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2021年4月16日 (金)

安芸市僧津の瓜尻遺跡の謎——国内最大級の古代井戸

侏儒国民さんが前に報告されていた瓜尻遺跡の「一辺約23メートルの溝で四方が囲まれ,溝に沿った柵列跡のある方形区画遺構」が西偏だったので,少し気落ちしていたのだが,今回は東偏の条里ということで興味をひかれた。(西偏には,反九州王朝の意味があるかも)

まず,侏儒国民さんの報告から・・・。

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高知県安芸市僧津の瓜尻遺跡で、一辺約23メートルの溝で四方が囲まれ、溝に沿った柵列跡のある「方形区画遺構」が発見されたことは、当ブログでもすでに報告した(“安芸市僧津の瓜尻遺跡で古代寺院と官衙跡”、“安芸市僧津の瓜尻遺跡の古代瓦はコゴロク廃寺とは別タイプ”参照)。溝から出土した須恵器の年代から、方形区画遺構は7世紀前半くらいに整備が始まったとみられる。「厳重な造りから豪族が利用していた施設と考えられるが、役所にしては規模が小さく、居館にしては生活用具の出土がない。流路や入り江状の遺構が近接していることから水運に関わる港のような機能を持った場所の可能性がある」と考えられているようだ。溝からは木簡のようなものも発見されており、文字資料がないか調べる。
 さらに注目を集めることになったのは、遺構の中に直径約9.5mの井戸遺構が見つかったことだ。その規模は古代の井戸遺構としては国内最大級の大きさ(平城京では約6.6m)だという。井戸遺構は内側に足場のある2段構造になっていて、中心部分に一辺約70センチの木製の井戸枠があった。特殊な構造であることや、近くに川があり井戸を作る必要性が考えにくいことから、安芸市教育委員会は「神聖な行事のための水として使われていたのでは」と推測している。

<国内最大級の古代井戸 直径9.5メートルも 高知・瓜尻遺跡>
https://www.youtube.com/watch?v=VXW_0Au5NEA

 報道の内容を整理しながら、いくつかの疑問点が沸き上がってきた。
①地方の郡になぜ国内最大級の井戸が?
②本当に宗教的な施設なのか?
③郡家や条里制との関係は?
 はっきりしたことが分からない段階で、何か結論じみたことを明言することは危険であるが、現段階の報道内容では不満を感じる人も多いだろう。見当違いもあるかもしれないが、少し踏み込んだことまで言及してみたい。
 まずは安芸市の地政学的位置づけについて。土佐国(高知県)には安芸・香美・長岡・土佐・吾川・高岡・幡多の7郡あり、最も東に位置する。43郷中8郷が安芸郡に属し、うち5郷が現在の安芸市に含まれていたとされることから、古代土佐国において人口が集中する重要拠点であったと考えられる。にもかかわらず、「安芸市内には延喜式内社が存在しないことが不思議だ」と広谷喜十郎氏は指摘する。また、安岡大六氏の説に「キ族とは海洋民族のことで、安芸には水主、すなわち航海業者が比較的に多かった。安芸の語源かと考える」とある。
 川北の江川から銅鉾、伊尾木の切畑で銅鐸が発見されており、安芸市は銅鉾文化圏と銅鐸文化圏の接点に位置する。銅鐸文化圏に銅鉾文化圏の勢力が侵入したと見るべきだろうか。その後、時代的な隔たりはあるだろうが、安芸川右岸には条里制水田が営まれたであろう。安芸市の条里制地割の北辺にあるのが、このほど発掘調査が行われた瓜尻遺跡なのである。その西側に「井ノ口甲一ノ宮」地名とともに一宮神社や一ノ宮古墳が存在する。

 また、古代寺院跡の存在を示す軒丸瓦も出土していることから、この付近が宗教的中心地であったとし、井戸は宗教的儀式に用いられたとの考えは一理ある。しかし古代において政教分離という縛りはない。水路跡も単に護岸施設というよりは、条里制水田の灌漑施設に関係しているのではないかとのアイデアが浮かんできた。現在でも安芸川の栃ノ木堰から取水して、安芸平野を灌漑しているとのこと。昔は5か所から用水路を引き込み、安芸川の氾濫にも悩まされ、治水に苦労したという。

 つまり、僧津の瓜尻遺跡の位置づけとしては、7世紀当時は宗教的中心地であり、港であり、さらには安芸条里を管理する複合的施設なのではなかったか。そして、単なる地方の一豪族が広大な安芸条里を一括管理するには荷が重すぎる。遺跡は7世紀、すなわちONライン(701年)以前と年代比定されており、多元史観によれば九州王朝系の勢力による条里制の施行という可能性が見えてくる。「国内最大級の古代井戸」からは、そのような意味が読み取れるのではないだろうか。
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私が気になったのは,「9mの大きさの池」ではなく,条里制だった。
明らかに東偏の巨大な条里がまず目に入る。
これは防府市や府中市の例もあるが,九州王朝の作らせた条里だと思う。
(防府市は瀬戸内海に,府中市は多摩川に面していて,船の航海・輸送に便利である)
そして,あまり目立たないのだが,北東に2つの正方位に近い「条里」様のものが見える。
東偏に接するものが九州王朝の「正方位」で,離れたところにあるのが大和王朝の「正方位」ではないかな。
(もしかしたら現代のものだったりして!?)

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コメント

肥沼さんへ

 この23m四方の、中に巨大な井戸を持つ方形区画の年代は、
 「溝から出土した須恵器の年代から、方形区画遺構は7世紀前半くらいに整備が始まった」とあるので、
 方位の考古学によって年代を50年上げて、6世紀末から
 と訂正することができます。

 東偏の条理遺構と言い、この方形区画の年代といい、明らかに安芸地方は九州王朝時代に整備が始まったことを示しています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  東偏の条理(里)遺構と言い、この方形区画の年代といい、明らかに安芸地方は九州王朝時代に整備が始まったことを示しています。

「目は口ほどにものを言い」という言葉がありますが,
〈方位の考古学〉では,「方位は雄弁に歴史を語り」と言えそうです。

ありがとうございます。
古代土佐国(高知県)の条里制は国府周辺の香長平野で東偏12度(N12°E)、高知市西部の鏡川下流域で西偏16度(N16°W)となっています。
地形に合わせた条里のようにも見え、単に東偏か西偏かだけで、どの時代に施行されたかを判断できるのか、慎重に判断したいところです。

侏儒国民さんへ
コメントありがとうございます。

〉 地形に合わせた条里のようにも見え、単に東偏か西偏かだけで、どの時代に施行されたかを判断できるのか、慎重に判断したいところです。

その通りだと思います。

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