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2020年10月20日 (火)

九州王朝から近畿王朝への「禅譲」記事?

古賀さんの「洛中洛外日記」に興味深い記事が載っていた。

服部さんの「7世紀末の王朝交替「禅譲」説」というものだ。

7世紀末・8世紀初頭に九州王朝と近畿王朝のONライン(画期)があるのは,

701年の大宝年号の建元(初めて作る)で明らかであるが,

その前に「文武天皇」は「天皇」になってなければならない。

つまり九州王朝から近畿王朝への「禅譲」があったのではないかというのだ。

その記事は,次のところに出ているという。

『続日本紀』文武元年(697)十二月二八日条の正月拝賀(賀正礼)禁止命令を九州王朝の天子に対する拝賀禁止とされ、

その二日後の二年正月一日には文武天皇への拝賀が「大極殿」で実施されたことを根拠に、

文武は天皇即位時に九州王朝から禅譲を受けていたとされました。 」(古賀さんの「洛中洛外日記」より)

「江川投手の空白の1日」ではないが,この記事の「空白の1日」がそれだったということか。

通説では,697年8月1日に持統天皇→文武天皇という形で,皇位の譲り渡しがあったことになっているが,

「実は,そうではないのではないか」というのだ。

これはけっこう大きな「虚構」が「日本書紀」~「続日本紀」に隠されていそうである。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 九州王朝から近畿王朝への「禅譲」の痕跡ですが、以前私が、持統紀の最後の一節がそれではないかと論じたことがあるのを覚えていますか。
 何も続日本紀を持ち出すまでもないことです。

 すなわち「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」

 8月1日に、持統天皇(ただしくは鸕野讚良皇女)は天皇を擁立し、(九州王朝の天皇に)天皇位を皇太子に譲らしむ。

 こう読むことができます。
 書紀で「天皇」と文頭に有る場合には近畿天皇家の大王を指す。
 「禅」と位を譲る主体が省略されていますから、この場合の主体は九州王朝の天皇。
 

 こうした「主語有無の論証」で明らかにした定理と
 「定策」=臣下が天子を擁立する という中国の熟語。
 「禁中」=天皇を指す
 を組み合わせて上の理解を得たわけです。

 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  九州王朝から近畿王朝への「禅譲」の痕跡ですが、以前私が、持統紀の最後の一節がそれではないかと論じたことがあるのを覚えていますか。

もちろん忘れていたから,「夢ブログ」で取り上げた訳です。
(私のノーミソは川瀬さん程広くありませんので・・・)

〉 こうした「主語有無の論証」で明らかにした定理と
 「定策」=臣下が天子を擁立する という中国の熟語。
 「禁中」=天皇を指す
 を組み合わせて上の理解を得たわけです。

それでは,いい機会ですので,これを機に,川瀬さんの「主語有無の論証」を皆さんに広くお知らせしましょう!

肥沼さんへ

 「主語有無の論証」を使って九州王朝から近畿王朝への禅譲の証拠を論じた私の論をご紹介くださるとのこと。
 それならば先に記したコメントには多々間違いがあるので以下のものをご紹介ください。

★九州王朝から近畿王朝への禅譲の証拠は日本書紀の最後の一文にあり

 長い間このテーマは古田史学の会では論争になってきたが、日本書紀を「主語有無の論証」という私の解読法で読み解くと、書紀の最後の一文に、その禅譲が明記されていることがわかる。
 「主語有無の論証」とは、書紀が近畿王朝の史料と九州王朝の史料を合体して、すべて近畿王朝の事績であるかのように偽装した書だが、実際に編纂した史官は、おそらく嘘を書くのが嫌だったのだろう、九州王朝の天皇の事績と近畿天皇家の王の事績を明確に区別できるようにかき分けたと考えたことから出てきた解読法である。
 それは中国の正史では、例えば「隋書」や「唐書」の帝紀では、これらの王朝の始祖は最初は臣下であって天子ではなかったので、その行為にはきちんと名前が明記されているが、彼らが天子となるや、その行為を記した文には行為主体の名前(天子)が明記されずに、天子の行為であるとわかる特殊な用語を使ってその行為を記している。この記述法を参考にして、書紀を編纂した史官は、九州王朝の天皇の事績と近畿天皇家の大王の事績を主語を書き分けることで区別したと仮定して読んでみると、明確に区別できることがわかる。
 九州王朝の天皇の事績では主語を省略して天皇の行動とわかる特殊な動詞を用いて表現。
 近畿天皇家の大王の事績では主語を「天皇」と明記して、近畿天皇家の大王の事績とわかるようにする。
 しかしこれだと読む者にこのからくりがバレルので、次のからくりを施した。
 九州王朝の天皇の事績を示す一文では、冒頭に主語を書かずに始め、文の途中に何度か「天皇」と入れることで偽装。
 近畿天皇家の大王の事績を示す一文では、冒頭に「天皇」と主語を明記して初め、文の途中で何度か主語を省略した部分を挿入することで偽装。
 こういう方法で二つの事績を書き分けたと考える方法だ。

