« 「飛鳥時代」(古墳時代後半~)の斎宮は東偏 | トップページ | 東偏の飛鳥寺式は,正方位の飛鳥寺式より古いはず »

2021年3月12日 (金)

飛鳥寺・川原寺・橘寺(工事中)

飛鳥寺・・・塔+3金堂(東・中・西)+講堂・・・斉明紀に1回,天武紀に2回,持統紀に1回。

川原寺・・・塔+2金堂(中・西)+講堂・・・橘寺とペアの僧寺か?(同范)(中軸線)・・・創建記事が「日本書紀」にない。

橘寺・・・塔+金堂+講堂=四天王寺式(東が正面)・・・川原寺とペアの尼寺か?(同范)(中軸線)・・・聖徳太子誕生の地?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これらの寺がけっこう近い距離にあるようだ。

なんか古代寺院のコレクションのように思えるなあ。

« 「飛鳥時代」(古墳時代後半~)の斎宮は東偏 | トップページ | 東偏の飛鳥寺式は,正方位の飛鳥寺式より古いはず »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 古代寺院の伽藍配置にご興味がおありなら、次の論文を読んでみてください。
 https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/13/013_ronbun_a.pdf
 「わが国古代寺院の伽藍配置」。1990年代ぐらいの論文ですが、かなり論点が整理されています。しかもそれぞれの寺院の年代も文献で特定されており、その伽藍変遷の経緯も推定されています。
  森郁夫氏の論文。

 また川原寺の伽藍配置ですが、中金堂とされているものは講堂と考えることもでき、その北側の講堂を見られるものは僧坊と見ることもできます。これは大津京の崇福寺も同様です。
 たしか貞清 世里さんが観世音寺式伽藍の考察をしていた論文でもこの二つは観世音寺式に分類していたと記憶があります。
 あとで確かめてみますが。

※追伸:「鎮護国家の伽藍配置」で崇福寺は明確に観世音寺式と断定していますね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私はこれまであまり伽藍配置について考えて来たとは言い難いのですが,
最近多元的「国分寺」研究を再開したということで,
前から疑問に思ってたことを書いておこうと思ったのです。

というのは,日本で最も早い時期の伽藍形式が,飛鳥にたくさん集まっている。
いやもっと言うと,集まり過ぎているということなのです。
それゆえ,仏教がスタートした地として飛鳥がとらえられている。
今まで,飛鳥寺式の寺は,九州王朝が0に対して,大和王朝が1(飛鳥寺)だったのが,
今やもしかしたら,九州王朝2(薩摩国分寺と椿市廃寺)になったかもしれない。
すると,これまでの常識であった九州<大和が,九州>大和と逆転する可能性がある。
そのことと,これまでの常識(飛鳥寺,川原寺,橘寺)が集中しているが矛盾していたという事実です。

まだ移築説を唱えるところまでは行きませんが,
法隆寺を移築することをするくらいの王朝だったら,
それ以前の寺院の移築もあったのではないか・・・なんて思い始めた次第です。
そのきっかけが「飛鳥には古い寺院が集まり過ぎているのではないか?」という
かつての疑問だったという次第です。

>日本で最も早い時期の伽藍形式が,飛鳥にたくさん集まっている。
いやもっと言うと,集まり過ぎているということなのです。

これは見かけだけのことだと思います。
北部九州。特に太宰府周辺と博多周辺、それに久留米や大分県京都郡あたり。つまり九州王朝の都があった地域もまた、飛鳥と同じだど思います。
 ただ注目されないのは、九州の古代寺院の年代が意図的に100年後ろにずらされているから。
 だからこれらの地域の古代寺院の伽藍形式を調べその年代を調べ、年代を100年ずらせば飛鳥と同じ様相が見えてくると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうごさいます。

〉 これは見かけだけのことだと思います。
北部九州。特に太宰府周辺と博多周辺、それに久留米や大分県京都郡あたり。つまり九州王朝の都があった地域もまた、飛鳥と同じだど思います。
 ただ注目されないのは、九州の古代寺院の年代が意図的に100年後ろにずらされているから。
 だからこれらの地域の古代寺院の伽藍形式を調べその年代を調べ、年代を100年ずらせば飛鳥と同じ様相が見えてくると思います。

なるほど。この点でも〈方位の考古学〉の果たす役割は大きいですね。

追伸
 飛鳥に様々な様式の古代寺院が多い理由。
 九州の古代寺院が土器編年や瓦編年で年代を100年後ろに下げられている以外にも、理由はあります。
 それは、
 飛鳥は7世紀から8世紀に都が移ってしまってから忘れられた地となり、近代になったときには水田と畑の広がる村落だった。だから考古学が入ってきて発掘するとき、地域丸ごとで掘ることができた。
 これに対して、博多は、古代・中世を通じて外国交易の拠点としての港湾都市であり、近世に入って黒田氏が福岡藩50万石の城下町を築いたため、そのまま古代遺跡は町の下層に入ってしまった。
 そして近代に入ってからも博多・福岡は九州の拠点的都市であったため、全体を掘ることができなかった。
 道路の拡幅や巨大施設の建設などで家々が移動するときに初めて部分的に掘れるていど。
 太宰府は都として、さらに中世に鎮西の中心都市としての機能が失われると田園となり、これが近世近代も続いたため、都市丸ごと掘ることができたので、古代官衙・寺院が多数出ている。
 だが飛鳥と異なるのは予算の問題。
 飛鳥は古代日本の首都と誤認されているので、地域開発とは別に、国家的な予算が付いた発掘ができる。
 これに対して太宰府は一地方都市扱いなので、国家予算は付きにくく、他の地方と同様、地域開発の道路建設や大規模施設建設が行われるに際して緊急発掘を行う方法でしかできない。
 豊前京都郡も中世近世近代とずっと農村であったため、地下には沢山の遺跡が眠っている。
 ここが近年注目されたのは、九州縦貫道建設でたくさんの古代遺跡が出てきたためです。

 こうした当該地域が都ではなくなった以後の状況が、遺跡発掘に与えた影響が大きいため、見かけ上飛鳥に古代寺院が集中しているように見えるだけです。

 九州王朝論者には法隆寺の移築がかなり明確になったことに影響を受け、古代九州の主要寺院が飛鳥や奈良に移築されたと言ってしまう人が多くいますが、これは暴論の類です。
 飛鳥や奈良の一つ一つの古代寺院の遺跡や遺物や遺構を検討すれば、法隆寺以外にも移築の痕跡が見つかるものはあるとは思います。
 
 でも九州王朝説を擁護する立場から安易な移築論に走るのではなく、考古学そのものの主張を九州王朝説に従って疑ってみることが大事だと思います。
 古賀さんは前期難波宮の存在が九州王朝説を否定していると誤認して、大阪歴史博物館の孝徳の宮との主張の年代だけをそのまま容認して、これを九州王朝説に組み込むために、その副都という論を持ち出したわけですが、これは九州王朝説に立って考古学の見解を疑ってみるというものではなく、むしろ近畿一元史観にたった考古学への九州王朝説の屈伏になってしまっているのです。

 服部さんの素弁蓮華文軒丸瓦の研究や、私たちの方位の考古学の研究は、古賀さんのとは異なり、近畿一元史観に立つ考古学の見解を疑って再検証し、その成果を組み直そうとする試みです。

 肥沼さんも安易な移築論には組しないように気を付けてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

気を付けたいと思います。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 「飛鳥時代」(古墳時代後半~)の斎宮は東偏 | トップページ | 東偏の飛鳥寺式は,正方位の飛鳥寺式より古いはず »

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