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2020年9月29日 (火)

久米官衙遺跡(愛媛県)も「東偏」&「定型化」

愛媛県松山市の久米官衙遺跡は,

存続時期が「7世紀前葉~9世紀末葉から10世紀初めには消滅 」ということだから,

「東偏」&「定式化」の古い時期の例だと考える。

Photo_20200929043301

泉官衙遺跡と同様,「2つの王朝の〈栄枯盛衰〉を刻んでいる」

と言ってもいい。

私は,滝澤誠さんの「前期評衙政庁の構造とその原型」に掲載されている

「前期評衙政庁一覧」にある遺跡たちを調べてみたが,

7世紀前葉(〈方位の考古学〉により50年遡らせて6世紀前葉)の久米官衙遺跡と 【6世紀後葉の間違い】

7世紀末葉(〈方位の考古学〉により100年遡らせて6世紀末葉)の福原長者原遺跡の間に,

他の遺跡の時期は収まっているように見えた。

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御殿前遺跡(東京都)~7世紀中葉⇒6世紀中葉 【この遺跡が一番早いことになる】

泉官衙遺跡(福島県)~7世紀後半⇒6世紀後半

戸島遺跡(鳥取県)~7世紀中葉⇒6世紀末葉

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久米官衙遺跡より古い「東偏」&「定型化」の遺跡があるのかは, 【久米官衙遺跡⇒御殿前遺跡】

悉皆調査してみないとわからないが,今の私の力の及ばないところだ。

6世紀中葉といえば,中国では北魏から隋へ移っていく過渡期である。

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Photo_20200930045101

※ 御殿前遺跡(東京都) 7世紀中葉⇒6世紀中葉 「東偏」&「定式化」

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ウィキペディア「北魏」には,以下のようなことが「日本との関わり」の項に書かれていた。

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北魏と日本文化との間には数多くの関連があることが指摘されている。

  • 法隆寺の仏像など、日本に残存する諸仏像は多く北魏様式である。(伊東忠太の説)
  • 日本の源氏という氏族のおこりは、北魏の太武帝が同族に源氏を名乗らせたことに影響されたものではないか。(杉山正明の説)
  • 北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京聖武天皇嵯峨天皇天平神亀など、枚挙に暇がない(福永光司の説)[16]

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なお今回,正方位や西偏の5つの遺跡は加えていない。

上岩田遺跡(福岡県)7世紀後半・ほぼ正方位

有田遺跡(福岡県)7世紀後半・西偏

天良七堂遺跡(群馬県)7世紀後半・ほぼ正方位

久留倍遺跡(三重県)7世紀後半・西偏

嶋戸東遺跡(千葉県)7世紀後半・西偏

 

 

 

 

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コメント

肥沼さんへ

久米官衙遺跡の年代が違います。
定説は、7世紀前葉です。前葉というのは前半というのと同じ。だからこの50年前は6世紀後葉。
中葉というのは中頃です。それよりは後でしょう。

 つまり6世紀後葉の久米官衙遺跡より古いのが、6世紀中葉の御殿前遺跡(東京都)です。
 方位の考古学では、東偏の始まりを6世紀中頃と見ました。
 まさに九州王朝が南朝にしたがって官衙を東偏に造営したその時期に「定型化」が始まったことを示します。
 そしてこの時期は九州王朝が寺院を建立し始めたころ。
 寺院はまさに官衙の「定型化」様式と同じ。柵や塀や溝で区切った聖なる区画の中に堂舎が建てられている。
 「定型化」された官衙と、同じ形式の寺院。どちらも同じころの6世紀中頃。そしてこれらの建物はみな東偏なのだから、同じく東偏の都を持った南朝と北朝両者でしょうね。学んだのは。
 北魏の都洛陽は東偏です(東偏の漢魏洛陽城を拡大しただけだから)。

 なお掲載された西偏・正方位の遺構では一番古いのは6世紀後半ですから、この直後です。

>久米官衙遺跡より古い「東偏」&「定型化」の遺跡があるのかは,悉皆調査してみないとわからないが,今の私の力の及ばないところだ。

 なんで悉皆調査しないの。簡単な作業だ。ただ時間がかかるだけ。
 岩手から全部やってみればよい。
 一覧表を造りながら検証すればよいこと。これこそ研究です。方位の考古学の悉皆調査よりもっと楽です。