 さて書紀の末尾にある禅譲を示す一文を見てみよう。持統紀の末尾の一文だ。
 「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」
 
 定説派はこれをどう読んだか。
 それは「8月1日に持統天皇が、策を禁中に定め、天皇位を皇太子に譲った」と、持統天皇が皇太子に皇位を譲ったのだと解釈した。
 
 しかしこの読みはおかしい。
 なぜなら「定策」という熟語は漢和辞典を引いてみれば明らかなように「臣下が天子を擁立する」という特殊な用語だから。
 通説派は漢文特有のこの特殊な用語の使い方を無視している。
 というか無視せざるを得ないのだ。この文章の主語は持統天皇なのだから、それが臣下であって天皇を擁立したとはおかしなことになる。
 そこで考えた解釈が、「定策禁中」を「禁中(=宮中)にて次の天皇を定める策を(臣下とともに)練り」と読むことだったのだ。
 だがこう読むと漢文としておかしい。
 「禁中にて」と読むためには「禁中」の前に「於いて」という前置詞がないとこう読めない。
 そして「定策」は「天子を擁立する」という動詞なので、動詞の次に来る名詞は目的語でなければならない。
 すなわちこの一文を漢文として素直に読めば、
 「定策禁中」とは、禁中を定策す、としか読めないのだ。
 つまり禁中は朝廷や天皇などを表す隠語である。ここで天皇と明記しなかったのは、天皇の語が続けて出てくることを嫌ったからだろう。

 では書紀最後の一文をどう読むべきなのか。
 それは、
 「8月1日、持統天皇(ただしくは鸕野讚良皇女)は天皇になるべき人物を擁立し(つまり皇太子)、(九州王朝の天皇は)天皇位を皇太子に譲った」と。

 先の主語有無の論証を当てはめれば、
 冒頭の「天皇、定策禁中」は、近畿天皇家の大王の行為を意味しているので、ここで天皇とあっても、実際は大王の位にあった鸕野讚良皇女が主語となる。
 そして次の一文「禪天皇位於皇太子。」。
 ここでは禅譲という特殊な動詞が使われてその主語が省略されているのだから、本来の主語は九州王朝の天皇となる。

 したがって「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」という文章は、「8月1日、持統天皇(ただしくは鸕野讚良皇女)は天皇になるべき人物を擁立し(つまり皇太子)、(九州王朝の天皇は)天皇位を皇太子に譲った」となるのだ。

 なんと日本書紀は明確に、天皇位が九州王朝から近畿王朝へ禅譲されたと記しているのだ。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

では,川瀬さんの「主語有無の論証」を掲載させていただきます。

肥さんこんばんは。
古賀さんの「洛中洛外日記」の当該記事は私も読みました。
でも私は九州王朝から近畿天皇家への禅譲は「あったのかなぁ」と懐疑的です。
少なくとも天武は禅譲を受けることを前提としていたように見受けられます。
(古事記の編纂は禅譲事業のひとつではないかと考えています)

私がひっかかっているのは年号問題です。
那須国造碑に「永昌元年」という唐朝の年号が刻まれていることがひとつ。
そして、九州年号は大宝建元とは無関係に大化→大長と連続していることです。

もし近畿天皇家が禅譲を受けた時、まず天皇家が力を入れて実施することは
「前王朝たる九州王朝の正統性を主張し、政令や史料においてもそのことを特筆大書」
することでしょう。禅譲である以上、前王朝の正統性を証明してこそ自らの正統性もまた
証明されるからです。
(不改常典問題もこのような視点で見てみると謎が解けそうな気がします)

