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2021年4月16日 (金)

100年前の「ONライン」

大和王朝は7世紀末・8世紀初頭に成立し,

古田武彦氏は700年・701年の境をONラインと呼んだ。

(評と郡の木簡によってもここが画期といえるだろう)

では,九州王朝の場合そういうONラインのようなものがあるか?

そんなことを考えてみた。

すると,6世紀末・7世紀初頭が100年前の「ONライン」に

当たるのではないかと思った。

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・太宰府が正方位・条坊制の都として誕生(6世紀末~7世紀初頭)

・66か国に国府寺(国寺)の設置を命令(594年「聖徳太子伝」)

・移築されたと思われる法隆寺の心柱の伐採年(594年)

・古代日本ハイウェーの建設を命令(東山道武蔵路で6世紀第4四半期の須恵器が出土)

・遣隋使の派遣(600年,607年,608年)

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半年ほど前に「日本書紀にはあるが,古事記には出て来ない言葉」として10個のものをあげた。

いずれも主権国家として記されるべきキーワードだ。

残念ながら,古事記にはそれらが出て来ない。

これも上記の事実と軌を一にすると考える。

【“「古事記」には出て来ない”シリーズ】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/10/post-baf418.html

 

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

>6世紀末・7世紀初頭が100年前の「ONライン」

 これは王朝交代の画期ではなくて、王朝自身の自己変革の画期ですね。
 言い換えれば
 7世紀半ばの「大化」改新による統一国家の形成に帰結する画期。隋・唐という巨大な統一国家出現に対抗し、自身もまた天皇を頂点とする官僚制によって統治された統一国家に脱皮しようという動き。

 こう考えることができますね。

 従来の地方豪族=地方の王による自治を基盤とした「連合政権」を否定し、「統一国家」に脱皮する。
 外からの危機を名目にしたものであるが、当然その権力を否定される地方の王の反発を招いたわけだ。
 この反発のせいで唐との直接対決に際して、これをボイコットする有力豪族(近畿天皇家など)が現れ、敗戦も伴って九州王朝自壊の引き金となる。

 こんな状況の中で列島支配権を引き継いだ近畿天皇家だから、彼らは公地公民制という中国流の統一国家を目指しはしたが、諸豪族の反発は侮れず、結局公地公民制の枠内でも諸豪族の特権を認め、朝議も貴族の合議制となり、王位すらも有力貴族の合議制となり、聖武の時代に、墾田永年私財法を通したことで、公地公民制すら解体することに。

 まるで統一国家を目指した豊臣政権が、対外戦争の敗北と秀吉の死をきっかけに自壊し、これに変わって政権を担った徳川は、将軍の絶対権力に基づく統一国家ではなく、諸大名の連合政権となったのと、瓜二つです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「歴史は繰り返す」ですかね。

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