「豊後国分寺」にも素弁瓦があった・・・
今川瀬さんによって「国分寺」の精査が続けられている。
昨日送られてきたのは「豊後国分寺」の瓦の精査だった。
その中に「素弁瓦」(Ⅴ類)があった。
これで7世紀初頭にこの国府寺(国寺)が建てられたことがわかる。
聖武天皇の「国分寺建立の詔」は741年だから8世紀半ばなので,
それを100年以上遡ることになる。
真の古代史研究は,「スリルとサスペンス」に満ちている。
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【多元的「国分寺」研究サイト】
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2021/04/post-e12ffb.html
7世紀初頭・・・素弁
7世紀半ば・・・単弁
7世紀後半・・・複弁
8世紀半ば(聖武期)・・・リバイバル単弁
平安時代・・・巴文
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肥沼さんはやはり、素弁瓦の出現に注目しますね。
たしかにこれは、少なくとも近畿では6世紀末から7世紀初頭の瓦なので、素弁瓦が出ればその寺院の創建は6世紀末から7世紀初頭となり、「聖徳太子伝」の594年国府寺布告と一致するわけだからね。
九州だとこれはさらに古く、6世紀後半に遡るかもしれませんが。
でも私はそれよりも、どの国分寺からも平城宮系の軒丸瓦やその中のリバイバル単弁が出ることの方に面白さを感じた。
豊後国分寺でいえばⅠ・Ⅱ・Ⅲ類。
今までの国分寺研究ではこの瓦は注目されていない。
おそらくは平城宮の発掘が国分寺の研究が始まった時代にはまだ進んでいなかったので、その瓦の実態が知られていなかったことが原因の一つだろう。九州地方の国分寺の研究論文を『新修国分寺の研究』所収の論文で読んでいるが、平城宮瓦を意識した研究には出会わない。
しかし九州の6つの国分寺をやってみて、多くで平城宮系の瓦が出土することがわかった。
当たり前のようだが、それだけ国家の威信をかけた建設工事なので、当時同時並行で建設が行われていた平城宮第二次朝堂院で使われた瓦の型が各地の建設工房に運ばれて、ある意味、全国統一デザインで飾られた「国分寺」と七重塔にしようとの聖武天皇の強い意志を感じます。
投稿: 川瀬健一 | 2021年4月25日 (日) 23:52
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 肥沼さんはやはり、素弁瓦の出現に注目しますね。
→ 前に「東偏」にこだわったことがあり,それが最終的に〈方位の考古学〉につながりました。
「素弁」もそういう匂いを感じるので反応しちゃいます。
〉 でも私はそれよりも、どの国分寺からも平城宮系の軒丸瓦やその中のリバイバル単弁が出ることの方に面白さを感じた。
豊後国分寺でいえばⅠ・Ⅱ・Ⅲ類。
今までの国分寺研究ではこの瓦は注目されていない。
おそらくは平城宮の発掘が国分寺の研究が始まった時代にはまだ進んでいなかったので、その瓦の実態が知られていなかったことが原因の一つだろう。九州地方の国分寺の研究論文を『新修国分寺の研究』所収の論文で読んでいるが、平城宮瓦を意識した研究には出会わない。
→ 平城宮瓦といわれてもピンときませんでしたが,
九州でたくさんそれが出ていることには興味をひかれますね。
「大和色」に染めようとしている感じで。
〉 しかし九州の6つの国分寺をやってみて、多くで平城宮系の瓦が出土することがわかった。
当たり前のようだが、それだけ国家の威信をかけた建設工事なので、当時同時並行で建設が行われていた平城宮第二次朝堂院で使われた瓦の型が各地の建設工房に運ばれて、ある意味、全国統一デザインで飾られた「国分寺」と七重塔にしようとの聖武天皇の強い意志を感じます
→ 今回の川瀬さんの「国分寺」の精査によって,
画期的な「国分寺」の研究ができることになりますね。
投稿: 肥さん | 2021年4月26日 (月) 06:33