那須国造碑に刻まれたのが九州年号でない以上、持統三年の段階ですでに
九州王朝は日本列島の代表ではなくなっていることを示しているのではないか。
そして九州年号が続いている中で唐突に大宝建元されているということは、
禅譲ではなく独自に(あるいは唐朝を後ろ盾として)王朝を開いたのではないか。

私は以前、「禅譲はあったけど『なかった』ことにされてしまった説」に同調していましたが、
(天子の王朝からの禅譲を唐朝が認めるはずはないので)
今は禅譲そのものが「なかった」のではないか、と考えるようになっています。

この考察の正否はともかく、肥さんの謎を解くためのキッカケのひとつになれば幸いです。(謎が謎を呼んでも、それはそれで幸せでしょうけれど(笑)

ツォータンさんへ
コメントありがとうございます。

〉 古賀さんの「洛中洛外日記」の当該記事は私も読みました。
でも私は九州王朝から近畿天皇家への禅譲は「あったのかなぁ」と懐疑的です。

それはそれは・・・。
これはもう,私の手には負えないようです。
川瀬さんにご登場願いたいと思います。

ツォータンさんへ  肥沼さんへ

>もし近畿天皇家が禅譲を受けた時、まず天皇家が力を入れて実施することは
「前王朝たる九州王朝の正統性を主張し、政令や史料においてもそのことを特筆大書」
することでしょう。禅譲である以上、前王朝の正統性を証明してこそ自らの正統性もまた
証明されるからです

 これは思い込みにすぎません。
 近畿王朝は形の上では九州王朝からの禅譲の形式をとったが、実質的には独自の王朝を作り実力で九州王朝を排除したのだと思います。
 だから禅譲を受けても、その史書などでは徹底的に九州王朝の実在を消す。
 でも近畿王朝の正統性は正統である九州王朝から禅譲を受けたことにあるので、即位宣命などでは高天原以来の・・・・という文句を挿入しているわけです。

 禅定か否かを事実に基づいて考察するのではなく、「こうであったに違いない」という思い込みをもとに考察したのでは歴史学とは言えないと思います。
 史料が示す事実は
1:書紀にははっきりと禅譲を受けたと記してある。
2:だが書紀では九州王朝の存在を完全に消している。
3:近畿王朝天皇の即位宣命では「高天原以来の・・・」として自身が九州王朝の正統を継いでいると宣言している。
4:九州王朝が定めた様々な制度を継承している。
 こうした諸事実から考察しないといけないと思います。
 この視点から考えると「那須国造碑に「永昌元年」という唐朝の年号が刻まれていること」は「持統三年の段階ですでに九州王朝は日本列島の代表ではなくなっていることを示している」可能性は高いですね。

 でも大宝建元にもかかわらず九州王朝の年号は続く。
 この事実をどう理解するか。
 これは簡単です。
 むりやり統治権を譲らされても、九州王朝は、もしくはその一部は、それを認めようとはせず抵抗したということです。
 この理解を支える事実が、「続日本紀」に、武器や正統文書を携えて山川に亡命して抵抗する勢力の存在が記されているというものがあると思います。

 歴史は単純ではないです。

>これは思い込みにすぎません。

これは川瀬さん自身にも問われることですね。
日本書紀に「大化」「白雉」「朱鳥」などの年号が残されていること。
そして続日本紀の聖武詔報「白鳳以来、朱雀以前」の記事。
また、川瀬さんの「主語有無の論証」もあるいは本来は天皇家が九州王朝の事績を正確に記録していた痕跡の可能性もあると考えています。
こまごまとしたことはもっとあるのでしょうが、こういった史料状況からはむしろ川瀬さんの主張される
「禅譲を受けても、その史書などでは徹底的に九州王朝の実在を消す」
とは、まあ「ほど遠い」とは言わないまでも、とても徹底的などとは言えないのではないかと思います。
川瀬さんは「徹底的に消した」という思い込みで解決されたのでしょうか。
私はむしろ「なぜ徹底的ではなくこんなに中途半端に消したのだろうか」という疑問点ばかりが強く残り、これが新たなスタート地点となったのですが。

どうも従来の九州王朝説論者の多くは
①九州王朝→近畿天皇家への政権移行
ということを無条件で思い込んでいらっしゃるようなのですが、私にはそこがよくわかりません。
②九州王朝→A政権→近畿天皇家へ
などダイレクトでないケースも想定して考えるべきで――。
(以下長くなったのでバッサリ大胆に省略)

