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2020年12月28日 (月)

大野城の築造年代について

以前「夢ブログ」に「〈水城〉と〈古代官道〉と〈大野城〉の建設時期は,案外近いかも!」

という文章を書きました。

ところが昨日,九州国立博物館の「西都 太宰府」というサイトに以下のような記述を見つけ,

年輪年代法での測定なので「日本書紀有利」なのかと思いました。

【西都 太宰府】

https://www.kyuhaku.jp/dazaifu/d-map/kaisetu06.html

城門跡

土塁や石垣に囲まれた城内へは、城の各所にある城門から入っていきました。現在、城門跡は、坂本口、水城口、太宰府口、宇美口(百間石垣)など6箇所で確認されていますが、今後もさらに発見されて、数も増えていくかもしれません。
城門の中で、現在最も遺構が残っているのは、太宰府口城門(太宰府市)です。この城門は大野城の南側の外郭土塁に設けられたもので、発掘調査が行われています。
発掘調査の結果、築造当初は、掘立柱形式の城門で、その柱穴からは、良好な状態でヒノキの柱根が検出され、年輪年代法による分析の結果、西暦628+α年という結果が出ており、日本書紀の記述に合致することが分かりました。その後、奈良時代以降に礎石建物の櫓門風の城門に建てかえられています。

(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)
写真

太宰府口城門と水ノ手口石垣(写真提供:九州歴史資料館)

ただ,その一方で同サイトには,以下のような記述もあります。

 礎石建物群(主城原地区礎石群)

大野城では、約70棟あまりもの礎石建物群が見つかっています。それらは城内各所7つの群に分かれており、中でも主城原地区の礎石群は最も大規模なものです。
主城原地区(宇美町)は、城内の中央部よりやや北寄りの場所にあり、小さな尾根上に礎石が散在しています。弘仁14年(823年)には、大野城を管理する官司の一員として「大主城」が新設されているのが文献に見ることができますが、地名の「主城」との直接の関連はないようです。
この地区では、発掘調査により19棟もの礎石が確認されています。通常、大野城内の建物は、礎石の総柱式のもので、倉庫のような機能を果たした建物であるとされていますが、主城原地区では、基壇を伴う礎石建物や掘立柱式の総柱ではない官衙風の建物が検出されており、大野城の管理中枢部的な性格を有していた地区であったとも考えられます。
年代については、最下層の掘立柱建物の柱穴から出土した百済系軒丸瓦が7世紀後半のものと考えられ、日本書紀記載の西暦665年築造とさほどの開きはないようです。

(太宰府市『太宰府市史 考古資料編』ほかより)
写真

主城原地区掘立柱建物(写真提供:九州歴史資料館)

まず,軒丸瓦は「土器編年」で〈方位の考古学〉の利用できるのでしょうか。
つまり,7世紀後半→6世紀後半のように。
大野城には約70棟もの礎石建物が見つかっているそうなので(期間も長くかかったことでしょう),
最下層の掘立建物から出土している百済系軒丸瓦は,その出発点に使われたものだとしたら,
大野城は6世紀後半~7世紀半ばにかけて長期間に作られたものと言えないでしょうか。
とりあえず,大野城の年代判定については,年輪年代法が使われているということはわかりました。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんの見解に賛成です。
彼らが百済系軒丸瓦と称しているのは素弁蓮華文軒丸瓦です。これを素弁というと600年前後の編年になってしまい、彼らが主張する660年以降の百済滅亡・百済人亡命による技術導入で水城・大野城建設が言えなくなるので、百済系と称しているようです。
この百済系は那珂遺跡や太宰府政庁跡や観世音寺の最下層(彼らが創建瓦とする老司式発掘層のさらに下層)で出土しています。事実那珂遺跡出土品の方の編年は彼らも600年前後としています。この百済系軒丸瓦を660年以降と編年したために、筑紫・豊前の廃寺の創建瓦が百済系と老司式などの複弁と2種ある、個々の寺院の創建時2種類の創建瓦を使ったという解釈がされています。常識の美意識では考えられない見解が北九州の考古学者の認識になっています。
なお、ご指摘のように大野城の瓦は礎石ではなくて掘立柱建物に葺かれています。確か那珂遺跡もそうだったと思います。那珂遺跡ではさらに古い無文軒丸瓦も出土しており、国内で最も古い様式と言えます。
蛇足ですが、斉明紀元年記事に小墾田宮を瓦葺きで造ろうとしたが木材が朽ちて失敗したとあります。これは礎石をしていなかったので柱が朽ちたということではないかと考えています。この記事も655年ではなくてもっと古い話ではないかと。

