国防の最前線!対馬が生んだ国宝級の城・金田城
NHKテレビのお正月番組で,対馬の金田(かねだ)城のことをやるらしい。
ここの年代も1350年前(たぶん土器編年)というから,
670年頃(東山道武蔵路と同じ7世紀第3四半世紀),
つまり〈方位の考古学〉を利用すれば100年遡って570年なので同じ頃だ。
北魏の襲来を恐れて築かれた防衛施設だったのだ。(通説だと,唐・新羅の襲来)
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【国防の最前線!対馬が生んだ国宝級の城・金田城】
https://shirobito.jp/article/765
約1350年前に西日本に築かれた古代山城
福岡県の大野城。『日本書紀』によると、古代山城のなかでは最も早い天智天皇4年(665)に築かれた。総延長約8kmの城壁で囲まれた巨大な城だ
みなさんは「古代山城(こだいさんじょう)」をご存知でしょうか? 古代山城は、武士が登場するよりもずっと前、飛鳥時代・奈良時代に築かれた城です。日本に城は3〜4万ほどあると言われておりますが、古代山城は特別レア! 西日本限定で、30城にも満たない数しかありません。
また、古代山城のなかには『日本書紀』『続日本紀』などの官選史書に名前が登場する城もあれば、登場しない城もあり、さらには、記録には登場するのに城自体が見つかっていない例もあります。わからないことがあるからこそ、より歴史ロマンを感じさせる魅惑の城なんですね!
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国の防衛最前線!古代山城の「金田城」とは

金田城の東南角石塁。湾と石塁を望むビュースポットだ!
対馬に築かれた「金田城」は、そんな古代山城のなかでも特に見事な石塁が遺存している城。そして、まさに国宝級ともいえる……文化財保護法で指定された史跡の最高ランク「国指定特別史跡」の長崎県第一号に指定されるほど、歴史的にも重要な史跡なのです!
『日本書紀』によると、金田城が築かれたのは天智天皇6年(667)、日本国家をあげての築城でした。きっかけは、天智天皇2年(663)に、倭(日本)・百済の連合軍vs唐・新羅の連合軍が戦った「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・はくそんこうのたたかい)」が勃発し、倭・新羅の連合軍が敗戦したことです。国の防衛を目的とした城が築かれ、日本の国境最前線にある金田城にも防人(さきもり)と呼ばれる兵士が駐在しました。

南西部石塁。「山頂コース」を歩いていくと出会える。コースの詳細は次の見出しへ…!
金田城は、浅茅湾(あそうわん)に突き出た半島の北端に位置し、ぐるっと一周するように石塁をめぐらせた城です。城壁の総延長は約2.2km! 石英斑岩(せきえいはんがん)を使った石塁の残存箇所の延長は最長でなんと49.3mと、見学できる古代山城のなかでもトップクラスの石塁が楽しめます。
城壁は急な斜面をめぐるように築かれているため、石塁の上を歩くような散策は危険です! また、遺構を壊してしまいかねないので、整備された散策ルートを歩いて見学しましょう。
大パノラマが広がる「山頂コース」

山頂からは小島や半島が重なる絶景が! とても気持ちがいいが、足はブルブル……
散策コースは大きくわけて3つあります!
まず「山頂コース」では、立派な石塁が残る東南角石塁や南西部石塁を通過して、標高276mの城山山頂まで約40分の道のりを登っていきます。山頂部は道も狭く険しくなるので要注意! ですが、そこを通過したら絶景を望む大パノラマが待っています。
千年以上も前の人々が、この場所で船の行き来を監視していたのかと思うと感慨深いですね。

城山砲台に残る二十八糎榴弾砲の砲座跡
山頂付近には、日露戦争に備え明治34年(1901)に「城山砲台(じょうやまほうだい)」が置かれ、現在も二十八糎榴弾砲の砲座や弾薬庫、観測所、井戸の跡が残っています。実は、山頂へと続く整備された道は、当時、軍道として使われていたもの。金田城は、古代から近代までの歴史が詰まった場所なのですね!
石壁を辿る「石塁見学コース」

東南角石塁を下から眺める。石塁が折れる分岐点(張り出し)が一部崩落してしまっているが、それでも見事だ!
金田城の東側、東南角石塁を山頂ルートとは逆に下っていくルートは、城門をはじめ石塁を中心に散策するコースです。東南角石塁は平均して高さ4mの石塁が続いており、防衛機能を高めるための「張り出し」を構えています。石塁の内側には、掘立柱建物跡が2棟見つかっており、兵の詰め所か、見張り場だったのではないかと考えられています。