私が「九州王朝からダイレクトに近畿天皇家へ政権移行した」、ということを疑い始めたのにもキッカケはもちろんありました。
私は「法興」年号と「端政→倭京」年号が同時並立していることについて、「2朝並立」状態にあり、二中歴に法興年号が記載されていないことをもって、
「後年にこの王朝は偽朝、法興年号は偽年号として葬り去られたのではないか」
との推測を――。
(以下かなりの長文が続くけど省略)

上記の私の推測の是非はともかく、2系統の年号という現実がある以上は、まずは最初に「2朝並立」を推定するべきではないかと私などは思うのですが、どうもそのような視点での研究は見当たらないようです。

上記の考察から、私は10年も前から「強力な王権を保持する九州王朝」像とは真逆の、「弱い弱い九州王朝」像が浮かんできていました。
そしてこの推測を加速させたのが実は私が川瀬さんに問いかけた「磐井の乱」に関することの川瀬さんの考察でした。
私自身、川瀬さんの「磐井は倭王にあらず」との主張に大変助けられ、今も大変感謝申し上げている次第ですが、皮肉にもその川瀬説を起点として、私は従来の九州王朝説からは大きくかけ離れた考えを持つに到っているのが現状です。

いわゆる「磐井の乱」以降の、弱体化した九州王朝の王権と吹けば飛ぶような倭王の姿。

近年の私は「こんなヘロヘロな九州王朝がよく白村江の役まで権力を維持出来たもんだなぁ」という思いしかしていなかったのです。
実際は白村江を待つまでもなくタリシホコ時代に政権奪取の動きがあってもまったく不思議ではない、むしろそういったことを想定して歴史の再検証をすすめる視点を今まで誰も持っていなかったことが不思議に思えるようにすらなってきました。
もちろん上記の推測の「是非」はべつです。ただ
「九州王朝は白村江の戦いまで盤石に政権を維持していた」
というのがたんなる思い込みであることに気づいて、それまでの認識をいったん捨て、新たな視点で見つめ直す作業をしただけのことです。

川瀬さんは新たな発見にもご自身の従来からの認識に引きずられてしまう傾向がおありのようで、そのために私が肥さんにコメントしても川瀬さんの私に対する論評などで私自身が特に目新しい「認識」を得ることはあまりない、というのが常となっています。(知識は得ており感謝しておりますが)
たとえば、最近では「八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子」への論証など

さすが川瀬さんやな!

と拍手を送る自分がある一方で、持統十一年=文武元年が「大宝元年」となっていないことへの疑問はまったく解けないままなのです。
皇極→孝徳の譲位が「讓」、持統→文武では「禪」。
たしかにこの1文字の違いは大きいものと感じます。
しかし年号については建元が文武即位の数年後。その直前の金石文には九州年号どころか唐朝の年号が使われている。(那須直葦提の死は西暦700年正月のこと)
はたしてこんなんで九州王朝からの「禅譲」と言えるのだろうか。

最後に、川瀬さんの解釈を認識した上で、とりあえず「現在の私の認識」をひきずっていることを承知の上で解釈してみます。

「天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子」
持統は自らを「前王朝の天皇」と位置づけ、孫の文武を「新王朝の天皇」と位置づけ禅譲した。

上記の「位置づけ」が持統・文武の認識だったのか、それとも日本書紀執筆者の認識だったのかはわかりません。ただ、「文武は女系によって継承された」ということです。
こう考える理由は――(かなりの長文がどうせ徒労に終わるので省略)
文武の時代以降、
「なぜ天智の『不改常典』に拠って即位したことを高らかに宣言したのか」
「なぜ藤原不比等を筆頭に近江朝に連なる者等が次々と台頭したのか」
「なぜ長屋王の子等が二世王として処遇され、彼自身も親王として処遇されたのか」
「なぜ葛野王が――」
(以下数項目の「なぜ」も含めて略)
これらの「なぜ」が、文武が天智系として即位したと考えることで一挙に、あるいはある程度解決するのであれば、上記の推測を「非」とする道理は今のところ、ない。
これが「今のところ」の私の解釈であり判断です。

私は上記の解釈の是非について、さして興味はありません。
ただ続いて新たに湧いた疑問、
「なぜ後代の天皇家はこの立場を破棄し、続日本紀の述べるような立場を採用したのか」
もはやこの問題ではそのことしか頭にはないのです。