服部さんへ
コメントありがとうございます。

〉 肥沼さんの見解に賛成です。
彼らが百済系軒丸瓦と称しているのは素弁蓮華文軒丸瓦です。これを素弁というと600年前後の編年になってしまい、彼らが主張する660年以降の百済滅亡・百済人亡命による技術導入で水城・大野城建設が言えなくなるので、百済系と称しているようです。

〈方位の考古学〉の利用できるものを探しております。
名称が違うと「違うもの」と考えてしまうので,困りますね。

肥沼さんへ
>まず,軒丸瓦は「土器編年」で〈方位の考古学〉の利用できるのでしょうか。
つまり,7世紀後半→6世紀後半のように。
 土器編年と瓦編年を混ぜこぜにするのは間違いのもと。
 土器編年なら100年年代を上に上げられますが、瓦は別です。

 これは服部さんがお示しくださったように、「素弁蓮華文軒丸瓦」ですから、6世紀末から7世紀初頭と見るのが正しい。
 服部さんの瓦の年代についての研究成果を忘れたのかな?
 素弁蓮華文軒丸瓦:6世紀末から7世紀初頭。
 単弁蓮華文軒丸瓦:7世紀中頃から後半。
 複弁蓮華文軒丸瓦:7世紀後半以降。
 これが近畿地方の瓦の年代です。
 全国一律に同じ年代にするべきなのに、「文化伝搬には時間がかかる」として素弁蓮華文軒丸瓦でも九州や関東では7世紀後半にずらされている。約100年。

 結論としては、大野城は6世紀後半(たぶん末)から建設されたのではないかという肥沼見解で正しいとなりますが、結論を導く過程が間違っております。

追伸
>発掘調査の結果、築造当初は、掘立柱形式の城門で、その柱穴からは、良好な状態でヒノキの柱根が検出され、年輪年代法による分析の結果、西暦628+α年という結果が出ており、日本書紀の記述に合致することが分かりました。

 この結論は間違いですね。
 年輪年代法で分かる年代は、7世紀前半だということ。書紀の年代とは30年程ずれる。

 こうやって何が何でも書紀の大野城築城記事の年代にこじつけるのが近畿一元史観に立つ今の学問のおかしなところ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  土器編年と瓦編年を混ぜこぜにするのは間違いのもと。
 土器編年なら100年年代を上に上げられますが、瓦は別です。

〉 結論としては、大野城は6世紀後半(たぶん末)から建設されたのではないかという肥沼見解で正しいとなりますが、結論を導く過程が間違っております。

残念。

〉  この結論は間違いですね。
 年輪年代法で分かる年代は、7世紀前半だということ。書紀の年代とは30年程ずれる。

こうやって何が何でも書紀の大野城築城記事の年代にこじつけるのが近畿一元史観に立つ今の学問のおかしなところ。

665年に大野城建設という「日本書紀」の記事は,かなり怪しそうですね。

〉 

肥沼さんへ
>665年に大野城建設という「日本書紀」の記事は,かなり怪しそうですね。

 この天智4年の記事は、実際は天智2年の記事で白村江の戦いの前だということは、先の金田城の所でお示ししました。
 おそらく天智2年、663年、白村江の戦いと同年に完成したのではないでしょうか。

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