一ノ城戸(左上)、一ノ城戸水門(右上)、二ノ城戸(左下)、三ノ城戸(右下)
金田城の城戸(きど)は全部で三箇所。そのうち三ノ城戸では最も高い6.7mの石塁を見学することができます。二ノ城戸は、両側上半分の石材が崩落していたため、平成16年(2004)から修復作業が行われました。石敷床面は階段式に仕上げられていたようですが、現在見える部分は、下に降りて見学できるようにと近年石段が設置されたもので現存遺構ではありません。
そして、一ノ城戸は江戸時代(1800年頃)に修復された可能性があるようですが、その近くの石塁には水圧で崩落することを防ぐために「水門」が設けられていました。見事なほどの技術レベルの高さに、思わず大きく拍手をしてしまうほどです。

ビングシ土塁の間には門礎石が1つ見つかったが、対になる礎石は見つからなかった。手前にある門礎石はレプリカで、奥に見つかった当時の門礎石がある
二ノ城戸を進むと城内で最も広い平場に出ます。ここでは複数の掘立柱建物跡が見つかっていることから、城の中枢だったのではないかと考えられています。建物跡のあたりは鞍部(あんぶ)となっており、弱点を補強するかのように土塁(「ビングシ土塁」という)も確認されました。土塁の間には門礎石が1つ見つかっていることから、門の存在もあったようです。
急傾斜の難所を乗り越えて「結合コース」

急斜面が待つ奥のルートもしっかり石塁が残っている

手をつきながら足場を確認してゆっくり下っていく
山頂コースと石塁見学コースを繋ぐ奥のルートが「結合コース」。けっこうな難所が待っています。城壁を横目に急斜面の道を下っていくため、足場の悪い箇所も多く迷いやすい……体力や山登りの経験がある人向けのコースです!
ちなみに、東南角石塁からスタートして山頂コース、結合コース、石塁見学コースを歩き金田城の城壁をぐるっと一周すると、所要時間は4〜5時間ほど。隅々まで金田城を見学したい方は丸1日巡る気持ちで訪れてください。
対馬の自然や歴史が凝縮された金田城

「観光情報館ふれあい処つしま 観光の間」には、対馬の歴史や自然が一目でわかる展示があるので、立ち寄ってみよう!
2017年4月6日に(公財)日本城郭協会によって「続日本100名城」に選定された金田城。続日本100名城スタンプが設置されている「観光情報館ふれあい処つしま」には、対馬の大自然や歴史を解説した展示室があり、併せて立ち寄りたいおすすめスポットです!
足元に広がる地図には、対馬を中心に日本と朝鮮半島の対外関係が記されています。対馬は国境最前線の島。対馬を知らずして、日本の歴史は語れませんね!
金田城の基本情報
・住所…長崎県対馬市美津島町黒瀬城山
・電話番号…
観光について 0920-52-1566 ((一社)対馬観光物産協会)
史跡について 0920-54-2341(対馬市文化財課)
・営業時間…
観光情報館ふれあい処つしま 観光の間 9:00~17:00
・続日本100名城スタンプ設置場所…観光情報館ふれあい処つしま、美津島地区公民館
・アクセス…対馬空港から車で約20分、または、厳原空港から車で約30分で登城口。

