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2020年12月25日 (金)

「大宰之印」は唐から押し付けられた印かも?

昨日の「太宰府」と「大宰府」の続き。

「漢字/漢和/語源辞典」によると,以下のように出ていました。

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会意兼形声文字です(+)。「両手両足を伸びやかにした」の象形

(「大きい」の意味)と「2の横線」(「2にする」の意味)から

大きいにも大きい」すなわち「ふとい」を意味する「太」という

漢字が成り立ちました。

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やはり「太」>「大」の関係のようです。

地元の人は「太宰府」と呼ぶのに,どうして「日本書紀」では「大宰府」なのか。

ちなみに「日本書紀」の全文検索を掛けてみたところ,3件がヒットし,

どれも天智・天武・持統という唐との関係が不利な時期(白村江の戦いの敗戦後)でした。

また,こんな話が書いてあるものがありしました。

諸説あるのですが、現在残っている古代の印影(押印された印の文字)が

大宰 之印』で点がなく、正史(日本書紀などの六国史)でも点を使っていないので、

古代の正式表記は点のない『大宰府』だったと考えられています」と。

この印が白村江の敗戦後,唐から我が国に与えられたもの(押し付けられたもの)である可能性もあるのではないかと思います。

それまでは南朝から都督と認められ,太宰府を置くことができた。

ところが,北朝の流れをくむ唐がそのまま「太宰府」を追認するわけにはいかない。

それが「太」→「大」への格下げということではないか。

だから,8世紀になって日本の独立が認められるやいなや(新羅との関係上,今度は唐の太宰府と認められて),

「奈良時代には早くも「太宰府」表記が登場している」とあった。

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(1)南朝側の一の子分として認められたい倭国は都督の地位を認められ,「太宰府」は公私ともに使われていた。地位のアップ⤴

(2)白村江の戦いの敗戦・占領軍(郭務小宗)の来日・表凾&献物(大宰を命ずる上表文と「大宰の印」の授与か?)地位のダウン⤵

(3)8世紀になり,日本国が唐から独立が認められると,再び「太宰府」表記が登場。地位のアップ⤴

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これらの動きは,通説では理解できないが,九州王朝説などの多元的古代の考えに合うものではないか。

白村江の戦い(敗戦)の翌年の「日本書紀」の記事は,なんだかうれしそうに読める。

まるで,敗戦国ではないかのようだ。(実際近畿王朝は戦っていない。戦ったのは九州王朝とそれに従う勢力だったから)

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