それでは川瀬さん、ごきげんよう。

ツォータン(佐藤浩史)へ

 ながながとお返事ありがとうございます。

 ツォータン(佐藤浩史)のご意見はかなりあいまいです。根拠が甘いという意味。

>「禅譲を受けても、その史書などでは徹底的に九州王朝の実在を消す」
とは、まあ「ほど遠い」とは言わないまでも、とても徹底的などとは言えないのではないかと思います。
川瀬さんは「徹底的に消した」という思い込みで解決されたのでしょうか。
私はむしろ「なぜ徹底的ではなくこんなに中途半端に消したのだろうか」という疑問点ばかりが強く残り、これが新たなスタート地点となったのですが。

 「徹底的」とか「中途半端」とかいう言葉は、言葉自体があいまいです。何を基準にして「徹底的」といい、何を基準にして「中途半端」というかが論者によって異なるからです。異なる感じ方をもとに議論しても仕方がありません。

 私が書紀において「徹底的に九州王朝の存在を消している」と判断したのは、書紀では九州王朝などないと考えても読めてしまうからです。ただしこの際にはかなり漢文としての特性を否定し、「和製漢文」として読まないといけないところが難点です。
 漢文として読まないと意味が通じない箇所が多々あるが、それだと近畿王朝が悠久の昔から列島代表政権であったという書紀の表向きの主張には反してしまう。
 だから九州王朝実在を前提として書紀を漢文として読むと、近畿王朝中心史観は壊れる。
 ここが中途半端さの根拠です。
 九州王朝系史料と近畿王朝系史料を合体し、九州王朝の事績をすべて近畿王朝の事績に偽装した故に生じた中途半端さです。

>持統十一年=文武元年が「大宝元年」となっていないことへの疑問はまったく解けないままなのです。

 これは大事なところを突いた疑問だと思います。
 ただこの疑問の根拠は「天皇が変わったのになぜ元号が変わらないのか?」「王朝が変わったのになぜ元号が変わらないのか?」という疑問から来ていると思います。
 今のように「一世一元」の制度は昔はないので、天皇が変わったからすぐに元号が変わるわけではないです。これは明治までの歴史を通観してみればわかること。
 ではどう考えるか。
 元号はどのように策定されるかを考えてみればよいと思います。
 現在の「令和」が制定される過程やその前の「平成」が制定される過程はかなり明らかになっています。
 明治以後は新天皇が即位するのと合わせて元号も変えるため、常にその事態に備えて元号制定の準備をしていないといけない。
 政府にその専門の部署があって、漢籍に詳しい学者がその任にあたり、様々な分野の専門家を抽出して多くの原案を備えておく。
 一世一元ではない時代にも、確実に朝廷内に元号を起案する専門家がいたはずです。この人古今の漢籍に通じていなければならず、中國史にも倭国史に通じて、古典の文章に依拠してある一定の意味を含意した元号を起案し、それが過去の元号に重ならないかなどの様々な禁避に差し障らないか検討しておく必要があるわけです。
 文武が天皇となってすぐに元号ができなかったわけは、その豊富な知識をもった技官が近畿天皇家にはまだいなかったと考えれば良いのだと思います。
 事実として見れば、独自の律令が完成すると同時に改元したのではないでしょうか。 
 そして独自の律令の編纂開始は文武即位のあとです。

>「天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子」
持統は自らを「前王朝の天皇」と位置づけ、孫の文武を「新王朝の天皇」と位置づけ禅譲した。

上記の「位置づけ」が持統・文武の認識だったのか、それとも日本書紀執筆者の認識だったのかはわかりません。ただ、「文武は女系によって継承された」ということです。

 この解釈は通説派と同様に漢文としては無理です。
 前にも説明したとおり「定策禁中」は「臣下が帝王を擁立する」という意味の熟語です。この禁中をどうやても「前王朝の天皇」とは読めません。
 おそらく「文武は女系によって継承された」との予想が前提にあっての読みだと思います。

>文武の時代以降、
「なぜ天智の『不改常典』に拠って即位したことを高らかに宣言したのか」
「なぜ藤原不比等を筆頭に近江朝に連なる者等が次々と台頭したのか」
「なぜ長屋王の子等が二世王として処遇され、彼自身も親王として処遇されたのか」
「なぜ葛野王が――」
(以下数項目の「なぜ」も含めて略)
これらの「なぜ」が、文武が天智系として即位したと考えることで一挙に、あるいはある程度解決するのであれば、上記の推測を「非」とする道理は今のところ、ない。
これが「今のところ」の私の解釈であり判断です。

