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2021年2月23日 (火)

筑後国分寺は,条里線は東偏・現方位は西偏

ほぼ同じ規模の塔基壇(薩摩は8.6m,築後は9m)ということで,

筑後国分寺を考えてみよう。薩摩と同じように飛鳥寺式の創建だろうか。

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1:伽藍の中軸線の方位・・・現在は西偏:近畿王朝時代の新造だが地方権力が作ったもの

   条里線は東偏なので,創建時は東偏だったのではないか。

2:伽藍の構造・・・古式伽藍(塔が回廊の内):九州王朝時代の国府寺の塔を七重に改造した

3:出土瓦 服部さんの研究に依拠する・・・単弁と考えると、7世紀中頃

4:国府からの距離・・・近い(5キロ以内)

総合判断・・・創建時には条里線に沿った東偏の国府寺が,

  後世民衆の力によって九州王朝時代の国府寺の塔を七重塔に改造された

  (何回も立て直されたのか,礎石も抜き取られ,金堂の位置もはっきりしないようだ)

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【歴史散歩№3・筑後国分寺】

https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/historywalk03.pdf

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 現在確認できるのは
1:伽藍中軸線 西偏
2:伽藍配置 大官大寺式伽藍配置
3:塔の規模 9メートル四方
4:出土瓦 単弁と複弁→1と5は素弁と考えられる。
5:周辺条理は東偏
6:国府からの距離:5キロ(これは近いではなく遠いです。古式の国府寺はすぐそば。数百メートルから1キロ以内です)
7:筑後国分寺は聖武の死までに七重塔を完成した寺院と見られる。

 ここから考えられることは
素弁との判断が正しければ
1:ここには九州王朝時代の東偏の寺院があった可能性あり。伽藍配置や規模不明。
 ただし国府から遠いので国府寺ではない。
2:現在の遺構は聖武詔に沿った改造の国分寺。

 国府からの距離の判断以外は、肥沼判断で良いと思う。

※こういう作業が国分寺遺跡の再精査です。もっと詳しい報告書とデータを見たいね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ※こういう作業が国分寺遺跡の再精査です。もっと詳しい報告書とデータを見たいね。

5年前にスタートした時とは,かなり条件が変わりましたね。
大阪城の外堀が埋まって,内堀だけになった気がします。

追伸

 だいたい良いとしましたが、よく読むと間違いが多い。

 条理遺構が東偏なので、ここには元東偏の寺院があったとの推定は良い。
 だが東偏なら
 方位の考古学のテーゼで 5世紀中頃から6世紀末だ。
 瓦でいえばこれは、6世紀末の素弁蓮華文軒丸瓦か、それ以前の草堂時代(瓦葺きではなく萱葺き)。

 そうすると先の論文で「単弁・複弁」と瓦を判断していることがおかしい。

 瓦の図を見ると、1と5は素弁と見ることが可能。
 素弁と単弁の違いを(複弁も含めて)肥沼さんは言葉で説明できますか?

>後世民衆の力によって九州王朝時代の国府寺の塔を七重塔に改造された
 なぜここで「民衆の力で」としたのでしょうか。その根拠は?

 聖武が七重塔を作るに際しては、地方の有力者の財力を頼み、塔を寄進した有力者には高い位や官職を与えたことは続日本紀にあります。
 塔を改造したのは地方の有力者じゃないのですか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 だいたい良いとしましたが、よく読むと間違いが多い。

 条理遺構が東偏なので、ここには元東偏の寺院があったとの推定は良い。
 だが東偏なら今の
 方位の考古学のテーゼで 5世紀中頃から6世紀末だ。
 瓦でいえばこれは、6世紀末の素弁蓮華文軒丸瓦か、それ以前の草堂時代(瓦葺きではなく萱葺き)。

 そうすると先の論文で「単弁・複弁」と瓦を判断していることがおかしい。

 瓦の図を見ると、1と5は素弁と見ることが可能。
 素弁と単弁の違いを(複弁も含めて)肥沼さんは言葉で説明できますか?

