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2020年11月10日 (火)

京都・泉涌寺には,7人の天皇の位牌が「ない」

京都・泉涌寺には,7人の天皇の位牌が「ない」ことで知られている。

私も知ってはいたが,あまり重要なこととは考えずにいた。

しかし,この7人の天皇の最中にONライン(九州王朝から近畿王朝への政権交代)があるのだから,

もっと重視しなければいけなかった。

新古代学の扉の検索を使って,「泉涌寺」で検索すると合田洋一さんだけがヒットした。

他の方は,泉涌寺には,あまり関心がなかったのだろうか?

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【「天武天皇の謎~「万世一系」系図作成の真相」(2016年12月10日)】

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/tenmu30.html

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泉涌寺に位牌が「ない」天皇は,次の7人である。

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天武ー持統ー文武ー元明ー元正ー聖武ー孝謙/称徳

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この天武系列の7人を経たのち,光仁となってようやく天武系が絶える。

そして,先の7人の間に,近畿王朝で最初の正史『日本書紀』は作られた。

(同時に,『古事記』は廃棄される運命となった)

Photo_20201110151301

           泉涌寺(京都・東山区)

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※関裕二氏が平成14年(2002年)の出版されたベスト書房「謎の女帝・持統」ですでに述べているそうです。 

 

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コメント

肥沼さんへ

 泉涌寺の天皇位牌の中で「天武ー持統ー文武ー元明ー元正ー聖武ー孝謙/称徳」の天武系天皇の位牌がない。
 初めて知りました。
 意味深長な事実ですね。これはどう理解したらよいのか。
 単純に考えればこれは、天武系を自らの祖先と考えず、天智に始まる王朝だとの理解を天皇家が持っているという意味になる。

 ただこの寺が官寺となり勅願寺ともなったのは後堀河天皇の貞応三年(元仁元年・1224)であり、皇室との特殊な関係(その御陵が営まれる)が生まれた最初は、高倉院の御陵が設けられたことで、その息子の後堀河、次の四条の御陵が営まれただけで関係は途絶える。
 次に皇室との関係が緊密化するのは、南北朝時代の文中三年(1374)後光厳院の御火葬所とされて御陵が設けられてからのことだ。以後歴代天皇の御火葬所となり御陵が営まれた。

 別に桓武に始まる「再興天智王朝」由来の寺ではない。
 いつからこの寺に歴代天皇の位牌が祭られたのか。
 ここがまず問題にされなければいけない。

 ただ明らかなことは光仁・桓武父子以後の天皇は明らかに天智系であり、その歴代天智系の天皇にとっては天武系7代(正確には8代)は自らの王朝の祖先ではないと理解されていた可能性はある。

 だがその理由を合田氏のように、天武は天智の弟ではなく九州王朝の皇子とし、壬申の乱は易姓革命だったとし、その天武の下で天皇系図が改竄されたことへの恨みなどと理解する必要もないと思います。
 第一、天武の生年が天智より前という後代史料は信憑性がない。
 第二、天智3年の条の「太皇弟」を天武のこととし、これは天皇の弟の意味だから、天武は当時の九州王朝の天皇の弟と理解も間違い。斉明紀ではかれは「皇弟」と表記されているので、この「太皇弟」と「皇弟」とは別人だ。
 第三、天武の名前に九州王朝制定の姓の「真人」があることをもって九州王朝の人としているが、これは九州王朝の天皇の臣下第一位の人物に贈られた姓なのだから、分家の皇子である天武に与えられるにふさわしい姓だ。

 むしろ天武系を排除したいとの強い願望を持った天皇としては、桓武を上げるべき。
 彼は本来天皇にはなれなかった。
 彼の父の白壁王の妻に聖武天皇の長女・井上内親王が配されたのは、聖武に跡継ぎの男子がなかったので二人の間に生まれた男子を、聖武のあとを継いだ孝謙天皇の次の天皇にするためだった。
 だから孝謙(再度践祚して称徳天皇)が死去したとき、朝廷内で次の天皇として処せられていたのは白壁王の第三皇子の他戸親王だった。だから白壁王が即位したとき井上内親王が皇后となり、他戸親王が皇太子になったわけだ。 
 つまり光仁天皇即位は、天武系を継ぐ他戸が即位するための中継ぎだ。
 だがこの事態に光仁の長子の桓武が怒った。
 なぜ俺は父が天皇になったのに天皇になれないのか。
 彼は次弟と画策し、皇后と皇太子が天皇を呪詛しているとの話をでっち上げて二人を廃して殺し、さらに弟も殺して天皇位を奪ったのだ。
 さらに桓武は即位したあと、天武系皇族のただ一人の生き残りである氷上川継を謀反で流罪にして殺している。氷上川継の父は天武天皇の子である新田部親王の息子の塩焼王。孝謙天皇は自分の甥以外の天武系皇族を殺しつくしたので、川継一人が臣下身分ではあるが生き残っていた。
 この天武系皇族最後の一人を桓武は殺した。
 彼の行動は明白に天武系の抹殺だ。

 壬申の乱で天武は天智系から天皇位(正しくは当時は大王だが)を奪ったが、白壁王の父の施基親王は閑職に追いやられたとはいえ殺されることはなかった。
 易姓革命というのならこのことは理解できない。

 合田さんの論は史料に依拠していない暴論だと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

本日(2)をアップしましたが,天武はじめ7人の天皇は,「奉幣の儀」もされていないとのことです。
位牌なし+「奉幣の儀」なしは,やはり「正式の先祖と考えられていない証拠ではないかと思います。

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