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2021年2月16日 (火)

〈方位の考古学〉の年表に位置付けてみる(2/15改訂)

告貴元年(594年)の「聖徳太子の66の国府寺建立」記事と

九州王朝の正方位政策(6世紀末)が合うとすると,

それ以前に東偏時代があるので,史料はないが命令も出ていたのだろう。

〈方位の考古学〉の年表に今回得た情報を位置づけてみよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★5世紀中頃まで:西偏(これは方位磁石に従ったもの)

 → この時代のものは不明?あったとしたら,西偏

★5世紀中頃以後:東偏(これは中国南朝の設計思想に倣ったもの)

 → この150年間のどこかで九州王朝による東偏の命令?

   東偏の僧寺・尼寺(今の東偏の国分寺)

   泉官衙遺跡Ⅰ期

★6世紀末から7世紀初頭:正方位(これは中国隋王朝の設計思想に倣ったもの)

 → 告貴元年(594年)の「聖徳太子(多利思北孤)の66の国府寺建立」か?

   今の正方位の国分寺(ただし,九州王朝のものと大和王朝のものがあることに注意)

   泉官衙遺跡Ⅱ期(定式化も)

   ※ 主権王朝の交代 泉官衙遺跡Ⅲ期(8世紀・大和王朝のもの)

★741年,聖武天皇による「国分寺建立の詔」(「金光明四天王護国寺に七重塔を作れ」命令)

 → 東大寺⇔国分寺(新造の国分寺)西偏の国分寺

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 思い込みが強く決めつけすぎです。
>→ 450年頃,東偏の命令か?
   東偏の僧寺・尼寺(今の東偏の国分寺)

 諸国の国府に国立寺院建立の命令は、仏教がいつ日本に伝わり倭国がこれを採用したのはいつかという問題とリンクします。
 450年ごろというのは単に、倭国が官衙や宮に東偏を採用した可能性のある時期にすぎない
 東偏時代は
 5世紀中頃~6世紀末の間
 だから、国府に国立寺院を東偏でつくる命令があったとしたら、この100年ほどの間のどこかだ。

>→ 告貴元年(594年)の「聖徳太子(多利思北孤)の66の国府寺建立」か?
   今の正方位の国分寺

 これだと「今の正方位の国分寺」はすべて九州王朝時代の国府寺ということになる。
 実際は8世紀初頭の近畿王朝時代に備前から分国された美作国の国分寺も正方位だ。
 正方位の国分寺には、九州王朝時代の国府寺と近畿王朝時代のものと二種類ある。

 少ない資料で決めつけていないでやるべきことをまずやりましょう。
 それは
1:国分寺すべての、方位・古式伽藍か新式伽藍か・新式なら古式の改造か純粋の新式か の検討。
 この資料検討をやってみないと
 九州王朝時代のいつの時期に、それぞれの国府に国立寺院が作られたかを推定できない。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 思い込みが強く決めつけすぎです。

私もそう思いますが,仮にそうしてみたのです。
・この150年間のどこかに表現を変えてみました。
・正方位には,九州王朝と大和王朝があることを付け加えました。 

〉 少ない資料で決めつけていないでやるべきことをまずやりましょう。
 それは
1:国分寺すべての、方位・古式伽藍か新式伽藍か・新式なら古式の改造か純粋の新式か の検討。
 この資料検討をやってみないと
 九州王朝時代のいつの時期に、それぞれの国府に国立寺院が作られたかを推定できない。

それについては,私が得意としないことは,川瀬さんもよくご存じだと思いますが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 思い込みが強く決めつけすぎです。

私もそう思いますが,仮にそうしてみたのです。
・150年間のどこかに表現を変えてみました。
・正方位には,九州王朝と大和王朝があることを付け加えました。 

〉 少ない資料で決めつけていないでやるべきことをまずやりましょう。
 それは
1:国分寺すべての、方位・古式伽藍か新式伽藍か・新式なら古式の改造か純粋の新式か の検討。
 この資料検討をやってみないと
 九州王朝時代のいつの時期に、それぞれの国府に国立寺院が作られたかを推定できない。