→  素弁と単弁の違いは,専門家でも解釈が揺れているように思います。
そういう高度なレベルで精査する段階に今の私はいないということなのでしょうけれど。

〉 >後世民衆の力によって九州王朝時代の国府寺の塔を七重塔に改造された
 なぜここで「民衆の力で」としたのでしょうか。その根拠は?

 聖武が七重塔を作るに際しては、地方の有力者の財力を頼み、塔を寄進した有力者には高い位や官職を与えたことは続日本紀にあります。
 塔を改造したのは地方の有力者じゃないのですか?

→  そう次々噛みつかれてしまうと,怖くて次の「国分寺」の精査に取り掛かれなくなってしまいますよ。
「民衆の力で」というのは「国家権力によるものではない」という意味で,当然「地方の有力者」ということになりますね。

> 素弁と単弁の違いは,専門家でも解釈が揺れているように思います。
そういう高度なレベルで精査する段階に今の私はいないということなのでしょうけれど。

 そこまで認識していないというなら勉強すれば済むこと。
 ここまで勉強しないと精査できないですよ。

 揺れているわけではないですよ。認識が統一されていないだけ。
 素弁蓮華文軒丸瓦の今日での正式の呼び名は。 単弁無子葉蓮華文軒丸瓦。
  つまりハスの花弁だけが彫られ、子葉(雄蕊)がないものです。
 単弁蓮華文軒丸瓦の正式の呼び名は、単弁有子葉蓮華文軒丸瓦。
  つまりハスの花弁の中に、子葉(雄蕊)が彫られたもの。
 複弁蓮華文軒丸瓦の正式な呼び名は、複弁有子葉蓮華文軒丸瓦。
  つまりハスの花弁が二枚で一組になっており、その中に子葉(雄蕊)が彫られたもの。

 服部さんがこの瓦を精査した論文を検討したときに、何も学ばなかったのかな?
 ついでに言っておくと、九州の瓦は他の地域とは別の名称がつけられていて、九州の瓦、例えば「老司式」とか「鴻臚館式」とかいうのが、どの種類の瓦なのかをしらないと精査できません。
 まあそういうのに出会ったらすぐに調べれば済むことですが。

 ちなみに資料にあった「井上廃寺」というのは九州でも最も古い時期の古代寺院。

>「民衆の力で」というのは「国家権力によるものではない」という意味で,当然「地方の有力者」ということになりますね。

 詭弁を弄してはいけないです。
 民衆と地方の有力者ではまったく性格が異なります。
 自分の間違いは間違いとして認める勇気が必要です。
 知らないことは知らない。ならば調べて新たに勉強すればよい。
 また間違いは間違いで認めて、ここもまた新たに勉強すればよい。

> そう次々噛みつかれてしまうと,怖くて次の「国分寺」の精査に取り掛かれなくなってしまいますよ。
 なら辞めればよい。
 自分一人のお力で国分寺遺跡を精査できるとお思いでしょうか。
 残念ながら肥沼さんにはまだその力が不足している。だから助けると言っている。
 助けるということはほめそやすということではない。
 間違いは間違いとして厳しく正す。正されたら素直に受け入れ再度勉強する。
 この心がけのない人は、成長することはないです。

 褒められなければやる気を起こさないというのは、幼子の所業です。
 いい加減に卒業しましょう。

 厳しく言っているのは、一人で精査できるようになってほしいから。
 そうじゃなければ、こんな面倒なことはしない。
 私一人で充分精査はできるが、これは私がやるべきことじゃない。
 やるべきなのは、国分寺遺跡には異なる王朝の存在が示されているのでは、と気が付いた肥沼さんなのです。
 厳しく間違いを指摘されて、嫌気がさすというのなら、「古代史を研究している」などと大見えを切らないで、撤退すればよいのです。

 そうすればさっさと私も古代史から撤退して、近代史の研究に専念できます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

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