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2021年1月 8日 (金)

「Ⅱーb期」に「定式化」スタートの証拠が

今回送っていただいた図と藤木さんの著書に載っていた図を比べてみた。

すると,「定式化」が,川瀬さんのおっしゃっていたⅡーb期の段階ですでに起きていることが分かった。

Img_8868

               ↓

Img_8869

Ⅱーb期を比較してみていただきたい。

(1)今回の発掘で,塀とは分離した東脇殿の一部が出てきた。

(2)のちの南門につながる入口(門?)が出てきた。

つまり,「定式化」はすでにⅡーb期から始まっていたことになり,

大和王朝の作ったⅢ期から始まるのではないということだ。

前に川瀬さんは「見えるものだけから判断してはいけない」と言っていたが,

その通りの結果となった。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

なぜ私が、以前は発掘されていなかったⅡ期―bにはすでに柵から分離した脇殿が存在するのではないかと推定できたのか。
 理由は簡単だ。
 以前の図面で未発掘地を示す白い部分の上の発掘した部分には、Ⅱ-aの東西脇殿に相当する場所に柱穴が存在しないので、あるとすればそれは未発掘の白い部分だと推定したから。
 そしてここに塀から分離した脇殿があると考えたのは、北側と南側の柵と一体となった北殿と南殿がⅡ-bの時期には存在せず、北殿の位置に入り口が設けられていたからだ。
 つまり柵の北と南に柵と一体となった殿舎があったのを撤去したのだから、同様に東西の柵と一体となった脇殿も撤去され、柵から分離したところに新たに脇殿が建てられたと考えるしかない。
 しかし発掘部分に柵から分離した脇殿が見当たらないのだから、これは未発掘地域にあったに違いない。
 このように推定したわけだ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 このように推定したわけだ。

なるほど,ということは「Ⅱーa期の脇殿より南北の長さが短い脇殿が東西にあった」と推定した訳ですね。
私はⅡーa期の長さの脇殿はとてもⅡーb期の残されたスペース(未発掘部分)にはとても入らないと思ったので,イメージできませんでした。

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