お寺の「伽藍」カード
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コメント
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いつになったら肥前国分寺の伽藍変遷の仮説ができるのだろうか?
金堂が金堂でないとしたら当然講堂。
ならば伽藍配置は大官大寺式ではないですよね。だとしたら・・・・
そしてE地区発掘の事実をもとにした肥後国分寺の伽藍変遷の仮説ができるのだろうか?
E地区の各時期は土器編年できちんと年代が出されている。
これを方位考古学で100年ずらせばこのE地区の遺構とその各時期の年代は確定だ。
松本試案の塔は確実なのは塔心礎の位置と東西南北の幅だけ。基壇の方位は不明。
また塔の築造年代も掘っていないから不明。
そして塔の回廊とされたものも幅2mほどのトレンチで見つけただけだから、それぞれの正確な方位は不明で塔を囲むものかどうかも不明だ。
さらに現国分寺本堂下の礎石と基壇は、どの時代のものかと正確な方位も不明だ。
年代も方位も不明な塔と塔回廊、そして現国分寺下の遺構。
これと年代も方位も明確なE地点の遺構をどうやったら組み合わせられるか。
不明遺構はその年代や方位はいくつかの仮説を立てて、それとE地点を組み合わせるしかない。
E地点遺構。
Ⅰ期の方形基壇を寺院の何と考えるか。塔との位置関係と距離を考えれば推定可能。
Ⅱ期の方形基壇を破壊した幾筋かの溝を何だと考えるのか。
Ⅲ期のⅠ期方形基壇地業の上に築かれた回廊を、何に取りつき何を取り囲む回廊と考えるのか。これは方位の考古学で8世紀と見られるから、この時期に回廊を付ける寺院建物は一つに限られる。
これがポイントだ。
投稿: 川瀬健一 | 2021年3月 9日 (火) 13:05
川瀬さん
コメントありがとうございます。
〉 いつになったら肥前国分寺の伽藍変遷の仮説ができるのだろうか?
金堂が金堂でないとしたら当然講堂。
ならば伽藍配置は大官大寺式ではないですよね。だとしたら・・・・
金堂より東西に細長い建物ということで,「(講堂ではないかという意味で)
肥後国分寺の講堂が4間×9間ですよね」とお返事したのですが・・・。
講堂でよかったのですね。
投稿: 肥さん | 2021年3月 9日 (火) 16:28
>講堂でよかったのですね。
これを私が確認しないと前に進めないのかな?自分の判断でどんどん結論を出すべし。
それが間違いならまた別に指摘します。
金堂ではなく講堂→ならば本来の肥前国分寺の伽藍配置は何?
そしてこの本来の伽藍配置をどう改造したのでしょうか?
投稿: 川瀬健一 | 2021年3月 9日 (火) 16:41
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 これを私が確認しないと前に進めないのかな?自分の判断でどんどん結論を出すべし。
それが間違いならまた別に指摘します。
ということなので,ダメもとで書いてみます。
【肥前国分寺】
もともとの法起寺式 → 塔を拡大したので,金堂の位置を移動し,大官大寺式に換えた。
金堂を中央に移動し,講堂を北に下げた。そのため,僧房が「小子房」に変化したのではないか。
【肥後国分寺】
E地点遺構。
Ⅰ期の方形基壇を寺院の何と考えるか。塔との位置関係と距離を考えれば推定可能。
→ 塔の北東だから,講堂と考える。金堂だったら,塔の東に当たるから。
Ⅱ期の方形基壇を破壊した幾筋かの溝を何だと考えるのか。
→ SB102が,河川の氾濫で壊された。しかし,その堀を使って資材を運び,南に下がった土地に建物(講堂)を作った。
Ⅲ期のⅠ期方形基壇地業の上に築かれた回廊を、何に取りつき何を取り囲む回廊と考えるのか。これは方位の考古学で8世紀と見られるから、この時期に回廊を付ける寺院建物は一つに限られる。
→8世紀中頃(〈方位の考古学〉なら7世紀中頃=650年頃)に講堂に取りつき,回廊内に塔と金堂を入れるのは,
法隆寺式と考える。
投稿: 肥さん | 2021年3月10日 (水) 05:39
【肥前国分寺】
>もともとの法起寺式 → 塔を拡大したので,金堂の位置を移動し,大官大寺式に換えた。
金堂を中央に移動し,講堂を北に下げた。そのため,僧房が「小子房」に変化したのではないか。
もともと法起寺式であった寺院の塔を拡大したのはたしかだ。
だが金堂を移動した・・・・・・この痕跡はない。移動したのが現在の基壇ならこんなに東西が長いはずはない。
可能性は二つ。
1:法起寺式の伽藍の塔だけ拡大した。
2:法起寺式伽藍の金堂を解体し、もともとの講堂を金堂に転用した。
どちらかというと、2.
