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2021年2月27日 (土)

筑後国分寺について(工事中)

川瀬さんのコメントに従って,調べてみたい。

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★筑後国分寺の総合判定
  九州王朝の東偏時代(6世紀末以前)の古式の寺院の塔を七重に改造した。


1:伽藍は西偏。周囲の条理は東偏。では周囲の条理は古代のものか?

→ 条里というのは,古代でないものもあるのでしょうか?

最初は,周囲の条里と同じ東偏の方位で建てられたと考えました。

【「歴史地理学と考古学の学際の溝に挑む」P39】

http://hist-geo.jp/img/archive/143_036.pdf


2:西偏の遺構の下に、東偏または正方位の遺構があるか?これが全くなければ近畿王朝時代の古式の寺院を改造の可能性も出てくる

→ 西偏の遺構の下ではないが,「東面築地跡は,二箇所で検出しほぼ真北に近い」とのこと。(どちらの王朝かは不明) 


3:出土瓦の精査。前に見た資料では素弁と見られるものがあったか、本当にそれでよいか。素弁であれば確実に東偏時代の寺院があった可能性が高い。素弁ではなく単弁もしくは複弁だけなら、7世紀中頃から末に地方権力が西偏で作った古式の寺院を改造した可能性も出てくる。

→ 『新修 国分寺の研究』でも『歴史散歩№3』でも花弁は単弁と複弁されていますが,1の軒丸瓦は井上廃寺式のようで,であると

素弁と考えられる?

 

4:筑後国府はかなり離れている。筑後国府のそばに国府寺と見られる古代寺院がないか。

→ 

「筑後国府跡の概要」(前身・Ⅰ期・Ⅱ期・Ⅲ期・Ⅳ期)という資料がありました。

http://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3010bunkazai/files/conservation_utilization_plan_chapter3.pdf


 以上四点をあきらかにすれば、伽藍変遷を推定できる。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 興味深い資料を見つけましたね。

 国分寺跡も含む国府南方地域の条理は東偏6度ほどで、これは例えば国司館に存在する多くの東偏のたてものとも方位が同じなので、古代のもっとも古い時期の筑後国府の方位は東偏6度なのかもしれませんね。。
 ですが前身官衙以後の国府は正方位です。

 そしてこの国司館の東1キロほどの所にあるヘボノキ遺跡。
 ここも東偏6度ほどの向きで、どうやら回廊を伴う7世紀後半から8世紀中頃の寺院または郡衙。
 この年代が土器編年なら、6世紀後半から7世紀中頃。
 ここが国府寺である可能性は大です。

 この報告書の年代は全部100年動かして考える必要があると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ヘボノキ遺跡

〉 ここが国府寺である可能性は大です。

懐かしい遺跡ですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

もしかしたら,これが改造の後かもしれません。

塔にはまったく礎石がないのですが,その下の礎石抜き取り跡があった。
その礎石抜き取り跡を基準に復元すると,東西21m×南北18mの
掘り込み地業があるようだ。
つまり,薩摩国分寺と同じように,塔の下にはかつて建物(東金堂か)があったということを
表しているのではないでしょうか。(『新修 国分寺の研究』のP33とP36の図参照)

肥沼様

 コピー届きました。
 よんでみたのですが、伽藍は西偏とされていますが、北面・南面・東面の築地のあとが出ているのですが、これらはほぼ正方位です。
 そして国分寺の推定中軸線は「やや西より」とありました。

 この筑後国分寺の伽藍はほぼ正方位で良いのではないでしょうか。

 なお塔跡ですが、礎石抜き取り跡の規模が東西21m南北18mではなく、掘り込み地業ですね。心礎石抜き取り跡を中心として図った規模がこれです。
 これはご推定のように、確実にここには塔の前に東西に長い建物があったことは確実です。
 ただし東金堂ではなく、これは東に金堂・西に塔の法起寺式伽藍の金堂ではないでしょうか。
 つまり法起寺式の伽藍を大官大寺式に改造した。