追伸
 肥沼さんがまたまたホームランを打った。
 もちろん野球のことではなく古代史のことだ。
 古代官衙遺跡の官衙様式の変遷があることに気が付き(長舎連結様式→塀で囲まれた中に官衙が並ぶ様式への定型化)、この画期が定説の土器編年による年代では8世紀初頭で同時に正方位に作られているということにまず注目。
 これは九州王朝から近畿王朝への変化の画期であり、評制⇒郡制への画期であることを念頭に、前者の様式を「評制官衙」、後者の様式の「郡制官衙」と命名した。
 ここに私が一つ批判を入れた。
 それは定説の土器編年でやると、九州・関東・東北南部は100年、中部・中国四国は50年年代がうしろにずらされているので正方位の「定式化」官衙には、近畿地方の8世紀初頭以外に、7世紀中頃や7世紀初頭という別の画期があるはずで、これは九州王朝時代なのだから、「評制官衙」「郡制官衙」の命名はできないと指摘。
 じゃあいつ「長舎連結様式→塀で囲まれた中に官衙が並ぶ様式への定型化」への変化が起きたのかという新たな問題がここから提出された。
 これに肥沼さんは、滝澤誠さんの「前期評衙政庁の構造とその原型」という論文に掲載されている遺跡の年代の再検討に取り組まれ、なんとこの変化の画期は6世紀中頃であるということを導き出した。
 この6世紀中頃は、従来から九州王朝が元号を採用した時期として認識されており、方位の考古学ではこの時期に九州王朝は、東偏の官衙を造営し始めたと認識されていた。
 ここに官衙が初めて「定式化」されたという新たな事実がある可能性が見えてきたのだ。
 この九州王朝における変化は、元号を採用したということで明確なように、九州王朝が天下を統治しているとの認識に立ったということを意味し、その王が「天子」を名乗ったことを意味する。
 そしてその時期の官衙が東偏で、塀や溝で区画された聖なる区画の中に官衙が展開する様式に定型化されたということは、この官衙が中国の官衙様式を学んだ可能性を示唆し、それは元号という中国の考え方の採用と共に、6世紀中頃に九州王朝は中国王朝に対抗する意識を持ったことを意味する。
 6世紀中頃とはどんな時期なのか。
 それは中国北朝に北魏王朝が出現し、長く中国の正統王朝であった南朝を飲み込もうとし始めた時期である(これが実現したのは6世紀末で北魏の後継王朝の一つである隋が達成した)。
 北魏王朝は中国人の認識による北てきと呼ばれる野蛮人出身の王朝である。
 これが天子を名乗り正統王朝であると呼号し中国を統一しようとするのであれば、同じ野蛮人である東夷に属する日本人の王朝・九州王朝が天子を名乗り天下を統治すると宣言しても構わないという構図が出来上がったわけだ。
 こうした国際構図に基づいて九州王朝は中国南朝に倣った国づくりを始めたのではないか。
 これを象徴するのが元号の採用であり、官衙様式の中国化・定式化だったのではないか。

 従来は7世紀初頭に、隋に対して九州王朝の王タリシホコが天子を名乗った事実をもって中国に対抗した始まりとしているが(九州王朝説では)、そうではなく、すでに北朝北魏が出現した6世紀中頃の時点でもって九州王朝は天子を名乗り天下を統治すると呼号し始めた可能性が見えてきたわけだ。

 こう考えてみると6世紀中頃の継体紀に朝鮮半島の記録によって「日本天皇および太子嵩ず」と記したことの意味がわかる。
 磐井の乱のときの九州王朝の王は自らを「天皇」と名乗り、国名を「日本」と名乗っていたのであり、ここから「天子」への道は今一歩である。

 今回肥沼さんが見つけた官衙様式の「長舎連結様式→塀で囲まれた中に官衙が並ぶ様式への定型化」が6世紀中頃であるという可能性は、こうした国際環境を立証する有力な事実となる。
 今のところは滝澤誠さんの「前期評衙政庁の構造とその原型」に掲載されている「前期評衙政庁一覧」にある遺跡の検討により御殿前遺跡(東京都)が最も古い6世紀中頃という事実だけだが、他の多くの官衙遺跡の年代の再検討によって、ぜひこの事実を確定してほしいものである。
 ぜひ全国官衙遺跡の悉皆調査でこれを完成させてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 久米官衙遺跡の年代が違います。
定説は、7世紀前葉です。前葉というのは前半というのと同じ。だからこの50年前は6世紀後葉。
中葉というのは中頃です。それよりは後でしょう。

ミスりました!

〉  つまり6世紀後葉の久米官衙遺跡より古いのが、6世紀中葉の御殿前遺跡(東京都)です。
 方位の考古学では、東偏の始まりを6世紀中頃と見ました。
 まさに九州王朝が南朝にしたがって官衙を東偏に造営したその時期に「定型化」が始まったことを示します。

そういうことになりますね!

〉 そしてこの時期は九州王朝が寺院を建立し始めたころ。
 寺院はまさに官衙の「定型化」様式と同じ。柵や塀や溝で区切った聖なる区画の中に堂舎が建てられている。
 「定型化」された官衙と、同じ形式の寺院。どちらも同じころの6世紀中頃。そしてこれらの建物はみな東偏なのだから、同じく東偏の都を持った南朝と北朝両者でしょうね。学んだのは。
 北魏の都洛陽は東偏です(東偏の漢魏洛陽城を拡大しただけだから)。

そうか!

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 追伸
 肥沼さんがまたまたホームランを打った。
 もちろん野球のことではなく古代史のことだ。

ベルト付近に来た球を「好球必打」したということだと思うのですが,
思わぬ飛距離で本人が一番驚いているところです。
悉皆調査は,まだ勇気が湧いてきませんが,
ここのところ母のことでいろいろ悩んできたので,
逆にそれがバネになったのかもしれません。

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