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2021年1月16日 (土)

もう1例の「玉石敷」・・・新田郡家とは?

泉官衙遺跡の新聞記事では,まず「柱根」が目に入った。

年輪年代法が使用出来たら,〈方位の考古学〉が証明できるかもと思ったからである。

少し落ち着いてきて,「全国2例の玉石敷」の方に目を移してみた。

これだってすごいことだ。

そこで,検索してそれを探してみた。

すぐわかった。

それは,東山道の上野国新田郡家だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【古代の役所 「 上野国新田郡家跡 」】

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/topics/2015-1202-1507-131.html

そして,遺跡の様子をみてみたら,福島県・泉官衙遺跡と大変似ていることを見出した。

こうずけのくに+にったぐんちょうあと+くうさつ

(1)1・2段階が,Ⅱーa期のように塀と一体の長屋建物(東西南北の長舎)である。

(2)3・4段階が,Ⅱーb期のように塀から離れた「定型化」された建物のようである。

(3)正殿の南に玉石敷がある。

ただ,この官衙は泉官衙遺跡と違い,東偏ではなく,西偏だったようだ。

(幅12mの東山道が南を走り,それと平行にしようとしたのか)

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コメント

肥沼さんへ

 新田郡家遺跡の石敷き遺構と、泉官衙遺跡の石敷き遺構とでは、性格が違うと思う。
 泉官衙遺跡:郡庁院の内部全体に石敷きがあった可能性が高い。
 新田郡家遺跡:正殿に至る通路だけが石敷き。

 全国で2例というのは、郡家遺構ではという話で、国府遺構ではかなり普通に、国庁内部の広範囲に石敷きがある例があるのではないでしょうか。
 例えば宮城県の初期陸奥国府である郡山官衙遺構のⅡ期では正殿の後ろ側全体が石敷きになっており、その北側には石組みの配水遺構さえあった。

 泉官衙遺跡の郡庁内部に石敷きが全体的にあったのは、もしかしてここが、最初期の陸奥国府だったからではないでしょうか。
 陸奥国は蝦夷を侵略してその領域を取り上げて作った国。
 最初は今の福島県域。
 そのご宮城県南部も合併。
 そして一時期東西二つの国に分割。東の海岸通りが「岩城国」。山側の中通りが「岩代国」。
 泉官衙遺跡があるのはこの「岩城国」がわ。その国府だったのでは。
 だがこの二つの国はすぐに合併して元の陸奥国に変わり、その国府は宮城県南部の郡山官衙遺跡に。そしてその後さらに内陸に入り込み、多賀城が国府に代わった。

 こうした陸奥国の拡大過程の一時期の国府だったのではないでしょうか。
 と考えると、郡庁院内部全体が聖なる空間を意味する石敷きだったことの意味が理解できると思う。

 なおこれは私の仮説です。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 泉官衙遺跡:郡庁院の内部全体に石敷きがあった可能性が高い。
 新田郡家遺跡:正殿に至る通路だけが石敷き。

新田郡家遺跡では,北方の長屋建物(後殿)を正方位に作り替える際,
もともとあった石敷きの上に建てています。(つまり,そこにも石敷きがあった)
なので,「正殿に至る通路だけが石敷き」ということではないようです。
次の,新田郡家に礎石建物の「第5段階」あり!の最後に出てきますので,お読みください。
また,サイトのリンクをしてありますので,その後殿前の石敷きの写真もご覧いただけます。

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