 そして講堂の北西に周辺条理と同じ東偏の築地跡(SA200)ということは、ここにはかつて東偏の寺院だが官衙だかがあった痕跡でもあると思います。

 つまり筑後国府の最も古い遺構(正方位の前身官衙よりもさらに古い、国司館となっている東偏の官衙群)と同じく東偏6~7度と同じ方位の周辺条理の中にぴったりはまった東偏の寺院か官衙があった。
 ただしこの国府からの距離は2キロなので、一キロ弱東にあるヘボノ木遺跡が国府寺として、筑後国分寺の所にあった寺は国府寺とは別のものと思われます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  これはご推定のように、確実にここには塔の前に東西に長い建物があったことは確実です。
 ただし東金堂ではなく、これは東に金堂・西に塔の法起寺式伽藍の金堂ではないでしょうか。
 つまり法起寺式の伽藍を大官大寺式に改造した。

 そして講堂の北西に周辺条理と同じ東偏の築地跡(SA200)ということは、ここにはかつて東偏の寺院だが官衙だかがあった痕跡でもあると思います。

 つまり筑後国府の最も古い遺構(正方位の前身官衙よりもさらに古い、国司館となっている東偏の官衙群)と同じく東偏6~7度と同じ方位の周辺条理の中にぴったりはまった東偏の寺院か官衙があった。
 ただしこの国府からの距離は2キロなので、一キロ弱東にあるヘボノ木遺跡が国府寺として、筑後国分寺の所にあった寺は国府寺とは別のものと思われます。

→ 地上の建物はなくなっても,地下の柱跡は残る。そして,その下の掘り込み地業も残る。
「遺跡は,嘘をつかない」という格言は,ここでも有効なようです。

川瀬さんへ

〉 ただし東金堂ではなく、これは東に金堂・西に塔の法起寺式伽藍の金堂ではないでしょうか。

これは「法起寺式」ではなく「法隆寺式」では?

肥沼さんへ

>これは「法起寺式」ではなく「法隆寺式」では?

 ご指摘の通りです。間違えました。

 瓦の件。
 1の単弁で弁の中央が盛り上がった形の井上廃寺と同じ瓦。子葉がありませんので素弁です。
 さらに4も明らかに素弁。それも弁が真っ平ですので、これが一番古い。
  この二つが6世紀末から7世紀初頭のものでしょう。
 3の単弁有子葉は、典型的な7世紀中頃のもの。一番出土例が多い物。
 2は複弁ですから7世紀末から8世紀初頭。

 素弁と考えられる瓦があって、しかも東偏の築地塀跡がありますので、ここにも東偏6~7度の古い寺院があったと考えて間違いないと思います。この時の創建瓦が1と4。
 この時の伽藍配置は不明。何しろ遺構がない。
 次がほぼ正方位だが東に金堂で西に塔の法隆寺式。これが7世紀中頃ではないか。この時の瓦が3.。
 最後に伽藍を大官大寺式に改造した時代。7世紀末から8世紀初め。この時の瓦が2。

※追伸
 やはり論文をしっかり読むといろいろわかりますね。この意味でコピーを送ってもらって良かった。
 だが時間がかかってお金もかかる。
 デジカメで各ページを写真をとって、メールの添付ファイルで送れないか。
 本を写真化すれば、パソコンが画像を取り込めるように直れば、直接ブログに載せることもできるね。

▼質問
 なぜこれらの詳しい国分寺の検討を「多元的国分寺研究サークル」のブログに掲載しないのでしょうか。夢ブログだと他の記事に紛れて通覧できなくなります。
 できたら筑前国分寺・筑後国分寺、そして薩摩国分寺の記事を全部移しませんか?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ▼質問
 なぜこれらの詳しい国分寺の検討を「多元的国分寺研究サークル」のブログに掲載しないのでしょうか。夢ブログだと他の記事に紛れて通覧できなくなります。
 できたら筑前国分寺・筑後国分寺、そして薩摩国分寺の記事を全部移しませんか?

はい,わかりました。

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