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2020年10月22日 (木)

九州王朝から近畿王朝への禅譲の証拠は日本書紀の最後の一文にあり(川瀬さん)

九州王朝から近畿王朝への禅譲の証拠は日本書紀の最後の一文にあり(川瀬さん)

 長い間このテーマは古田史学の会では論争になってきたが、日本書紀を「主語有無の論証」という私の解読法で読み解くと、書紀の最後の一文に、その禅譲が明記されていることがわかる。
 「主語有無の論証」とは、書紀が近畿王朝の史料と九州王朝の史料を合体して、すべて近畿王朝の事績であるかのように偽装した書だが、実際に編纂した史官は、おそらく嘘を書くのが嫌だったのだろう、九州王朝の天皇の事績と近畿天皇家の王の事績を明確に区別できるようにかき分けたと考えたことから出てきた解読法である。
 それは中国の正史では、例えば「隋書」や「唐書」の帝紀では、これらの王朝の始祖は最初は臣下であって天子ではなかったので、その行為にはきちんと名前が明記されているが、彼らが天子となるや、その行為を記した文には行為主体の名前(天子)が明記されずに、天子の行為であるとわかる特殊な用語を使ってその行為を記している。この記述法を参考にして、書紀を編纂した史官は、九州王朝の天皇の事績と近畿天皇家の大王の事績を主語を書き分けることで区別したと仮定して読んでみると、明確に区別できることがわかる。
 九州王朝の天皇の事績では主語を省略して天皇の行動とわかる特殊な動詞を用いて表現。
 近畿天皇家の大王の事績では主語を「天皇」と明記して、近畿天皇家の大王の事績とわかるようにする。
 しかしこれだと読む者にこのからくりがバレルので、次のからくりを施した。
 九州王朝の天皇の事績を示す一文では、冒頭に主語を書かずに始め、文の途中に何度か「天皇」と入れることで偽装。
 近畿天皇家の大王の事績を示す一文では、冒頭に「天皇」と主語を明記して初め、文の途中で何度か主語を省略した部分を挿入することで偽装。
 こういう方法で二つの事績を書き分けたと考える方法だ。

 さて書紀の末尾にある禅譲を示す一文を見てみよう。持統紀の末尾の一文だ。
 「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」
 
 定説派はこれをどう読んだか。
 それは「8月1日に持統天皇が、策を禁中に定め、天皇位を皇太子に譲った」と、持統天皇が皇太子に皇位を譲ったのだと解釈した。
 
 しかしこの読みはおかしい。
 なぜなら「定策」という熟語は漢和辞典を引いてみれば明らかなように「臣下が天子を擁立する」という特殊な用語だから。
 通説派は漢文特有のこの特殊な用語の使い方を無視している。
 というか無視せざるを得ないのだ。この文章の主語は持統天皇なのだから、それが臣下であって天皇を擁立したとはおかしなことになる。
 そこで考えた解釈が、「定策禁中」を「禁中(=宮中)にて次の天皇を定める策を(臣下とともに)練り」と読むことだったのだ。
 だがこう読むと漢文としておかしい。
 「禁中にて」と読むためには「禁中」の前に「於いて」という前置詞がないとこう読めない。
 そして「定策」は「天子を擁立する」という動詞なので、動詞の次に来る名詞は目的語でなければならない。
 すなわちこの一文を漢文として素直に読めば、
 「定策禁中」とは、禁中を定策す、としか読めないのだ。
 つまり禁中は朝廷や天皇などを表す隠語である。ここで天皇と明記しなかったのは、天皇の語が続けて出てくることを嫌ったからだろう。

 では書紀最後の一文をどう読むべきなのか。
 それは、
 「8月1日、持統天皇(ただしくは鸕野讚良皇女)は天皇になるべき人物を擁立し(つまり皇太子)、(九州王朝の天皇は)天皇位を皇太子に譲った」と。

 先の主語有無の論証を当てはめれば、
 冒頭の「天皇、定策禁中」は、近畿天皇家の大王の行為を意味しているので、ここで天皇とあっても、実際は大王の位にあった鸕野讚良皇女が主語となる。
 そして次の一文「禪天皇位於皇太子。」。
 ここでは禅譲という特殊な動詞が使われてその主語が省略されているのだから、本来の主語は九州王朝の天皇となる。

 したがって「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」という文章は、「8月1日、持統天皇(ただしくは鸕野讚良皇女)は天皇になるべき人物を擁立し(つまり皇太子)、(九州王朝の天皇は)天皇位を皇太子に譲った」となるのだ。

 なんと日本書紀は明確に、天皇位が九州王朝から近畿王朝へ禅譲されたと記しているのだ。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

追記です。
 通常は「定策」=臣下が天子を擁立すると理解されていますが、よく見ればこの熟語は「策を定める」という意味でしかありません。
 ではなぜこの「定策」が「臣下が天子を擁立する」という意味でつかわれるようになったか。

 これは「定策禁中」という一つの熟語があって、ここでいう「禁中」は天子を表す隠語なので、全体として「天子を擁立する」という熟語になるのだと思います。
 通常天子は自ら即位します。
 それは先代の天子に次期天子として指名されていたという事実に基づいたり、自ら実力で前王朝を打倒して即位するという形です。
 しかし天子が次期天子を指名しないで死去した場合、その子孫や親族に天子にふさわしい条件を備えたものがいた場合に、天子の親族や臣下が、次の天子を指名する形をとるしかない場合が生まれます。
 こうした時に起きた事態を指す熟語が「定策禁中」であり、この熟語の存在を前提にして「定策」が「臣下が天子を擁立する」という意味に使われるようになった。
 このことを示す用語が「定策国老」という熟語。
 天子を擁立した宿老クラスの家臣という意味。

 現在の書紀研究者は、こうした「定策禁中」の用語の歴史を無視しないと、近畿王朝こそが列島のずっと続いた統治権力であるというテーゼ、けっして書紀がこう語っているわけではなく、近畿王朝一元史観にたつ立場を保てないからだ。

 上の「定策禁中」の理解に至った背景は、夢ブログの「2019年11月17日 (日)九州王朝の天子の動向(川瀬さん)」という記事の議論で明らかです。
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2019/11/post-ddfe36.html
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

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