具現化した寺院が出現しましたよね。
 宇治平等院など。これも東面した南北に長いお堂で、今度は堂の前面、すなわち東側に極楽浄土の池を再現しています。もちろんこれは浄土の花である蓮で覆われた池。

 前に「鎮護国家の寺院として観世音寺式が全国的につくられたのではないか」との観点で研究論文を出された方がいましたが、「飛鳥寺式」がその先行形態だったのではないかと考えています。

 飛鳥寺の西門が年に二回の真西に太陽が沈む日を、彼岸に至る道が開けた日として盛大に祀る行事のためのものなら、この「事実」は、西金堂に阿弥陀仏が祀られていたことの傍証の一つになると思います。

 そしてもう一つ、同じ信仰に基づいて西門が重視された四天王寺は、元はここも飛鳥寺式伽藍だったのではないかとの推理が働きます。
 つまり飛鳥寺式伽藍の東西金堂を無くしてしまうと、四天王寺式になります。
 もしかしたら全国の四天王寺式伽藍の中に、元は飛鳥寺式伽藍だったものが多数あるのではないかとの推測も成り立ちます。
 飛鳥寺に近いところでは山田寺。

 もちろん一金堂となった形式が一般化した時にできた「四天王寺式」伽藍もあるとおもいますが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 常識に反して、奈良時代もすでに浄土思想のオンパレードです。
 ただし平安末期と異なるのは、平安末期は西方極楽浄土、つまり阿弥陀浄土だけなのですが、飛鳥時代奈良時代の浄土思想は、阿弥陀の西方浄土だけではなく、薬師の東方浄土、そして弥勒の兜率天浄土など、さまざまな浄土が信じられていたという違いがありますが。

 そしてこの思想に基づいて作られた寺院の伽藍形式として最も古いものが「飛鳥寺式」、この形式は複数の浄土を具現化するもの。

(肥沼) 浄土思想 ⇒ 具現化 ⇒ 伽藍形式 ~勉強になりました。

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