 こういう解釈に走るのは危険です。
 すべての謎が解けてしまうミッシングリングなど、そうそうあるものではないからです。

 歴史は史料と事実に基づいて推理するものです。

「天智の娘である持統が九州王朝から禅譲してもらう必要などあるのか?」

古田さんは著書で「天智天皇が日本創建した」とのべられ、それに関連して「不改常典」についても言及されていました。
また古田さんは他の所では「九州王朝からの政権交代は唐朝の意向によって行われた」との見解を述べらていました。
私は古田さんが「天智天皇が日本創建した」と考えた理由、そう認識した理由を私なりに再認識した結果、「天智朝の政権移行は正しい」と認識するに到りました。
決定的だったのは「元明即位の詔」でした。
元明は即位にあたり、まず持統→文武の譲位について「天智の定めた不改常典にもとづくもの」と述べ、そして自身について「天地之共長遠不改常典止立賜覇留食国法」を発展させる、と宣言しているのです。
「食国法」などを制定できるのは日本列島の代表政権にしかなしえない、すなわちナンバーワン政権にしか出来ないことだと考えるのが妥当と思われます。
「食国法」を大宝令のことだと考える説もあるようですが、即位詔で「天智の定めた不改常典」と述べ、その後に述べる「不改常典と立て賜へる食国法」が大宝令であると解釈するのなら、それは結局は「大宝令が天智の定めた法をもとにしている」という解釈になることになります。
実はこれに対応する記事ではないかと思われるものが天智十年正月の記事にあります。
「施行冠位法度之事。大赦天下」とあり、その注に「法度冠位之名、俱載於新律令也」とあるのですが、この「新律令」が日本書紀編纂時に実施されていた律令を指しているとするなら、まさに大宝律令は「天智の近江令」をもとにしているということになります。
(もちろん編纂中だった養老律令の可能性もありますが)

上記の考察はあくまでも私自身が「古田さんの認識はどうだったか」を私なりに追跡したものですが、結局は私も古田さんが述べられた「天智天皇の近江朝が日本国を創建した」という結論に達したのです。
ただ、古田さんは慎重で、決してこれを「禅譲」だとは述べられなかったようです。ただこの政権奪取には「唐朝の意向によって行われた」との見解を述べられたのみです。

さて、天智が九州王朝から政権を(禅譲かどうかわからんけど)奪取し「不改常典」「食国法」を高らかに宣言したのが真実だとして、
「その娘である持統がわざわざ九州王朝から禅譲を受ける必要性などあるか?」
というのが私の新たな疑問となったのです。
この点、天武は立場が違います。彼は壬申の乱によって近江朝を打倒したのですから、不改常典も食国法(近江令)も否定したことになります。もし、唐朝のバックアップのない彼が新たに日本の代表者となるためには九州王朝からの「禅譲」が必須となるでしょう。
しかし天智の娘である持統が日本列島の統治者となるにあたり、九州王朝の禅譲など必要としないのではないか?

そこから私は古田さんを離れ、独自の考察へと進むことになりました。
天智朝では太政大臣、左右大臣、御史大夫(御史蓋今之大納言乎)が置かれていますが、持統朝でも太政大臣、右大臣、大納言を置いており、「大臣が一人も置かれなかった」天武朝とは異なった政治体制であることは明らかです。
このことに私などは、持統は即位とともに飛鳥浄御原令を廃棄して近江令を復活させたのではないのかと思っています。(班賜諸司令一部廿二巻)
また注目すべきはこの時、八省・百寮らを遷任させていることです。(八省百寮皆遷任焉・・・大宰國司皆遷任焉)
常識で考えて官僚らを「皆」遷任させてしまってはその後の政務に支障がきたさないはずはないと思うのですが、九州王朝の官僚をそっくり天皇家の官僚としたのか、あるいは天皇家の官僚をそのまま横滑りさせて中央政権の官僚と位置づけをすればこのような表記になるのではないかと推測します。
(続く)