それについては,私が得意としないことは,川瀬さんもよくご存じだと思います。

>それについては,私が得意としないことは,川瀬さんもよくご存じだと思いますが。

 得意ではないと言って、自分のたてた「仮説」を論証する努力から逃げる。
 これでは歴史研究ではなくて、ただの妄想になりますね。
 多くの歴史ファンにありがちな傾向。

 これで良いのだろうか。
 歴史研究の大部分は、とても地味な、ぱっとしない資料の検証作業で占められています。この地道な検証作業を経ると、とても楽しい発見があるのですが、これをすっ飛ばして思い付きだけであれこれ歴史を論じたふりをする歴史愛好家で終わるのかな?

 方位の考古学は、肥沼さんが九州王朝がその官衙や宮や寺院を、西偏→東偏→正方位へ変えたのではないかとの思い付きから始まり、中国王朝の都城設計思想や都城の実態の探求と、奈文研のデータベースを使った古代遺跡悉皆調査という1年以上もかかった地味な資料検証作業によって、思いもしない発見に至ったわけだ。
 それは九州王朝における官衙・宮・寺院の方位変遷の時期の確定。
  ~5世紀中頃:西偏
  5世紀中頃~:東偏
  6世紀末・7世紀初頭~:正方位。

 そして考古学における土器編年による年代判定の地域による偏差の発見。
 近畿を基準(0年)とすると
 中部地方・中国四国地方:50年年代が後ろに設定されている。
 九州地方・関東地方・東北地方南部:100年年代が後ろに設定されている。
 東北北部:150年年代が後ろに設定されている。

 この二つはこれまで誰も気が付かなかった大発見だ。

 国分寺の歴史を明らかにするにはその資料精査が必要。告貴元年(594年)の「聖徳太子(多利思北孤)の66の国府寺建立」という話は後代資料の記述であり、これを証明する確実な史料が必要。
 その史料はどこにあるか?
1:日本書紀にと続日本紀における仏教関係記事。
2:国分寺遺跡の実態。

 1はすでに私がかなりやった。あとは仏教伝来に関する部分だけ。
 ここで問題にしているのは2。
 全国の国分寺の方位・伽藍配置の新旧の別・塔基壇の規模・伽藍の改造の痕跡。
 これを奈文研データベースを使って明らかにすることができれば、1の文献資料を補完する有力な証拠となるでしょう。
 ここまでわかっていて手を出さないとは。
 
 厳密な資料批判・点検をしない妄想話に付き合っているのは時間の無駄。

 今後肥沼さんのブログへの訪問・コメントは辞めて、自分の研究に専念しようと思っています。
 では。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

肥沼さんへ

 提案です。
 多元的「国分寺」研究サークルを再開しましょう。
 検討する内容は、66か国のすべて国分寺・国分尼寺の遺構の再検討を行って、それぞれの創建年代と聖武詔で改造されたのかあらたに新造されたのかです。
 すでにこれらを明らかにするポイントはわかっています。
 1:伽藍の中軸線の方位
    東偏:九州王朝時代で6世紀末以前 
    正方位:九州王朝時代で6世紀末以後
         近畿王朝時代で中央権力が関与したもの
    西偏:九州王朝時代だが地方権力が作ったもの
        近畿王朝時代の新造だが地方権力が作ったもの
 2:伽藍の構造
   古式伽藍(塔が回廊の内):九州王朝時代の国府寺の塔を七重に改造した。
   新式伽藍(塔が回廊の外):
         九州王朝時代の古式伽藍の塔を回廊の外に移し七重にしたもの。
         近畿王朝時代の新造のもの。
  ※古式伽藍の特徴は、塔が回廊の内 以外に
          中門と南門の距離が狭い(古式だとこの間に塔がないため) もある。

