630~639年あたりで,「西偏」→「正方位」という人がいたが・・・
興味深い資料を見つけた。(酒井龍一「蘇我馬子の都市計画」)
方位を手掛かりに時代の変化を探ろうとしている。
それによると,630年までが「西偏」で,その後639年から「正方位」に変化していく。
これは東アジアの国際情勢と対応しているのではないかと思う。
(631年の記事「表仁綏遠の再無く,王子と礼を争い,朝命を宣べずして還る」など)
つまり,唐と倭国・日本国の関係の逆転である。
(倭国>日本国 → 倭国<日本国)
飛鳥寺(588年)が例外となるように見えるが,
これは蘇我氏を日本国のお目付け役(もともと正方位)と考えるとわかりやすいのではないか。
つまり,九州王朝の「正方位」ということだ。
もしこれが正しいと,〈方位の考古学〉の近畿天皇家の動きも,
「7世紀後半から正方位」を,「7世紀前半から正方位」に訂正しなければならないが・・・。
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肥沼さんへ
百済大寺と飛鳥板葺宮が正方位だと。
そんな根拠はないと思うよ。遺跡から見て。
ここに示された長柄豊碕宮は前期難波宮だから7世紀後半。そして確実なのは後岡本宮から初めて正方位だ。
>631年の記事「表仁綏遠の再無く,王子と礼を争い,朝命を宣べずして還る」など
この記事は九州王朝の話。
投稿: 川瀬健一 | 2021年3月21日 (日) 13:27
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
そうですか。
確かめてみたいと思います。
あと,川瀬さんに質問なのですが,
「後岡本宮から確実に正方位」ということでしたら,656年は7世紀半ばというこにはなりませんか?
あるいは,その年代比てい自体が間違っているのでしょうか?
資料によっては,「下層の板蓄宮が初めての正方位」というものもあったので・・・。
なにぶん重層遺跡なので難しいところですけど。
I期が飛鳥岡本宮(630 - 636年)
II期が飛鳥板蓋宮(643 - 645、655年)
III期が後飛鳥岡本宮(656 - 660年)、飛鳥浄御原宮(672 - 694年)
投稿: 肥さん | 2021年3月21日 (日) 19:39