(続き)
そして私の考察は文武即位への経緯に及びました。
『懐風藻』葛野王伝の伝える文武擁立の経緯を要約すれば次のようになります。

高市皇子の死去により、持統が王公群臣らを禁中に集めて後継者の選定を諮らせた時、群臣らはそれぞれ自分の意見を述べて紛糾しなかなかまとまらなかった。そこで葛野王が進み出て
「皇位は子から孫へと引き継がれるべきで、兄弟が継げば乱の元となる。これを考えれば誰が引き継ぐべきかは既に定まっている」
と述べた。そこで弓削皇子が何か発言しようとしたが葛野王が叱りつけたため弓削皇子は発言をやめ、後継者が文武へと確定した。

私がまず驚いたのが、皇位継承に関する問題で、
「葛野王は弓削皇子よりも発言力があった」
という事実です。
持統政権では太政大臣の高市皇子が浄広壱で、弓削皇子は兄の長皇子とともに高市に次ぐ浄広弐が与えられていたはずなのですが、葛野王は少なくとも皇位継承問題については、彼らを叱りつけ、黙らせるような存在だったことになります。
また私はこの時に葛野王の述べた内容にも疑問が生じました。彼は「皇位は子から孫に継がれるべきで、兄弟相続は良くない」という旨の主張をしたわけですが、弓削皇子らは天皇の兄弟になったことは一度もなく、そもそも天武の息子は誰一人として天皇にはなっていないのです。
つまり天武の息子の誰が後継者になってもそれは親子相続であり兄弟継承ではないのです。
また葛野王の発言が高市皇子を念頭に置いたものだとすれば、後継者は高市皇子の子に決定するはずで、文武が後継者に決定するというのは理屈がつかない。

しかしこれらの疑問は時の天皇である「持統」を中心に考えれば直ちに解決するのです。
持統は天智の娘であり、持統自身がまさに「親から子へ」の継承です。
そして持統から文武も、まさに孫への継承となるのです。
天智を祖とし、持統をその継承者と考えれば、葛野王の継承順位は弓削皇子よりも上位となること明らかです。
ようするに葛野王は弓削皇子に向かって

「アンタに資格があると言うのなら、オレが相手になってやってもいいぞ」

と恫喝したのが真相ではないかと個人的には思います。
また葛野王の述べた兄弟継承の否定の真意は、「壬申の乱による天智→天武の兄弟相続の否定」ではなかったか、というのが私の現在の見解です。

上記『懐風藻』葛野王伝の述べる文武が後継者へと決定した経緯は、川瀬さんが注目された「定策禁中」の、まさにその現場を記録したものではないでしょうか。

私は持統→文武の譲位について「旧王朝から親王朝への禅譲」だとの見解を示しましたが、正確にはそれは「日本書紀の編者の見解」であるとの考えです。
持統、文武らに「禅譲」の認識があったかどうかは不明です。しかし彼らの祖が天智であり、持統→孫の文武への譲位が「女系による皇位継承」であることもまた事実です。
彼ら当事者が「女系の継承」が「男系の継承」と異なる概念を持ち合わせていたのか、今となっては知るすべがありません。
しかし大宝二年に文武朝は粟田真人を大使とする遣唐使を派遣しています。彼らは唐朝の皇帝に宛てた国書を持参したものと思われますが、当の唐朝は武則天による簒奪で周朝に代わっており、その周の武則天に謁見しています。
彼らは当然、唐が周と国名を変えた経緯や、女帝が君臨している現実を目の当たりにし、中国における国名や皇位継承のしきたりなどの知識を得て帰国したことになります。
日本書紀の編者らがこれらの知識を元に「男系」の皇位継承と「女系」による継承が異なるものである、という概念を持っていたことは疑うべくも無いのです。
(まだ続く)