 3:出土瓦 服部さんの研究に依拠する
    素弁蓮華文軒丸瓦が出土:6世紀末から7世紀初頭以前。
    単弁蓮華文軒丸瓦が出土:7世紀中頃
    複弁蓮華文軒丸瓦が出土:7世紀末から8世紀。

 4:国府からの距離
    国府近傍にあるもの:国府寺:国府近傍で国庁のすぐ近く。両者は一体。
    国府から遠いもの:
         もともと国府の近くの国分寺であったが国府が後に移動した。
         国府寺とは別に近畿王朝下で国府から離れた「清浄の地」に新造した。

 依拠する資料は
 肥沼さん所蔵の「国分寺の研究」「新編国分寺の研究」+この続編
 奈良文化財研究所のデータベース

 これらの資料を基に徹底検証する作業を肥沼さんが中心となって進めるということならお手伝いします。
 一年かければおわるでしょう。

 最近国分寺研究を復習しているのは、これが途中で終わっていることが気にかかかっているからでしょ。
 私も同様です。
 かなり詰めているのにここで終わるのはもったいない。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 最近国分寺研究を復習しているのは、これが途中で終わっていることが気にかかかっているからでしょ。
 私も同様です。
 かなり詰めているのにここで終わるのはもったいない。

私としても,多元的「国分寺」研究がスタートして5年。
目に見える成果を出したいとは思っています。
が,私が何かを調べて,川瀬さんに見ていただくという形だと,
なかなか前に進まないのではないかと思います。
ここのところの「夢ブログ」のやりとりを見ても。
「やりたい気持ち」と「躊躇する気持ち」とが半分ずつというのが現状です。

肥沼さんへ

>私としても,多元的「国分寺」研究がスタートして5年。目に見える成果を出したいとは思っています。

 今がその目に見える成果を出せるときです。
 すでに武器はそろっています。
 方位の考古学からは
  1:九州王朝の方位変遷とその時期
  2:土器編年の間違いの修正方法
 軒丸瓦からは服部さんの研究に依拠すれば
  1:素弁蓮華文軒丸瓦→6世紀末以前
 そして伽藍の新旧の特徴(塔と回廊の関係・中門と南門の距離)

 これだけ武器がそろっていれば、5年前にとん挫した66か国国分寺遺跡の精査も簡単だ。
 そして肥沼さんも5年前にくらべて
  報告書の図面を読み解く力
  報告書の文面を読み解く力
 双方ともに格段の進歩を見せている。

>が,私が何かを調べて,川瀬さんに見ていただくという形だと,
なかなか前に進まないのではないかと思います。
 この形以外に何があるのでしょうか。それは私か山田さんに検証作業をやってもらう形しかない。
 でもこれでは肥沼さんの研究ではない。人に検証作業をしてもらうのは研究ではない。
 
 国分寺には異なる王朝の異なる時期の寺院が混在している
 という当初の肥沼仮説を実証・論証するのは肥沼さんの仕事。やるしかないです。
 時間はそんなにかからない。
 66か国の二倍だ。132の寺院。
 方位の考古学で検証した遺跡数からみれば大したことはない。1年内外でできます。

>ここのところの「夢ブログ」のやりとりを見ても。
「やりたい気持ち」と「躊躇する気持ち」とが半分ずつというのが現状です。

 「ここがロドスだ、跳ぶのは今だ!!!!!!」ですよ。

 やり方は簡単。
1:図面を見つけて、伽藍中軸線の方位と伽藍形式を確認。
  ※本でも良いし奈文研のデータでもよい。
2:伽藍形式の中での塔の規模などを確認(五重か七重か?)
3:出土瓦の確認。
4:国府との距離の確認。
 検証するのはこの4点だけ。これを明らかにすればその寺の建立年代と改造年代が推定できる。

 肥沼が立ち上がれば、私や山田さんという強力な助っ人も動く。
 あなたが動かなければ研究はとん挫したままだ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 「ここがロドスだ、跳ぶのは今だ!!!!!!」ですよ。

母の死のショックもようやく癒えてきて,
だいぶ「跳ぶ」気になっては来ています。

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