執筆/いなもと かおり
お城マニア&観光ライター
30歳になる城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は500ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。
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肥沼さんへ
>ここの年代も1350年前(たぶん土器編年)というから,
670年頃(東山道武蔵路と同じ7世紀第3四半世紀),
つまり〈方位の考古学〉を利用すれば100年遡って570年なので同じ頃だ。
説明文をちゃんと読みましょうね。
この城は日本書紀の天智4年の項に作られた時期がかかれている。665年。
土器編年じゃないですよ。だから100年遡らせることはできないです。
書紀のこのころの記述は数年前後する可能性はありますが、明らかに唐に対抗した城です。
投稿: 川瀬健一 | 2020年12月27日 (日) 01:12
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 この城は日本書紀の天智4年の項に作られた時期がかかれている。665年。
そうですか。それは残念。
「日本書紀に書かれている築城記事は,正しい年代だ」という保証はあるのでしょうか。
日本書紀は歴史書というより,「そう信じさせたい書」だからです。
投稿: 肥さん | 2020年12月27日 (日) 06:46
>「日本書紀に書かれている築城記事は,正しい年代だ」という保証はあるのでしょうか。
日本書紀は歴史書というより,「そう信じさせたい書」だからです。
だから「書紀のこのころの記述は数年前後する可能性はあります」としたのです。
今の記述では、金田城だけではなく、太宰府の水城も大野城などもみな白村江のあとになってしまいます。
したがってこの白村江を巡る前後2・3年の記事は、時期が動かされたと考えるしかないです。
ではどう動かされたか。
これは天智3年の冒頭にある冠位制定の記事に出てくる冠位の一部が、その前の天智元年の新羅攻めの将軍の官位に現れているのがヒントです。
つまり天智3年冒頭の冠位制定記事は、本来は天智元年の話。
これに伴い、天智三年と四年の筑紫関係の記事はそれぞれ、天智元年・二年に移動させると矛盾がなくなります。
詳しくは別途「天智紀」を読むという論文で明らかにします。
なんの前提もなく「書記の記事の年代は信用できない」とすると、古代史研究は全く成り立たないか、正木さんのように、どんどん勝手に年代を動かして恣意的な歴史像を描くしかなくなります。
投稿: 川瀬健一 | 2020年12月27日 (日) 13:53
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 今の記述では、金田城だけではなく、太宰府の水城も大野城などもみな白村江のあとになってしまいます。
したがってこの白村江を巡る前後2・3年の記事は、時期が動かされたと考えるしかないです。
そうですよね。
〉 ではどう動かされたか。
これは天智3年の冒頭にある冠位制定の記事に出てくる冠位の一部が、その前の天智元年の新羅攻めの将軍の官位に現れているのがヒントです。
つまり天智3年冒頭の冠位制定記事は、本来は天智元年の話。
これに伴い、天智三年と四年の筑紫関係の記事はそれぞれ、天智元年・二年に移動させると矛盾がなくなります。
詳しくは別途「天智紀」を読むという論文で明らかにします。
なるほど。
投稿: 肥さん | 2020年12月27日 (日) 16:00
肥沼さんへ
追伸
書紀の年代は信用できるのか?
「偽書」だという古田説に基づいて、こういう人が多い。
だがこれは古田が言う「偽書」の意味を誤解したものだ。
古田が言ったことは、書紀は悠久の昔から列島の代表王権は近畿天皇家だったと歴史を偽造している、という意味だ。
正確には歴史的事象を書き連ねる中で、それがすべて近畿天皇家の事績であるかのように見せかけているだけ。
だがこの「見せかけ」は、私が確認した「主語有無の論証」で剥ぎ取ることが可能だ。
では書紀の記事の年代は正しいのか。信用できるのか。
これを「信用できない」としてしまうと、古代史研究は漂流する。
たとえば「方位の考古学」。
これは考古学における古代の土器編年が、近畿を基準として、東西の離れた地域に行くと、50年とか100年とか年代が意図的に後ろにずらされていることを、各地における東偏建物と正方位建物の出現時期の悉皆調査であきらかにしたもの。
だがこの東偏建物の出現時期と正方位建物の出現時期をどうやって絶対年代として確定したか。
正方位は、書紀における法興寺(今の飛鳥寺遺跡)の造立年代で判断した。この寺が正方位の伽藍であることは発掘で分かっており、6世紀末に造営が始まり7世紀初頭に完成したと書紀は具体的年代を示して記述している。
そして近畿地方における古代の土器編年は、この法興寺など、造立年代が書紀で確定できる土木工事遺跡の遺物の絶対年代を書紀の記述にある年代で決めている。
「書紀の記述の年代で考古学遺物の年代を決めるのはおかしい」としてしまうと、古代史における考古学研究の絶対年代が漂流してしまう。
年輪年代法や放射性炭素年代法という科学的年代決定法があるが、どちらもまだ数十年とか数百年の誤差があるので、大まかな時代様相を明らかにはできるが、具体的に歴史事件の意味などを明らかにするには使えないのです。
書紀の記述の年代がすべて正しいとは言い切れないが、その記事が動かされている可能性を文献の詳細な検証で明らかにするという方法論を取ることを前提にして、いくつか記事の年代が動かされてはいるが、全体としてこの記述に依拠するしかない、というのが古代史研究の現状だということを、心にとめておいてください。
投稿: 川瀬健一 | 2020年12月27日 (日) 23:50
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 書紀の記述の年代がすべて正しいとは言い切れないが、その記事が動かされている可能性を文献の詳細な検証で明らかにするという方法論を取ることを前提にして、いくつか記事の年代が動かされてはいるが、全体としてこの記述に依拠するしかない、というのが古代史研究の現状だということを、心にとめておいてください。
わかりました。
最初の川瀬さんのコメントで,
「この城は日本書紀の天智4年の項に作られた時期がかかれている。665年。」
と書かれていたのにこだわってしまいました。
投稿: 肥さん | 2020年12月28日 (月) 05:31