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2021年1月 7日 (木)

泉官衙遺跡の現地説明会資料を送っていただく

本日教育委員会に再度電話をして,

泉官衙遺跡の現地説明会資料を再度送っていただくようお願いしました。

すると,以下のようなカラー図を送っていただきました。

泉官衙遺跡の場合,ほぼ同じ場所に何回も建設工事がされているので,

カラー図はとても助かります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【説明会のカラー図】

Img_8863

これが1ページ目。

Img_8858

これが2~3ページ目。拡大すると・・・

Img_8866

Img_8867

少しは拡大できたかな?

Img_8864

4ページ目。これでおしまいです。

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

今回発掘された木柱はどの建物の柱なのか?

 Ⅲ-2期の建物のSB1702で良いのかな?
 正方位の郡庁で、正殿の東の脇殿。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

よくわかりませんね。

〉 Ⅲ-2期

これは? SB1702だと「Ⅱーa期」のことですか?

再度図面を精査して見ました。
木柱がみつかったのは
 Ⅱ期ーaのSB1702ですね。定型化が始まるⅡ期ーbの一つ前の時期。
だと書いてありました。
 
 年輪年代法で年代が確定すると良いですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 年輪年代法で年代が確定すると良いですね。

私もそう思います。
ところで,良好な状態で木柱が見つかったということは,
洪水や津波の土砂に埋もれていたということなのでしょうかね?
新聞記事の写真を見てそう思ったのですが…。

肥沼さんへ
>ところで,良好な状態で木柱が見つかったということは,
洪水や津波の土砂に埋もれていたということなのでしょうかね?
新聞記事の写真を見てそう思ったのですが…。

 この柱はⅡ期ーaの建物の柱ですから、貞観津波で被災した建物の柱ではないです。
 貞観津波で被災した建物は最後のⅢ期ですから。
 だが写真によると柱が曲がっている。西に曲がっているから東から強い力を受けた証拠。
 津波でないとしたら、洪水でしょうね。
 それとも貞観津波以前にも大きな津波があったという証拠なのでしょうか。

今回の見学会の資料にはそこはなんと書いてあるのでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 今回の見学会の資料にはそこはなんと書いてあるのでしょうか。

曲がった木柱のことは出ていなかったと思いますが,
これだけの木柱を傾ける力は物凄かったでしょうね。
今日資料が届いたのでコピーして送ります。

肥沼さんへ
 昨日説明会資料が届きました。ありがとうございました。
 画面ではよくわかりませんでしたが、印刷物で見ると、今回確認したⅡ期ーaの建物の柱穴は濃い青色で表示され、そこに残っていた柱根は木の色で塗られており、しかも残った柱の向きまで示されていました(p2-3)。
 これを見るとまっすぐ立ったまま発見されたものが多数あり、傾いている柱も、東に傾いたものが3本、南に傾いたものが2本、北に傾いたものが2本ありました(建物SB1408/SB1705)。
 ということはこれらの建物が洪水や津波で倒されたわけではなく、廃棄し建て直すときに、柱を抜き取ろうとして途中で辞めたもの(東や南や北に傾いたもの)が多くて、結局柱を地面の高さで切り取って埋めたということだと考えられます。
 なお新聞の写真で発掘者が指で指している柱は、SB1705の一番東側北の端の南に傾いた柱だと思います。写真に写っている発掘現場の形から判断しました。

 今回の発掘はⅡ期ーaの建物群を遺跡の上に復元して展示するために行われたものなので、Ⅱ期ーaの建物群の未発掘のものの確認をするためになされたようです。
 そしてそこから柱根が出てきたので年代確定ができることになった。
 そして副産物として、2-B区からSB1702の脇から、それを少し西に移動して塀から切り離した小ぶりの建物の柱穴が出たことで、これはⅡ期ーbのこれは東脇殿と推定できるので、Ⅱ期ーbの時期もまた主殿の南側に東西の脇殿があることが確認されたわけです。
 また報告書にはありませんが、この脇殿が塀から切り離した独立した形式の建物であり、さらにⅡ期ーaでは南側には塀と一体となったSB1705(南殿)が設けられていたが、Ⅱ期ーbではこれはなく、塀(SA1712)に一か所切れ目があることから、ここに入り口が設けられていたことがわかった。
 つまり従来の官衙形式でいえば、「定型化」されたのがⅢ期からではなくて、Ⅱ期ーbからであることが確定したわけです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

図面の精査,ありがとうございます。
やはり送らせていただいてよかったです。

Ⅱ-a期の遺跡の建物群の確定しただけでなく,
Ⅱーb期の脇殿の位置が分かったことで,
「定式化」の時期も確定できたということですね。

>Ⅱ-a期の遺跡の建物群の確定しただけでなく,
Ⅱーb期の脇殿の位置が分かったことで,
「定式化」の時期も確定できたということですね。

 これに加えて、Ⅱ期ーaの建物の多くの柱根がそのまま出土したので、年輪年代法とc14炭素年代法という二つの科学的年代判定が可能になったので、その結果で、現在の土器編年による遺跡の年代判定が、約100年ずれていることが明らかになる可能性が見えたということです。
 つまり「方位の考古学」の定式の正しさが証明される可能性が。

 肥沼さんがこの遺跡にずっと関心を寄せていたことがすごい結果になったのです。
 今後も泉官衙遺跡の情報はウオッチし続けてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  これに加えて、Ⅱ期ーaの建物の多くの柱根がそのまま出土したので、年輪年代法とc14炭素年代法という二つの科学的年代判定が可能になったので、その結果で、現在の土器編年による遺跡の年代判定が、約100年ずれていることが明らかになる可能性が見えたということです。
 つまり「方位の考古学」の定式の正しさが証明される可能性が。

そうそう。一番大事なことは〈方位の考古学〉の証明でした。

〉 肥沼さんがこの遺跡にずっと関心を寄せていたことがすごい結果になったのです。
 今後も泉官衙遺跡の情報はウオッチし続けてください。

はい,もちろんです。
時々検索して,新情報を受け止められるようにしています。

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