そう判断する理由は
金堂とされた東西に長い基壇の北側の講堂と思われる場所に、人工的盛り土と動かされた礎石があること。
これがもとの講堂を金堂に転用したので、北に新しく講堂を作った痕跡。
そしてもともとはここに僧房があったのだろうが、それを壊して、新講堂のすぐ北側に掘立柱の小僧房を作った。
あとは出土した瓦との関係を考えて年代を決定したい。
【肥後国分寺】
E地点遺構と塔の関係を考えるとき、、まず塔はもともとこの位置にあったと仮定する。
この仮定が抜けている。
Ⅰ期の方形基壇建物
>→ 塔の北東だから,講堂と考える。金堂だったら,塔の東に当たるから。
講堂との推定はありうる。 だが僧房という推定もありうる。
しかし「金堂なら塔の東」という推定は、松本試案の法隆寺式との案に縛られている。
Ⅰ期基壇建物の下限が8世紀中頃とされているので、実際は7世紀中頃。
下限だから、7世紀初頭もありうる。
7世紀初から中の寺院伽藍形式は、
法隆寺式・法起寺式・観世音寺式・四天王寺式だ。
このどれだろうか。
塔が今の位置とすれば、四天王寺式は消える。
塔が西側だから残るのは法隆寺式。基壇建物はその講堂か僧房と考えられる。
だが僧房とするには塔に近いし、講堂とするには塔から遠い。 法隆寺式との想定は無理か。
では塔はもともとはここになかったと仮定する。そして今の塔はⅢ期の回廊を伴う建物ができたときに今の位置に作られたと仮定する。
これなら四天王寺式も想定できる。
この場合は基壇建物は講堂。
したがって塔は、熊野神社が立っている方形地形のすぐ北側。そしてこの北に金堂があったと考えることは可能だ。
だがまったく遺構がないので単なる想定。
Ⅰ期は法隆寺式(塔が今の位置と仮定)もしくは四天王寺式(塔は別の場所)が考えられるが決め手はない。
Ⅱ期のⅠ期基壇を破壊した溝
>→ SB102が,河川の氾濫で壊された。
この想定は正しいと思う。何しろ同じ方向に湾曲した溝が複数考えられるのだから。
>その堀を使って資材を運び,
資材をこの溝を使って運んだかどうかはわからない。そして
>南に下がった土地に建物(講堂)を作った。
南に下がった土地に新たに作られたのは幅が4mもある大型の、おそらく複廊の回廊しか確認できない。講堂ではない。
Ⅲ期の回廊遺構
>→8世紀中頃(〈方位の考古学〉なら7世紀中頃=650年頃)に講堂に取りつき,回廊内に塔と金堂を入れるのは,
法隆寺式と考える。
8世紀中頃はⅢ期ではなく、Ⅰ期だ。だから7世紀中頃になるのはⅠ期の基壇建物。
Ⅲ期の回廊は9世紀とされている。だからこれは8世紀。
>講堂に取りつき,回廊内に塔と金堂を入れるのは,法隆寺式と考える。
7世紀中頃ならこの想定ができるが、8世紀なのだから違う。
またⅢ期の回廊は塔の東側にあるのだから、このままでは塔は回廊の外になる。したがって回廊内に塔がある古式の法隆寺式は想定できない。
8世紀は回廊が取りつくのは金堂。
したがって回廊の北辺の東に大きな金堂が作られたはず。
つまり金堂院の南西の位置に塔を置く、東大寺式の伽藍だ。
そして塔の東と北の同じ距離に幅3mの回廊が基壇があったのだから、松本氏の想定通りにこれは塔院となる。
東大寺の場合も塔院形式だ。
東大寺式と判断すれば、現在の国分寺の本堂下にある基壇と礎石は、回廊との位置関係から鐘楼か経堂。
以上のように考えた方が良いと思います。
※このスレッドは夢ブログではなく多元的国分寺研究サークルに置くべきでしょう。
投稿: 川瀬健一 | 2021年3月10日 (水) 13:55
追伸
肥後国分寺の記述の最後に(P188)、重要な追加情報がありました。
E地区の東側を掘った結果、Ⅰ期の地業の東端が出てきた。
この結果この建物は、
北側に 東西35m、南北16mの建物 があり、
その南に近接して 東西35m、南北8.4mの二つの建物からなることがわかった。
北側が僧房の大房で南側が小子房と考えられています。
こうなるとこの建物は
1:松本試案の講堂の北半分と重なる
2:建物の中心軸は松本試案より東に40m余動く→松本試案の塔回廊の東が伽藍中軸線 は否定される。
3:塔との距離が近く(60mほど)、この建物と塔との間に講堂があるとの松本試案も否定される。
結論
Ⅰ期の基壇建物と塔とは同じ時期に存在したものではなく、塔は後の時代にできたもの。と結論づけられる。
したがって肥後国分寺が法隆寺式の変形の塔院形式との松本試案は否定される。
Ⅰ期の伽藍配置は不明。
この双屋式の僧房の南に、講堂・金堂・塔が並んだと想定すると四天王寺式となるが、史料不足で想定の域を出ない。
Ⅲ期はこの僧房が洪水で壊れたあとに、この僧房の位置に回廊が取りついた金堂を再建し、この金堂院の南西に回廊を伴う塔院を作った可能性が高い。つまり東大寺式伽藍。8世紀台ですから、古い伽藍を解体して新しい伽藍を作ったということになります。
投稿: 川瀬健一 | 2021年3月10日 (水) 17:06
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
仮説をもとにして報告書を最大限に活用すると,
いろいろなことがわかるものですね。
投稿: 肥さん | 2021年3月10日 (水) 19:50