(ラストですのでご安心を)
私の見解をまとめると次のようになります。

①天智は唐朝を後ろ盾として九州王朝から王権を奪取し、日本の統治者として君臨することを内外に宣言した。(近江朝の成立。これが禅譲かどうかは資料上確認できない)
②天武は近江朝を認めない九州王朝勢力を後ろ盾として壬申の乱を決行、近江朝を打倒した。(壬申の乱は郭務悰が帰国してから約1か月後に決断された。前年に帰還した薩夜麻との関連が注目される)
③近江朝による「日本の創建」を否定した天武は新たに日本の統治者となるべく九州王朝からの禅譲を画策することとなった。
④しかし天武による政権奪取は未達に終わり、持統が統治者となった。
⑤持統は天智の後継者として近江令を復活させた。(班賜諸司令一部廿二巻)
⑥持統はその際、名目上は「九州王朝の官僚」だった者たちを「天皇家の官僚」に遷任させたか、もしくは天皇家の官僚たちを中央官僚に遷任した。(八省百寮皆遷任焉)
⑦持統が近江朝を復活させた、その瞬間に、天武が禅譲を画策していた対手の「九州王朝」は、もはや「日本の主人を勝手に自称しているだけの偽王朝」にすぎないものとなる。(持統朝に従わない者たちは討伐の対象である)
⑧高市皇子の死。持統十一年、王公群臣らの協議により軽皇子が後継者に決定。同年に持統より譲位。
⑨文武五年、藤原不比等編纂の「新律令」が完成し施行、建元して大宝元年となる。
⑩粟田真人を大使とする遣唐使を派遣。周朝の武則天より天皇家が日本列島の代表政権を追認される。

何か忘れてましたね。
そうそう、那須国造碑の唐朝年号問題でした。
永昌元年は持統三年に当たりますが、持統はこの年の正月に諸国(の人々?)を前殿に集めて朝賀を行わせています。(天皇朝萬國于前殿)
那須国造の那須直葦提はこの4月に「評督」に任ぜられたのでした。
その直後といってもいい6月に持統朝は諸司に「令一部、二十二巻」を賜りました。(班賜諸司令一部廿二巻)
また閏8月に諸国の国司にいわゆる「庚寅年籍」の造籍を命じています。
これら「諸国」「諸司」への命令にはいったいどんな年号が使われていたのでしょうか。
その疑問に答えるのが那須国造碑に刻まれた「永昌元年」ではないかと思います。
近江朝は「唐の意向を受けて」九州王朝から王権を奪取した、というのが古田さんの主張で、私はそれら古田さんの認識を再認識したのでした。

持統朝は少なくとも持統三年(689年)の段階においてすでに九州王朝を捨て、近江朝に倣って唐朝を後ろ盾とした近畿天皇家の王権を主張していた。

これが私の那須国造碑の永昌年号問題から見る持統朝の姿です。


肥さん長々ごめんなさい。肥さんが反応しなくなったら私も発信を避けようと心がけておりましたが、以上の私の見解は肥さんにも有益ではないかと思い発信しました。
この是非はともかく、こういう考えの者もいる、とのことでお許しください。

長文の投稿ありがとうございます。
川瀬さんから再反論があるかもしれませんが,
私としては,もうそろそろ「潮時」かなと思っております。
お二人の書いている内容は,「夢ブログ」の読者の
ほとんどがついて行けないような高度な内容です。(私にももちろんです)
ただ,古田史学に関わる人たちには,「こういう議論があった」ということを
お知らせする意味があると思って,コメントのやり取りですし,掲載しました。

肥沼さんへ ツォータン(佐藤浩史)へ

 
 ツォータン(佐藤浩史)さんのご見解読ませていただきました。
 反論は一点だけ。
 
 ツォータン(佐藤浩史)さんのご見解は「天智天皇が日本創建した」との古田説に依拠し、それを示す根拠らしきものとしてツォータン(佐藤浩史)さん挙げられたのは、天智十年正月の「施行冠位法度之事。大赦天下」という記事だけ。
 もしこの古田説とその根拠とツォータンさんが見つけた史料理解が間違っていれば、この壮大な説は空中楼閣となります。
 
 天智10年の記事を全文書き出せば、
 東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。
 冠位法度を施行したのは、東宮である太皇弟です。
 ここは通説では天智の弟の大海人皇子と解釈されていますが、はたしてそうでしょうか。
 この太皇弟は天智三年の年初に新しい冠位を定めた箇所でも出てきますが、この時点ではどう考えても天智は天皇に即位しておらず、その弟を「天皇の弟」の意味である「太皇弟」とは呼べません。
 私はこの人物は、白村江の時の九州王朝の天皇(女性だと思います)の弟で、姉に代わってそれを補佐して統治していた人物だと思います。
 つまり天智10年の正月に新たな律令を施行させたのは九州王朝の天皇であり、実際にそれを行ったのはその弟の太皇弟だと考えます。
 ですから古田さんの「天智天皇が日本創建した」こそが空中楼閣であり、それに基づいたツォータン(佐藤浩史)説も空中楼閣だと考えます。

 持統が天智の娘だから権力を握れたと考えるのに都合の良い説が、古田説であったに過ぎないと思います。

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