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2021年3月22日 (月)

飛鳥・藤原の考古学

題名のサイトに以下のような言葉がありました。

いずれにしても、飛鳥板蓋宮はかなり大規模な王宮であり正方位に造営されていたことは想像でき

発掘調査でもこれを裏付けています。

長い文章の真ん中へんなので,通してお読みいただくのは気が引けるのですが,

飛鳥板蓄宮を正方位と考える資料が,先日の資料だけでないということはわかると思います。

【飛鳥・藤原の考古学】

http://asuka.huuryuu.com/bunko/kikou/aibou/aibou2.html

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 飛鳥板蓋宮が正方位だということは、肥沼三ご自身がこのブログに書いていましたよ。
 http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-d9b6.html
2018年9月25日 (火) 岡本宮以降の宮殿は,正方位だった!?
 武澤秀一著『建築から見た日本古代史』(ちくま新書)に基づく論考。
 その本のP291に,「正方位の王宮」という小見出しで,以下のような文章が続きます。
「最初に建てられた岡本宮(630~636年焼失)は建物の向きが西に約二〇度傾いていたと認められます。
・・・ところが,その後に造営された板ぶきの宮(643~655年冬)では
土地を平らにならしたとみられ,建物群は南北を基軸とする正方位にのっていました。
焼失した板ぶきの宮の跡地には後岡本宮(656年~)が,これも正方位で建てられました
(林部『飛鳥の宮と藤原京』)。これが,旧宮となったわけです。
また,振り返れば,“板ぶきの宮の変”をへて造営された難波宮も正方位にのっていました。(第Ⅱ部)。」

 なぜ奈良県官衙遺跡の集計の際に、7世紀中頃の板蓋宮が抜けてしまったのか。
 たぶん奈文研のデータベースの「飛鳥京」を見たときに、
 第Ⅰ期の西偏の岡本宮と第Ⅲ期の正方位の後期岡本宮は確認できたが、Ⅱ期の板蓋宮は確認できなかったのではないでしょうか。Ⅱ期とⅢ期の建物はほとんど重なっているというので。

 そして奈良県の寺院の再集計でみても、7世紀中頃に多くの正方位の寺院が出現している。
 ★ 7世紀半ば:木之本廃寺(東),紀寺南(東),片岡王寺(西),山田寺(正),横井廃寺(正),願興寺(正),木之本廃寺(正),田中廃寺(正),安倍廃寺(正),吉備池廃寺(正),

 吉備池廃寺、つまり百済大寺も正方位として認識されていた。

 こうなってくるとこの記事を書いた「あい坊」さんのように、
 舒明の「百済大宮」や推古の「小墾田宮」も正方位だったと考えれば、7世紀初頭の飛鳥寺の正方位が孤立したものではなく、近畿王朝も7世紀初頭には九州王朝と同様の正方位に転換したと言える可能性が強いです。

 そうすると異質なのが、上宮王家の西偏と蘇我氏の墓・石舞台古墳の西偏です。
 蘇我氏は九州王朝の目付ではなく、近畿王朝内で九州王朝が隋と対抗する路線に反対する勢力だったのかもね。
 上宮王家は蘇我氏とも緊密な関係ですから、推古朝の時代の独自外交路線(隋への朝貢姿勢)は蘇我氏の主導権下で行われたことだったのかも。
 だが王家主流が九州王朝に追随するようになって、王家と蘇我氏の対立が激化し、これが軽皇子を中心とした蘇我本宗家排除のクーデタである乙巳の変(645年)に繋がったのかも。
 
 奈文研データベースは再開されないかな? 
 また全国遺跡総覧で、「飛鳥京」や「吉備池廃寺」の報告書を見たいな。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 こうなってくるとこの記事を書いた「あい坊」さんのように、
 舒明の「百済大宮」や推古の「小墾田宮」も正方位だったと考えれば、7世紀初頭の飛鳥寺の正方位が孤立したものではなく、近畿王朝も7世紀初頭には九州王朝と同様の正方位に転換したと言える可能性が強いです。

なるほど,なるほど。

〉 そうすると異質なのが、上宮王家の西偏と蘇我氏の墓・石舞台古墳の西偏です。
 蘇我氏は九州王朝の目付ではなく、近畿王朝内で九州王朝が隋と対抗する路線に反対する勢力だったのかもね。
 上宮王家は蘇我氏とも緊密な関係ですから、推古朝の時代の独自外交路線(隋への朝貢姿勢)は蘇我氏の主導権下で行われたことだったのかも。
 だが王家主流が九州王朝に追随するようになって、王家と蘇我氏の対立が激化し、これが軽皇子を中心とした蘇我本宗家排除のクーデタである乙巳の変(645年)に繋がったのかも。

なるほど,そういう事情があったのかもしれませんね。

追伸

 奈文研のデータベースの中の「全国遺跡総覧」を見たら「吉備池廃寺」の報告書が見られますね。2003年刊。
 伽藍の方位は、西偏1度未満。ほぼ正方位だね。
 残念ながら「飛鳥京」はリストにはあるが公開されていない。発行元の橿原考古学研究所のサイトに行けば公開されているかもしれないですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 奈文研のデータベースの中の「全国遺跡総覧」を見たら「吉備池廃寺」の報告書が見られますね。2003年刊。
 伽藍の方位は、西偏1度未満。ほぼ正方位だね。

貴重な情報ありがとうございます。
「けっこう早い時期から,正方位だった」という証拠の一つになりますかね。

>「けっこう早い時期から,正方位だった」という証拠の一つになりますかね。

 吉備池廃寺は7世紀前半。640年ごろか。
 これと7世紀初頭に完成した飛鳥寺(法興寺)との間をつなぐ正方位の遺構がでてくれば、
 近畿王朝もまた九州王朝の正方位に7世紀初頭から従っていた。
 となります。

 そうなるとこの7世紀初頭から7世紀中頃に正方位ではない王宮や豪族館や豪族氏寺の存在をどう考えるかが問題になります。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  そうなるとこの7世紀初頭から7世紀中頃に正方位ではない王宮や豪族館や豪族氏寺の存在をどう考えるかが問題になります。

なるほど・・・。

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