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2020年9月30日 (水)

川瀬さんによる今回の「ホームラン」の解説

コメントにしまっておくのはもったいないので,

川瀬さんのコメントを本文化させていただきます。

昨日の「久米官衙遺跡の「東偏」&「定式化」」についてのものです。

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(川瀬さん)

追伸
 肥沼さんがまたまたホームランを打った。
 もちろん野球のことではなく古代史のことだ。
 古代官衙遺跡の官衙様式の変遷があることに気が付き(長舎連結様式→塀で囲まれた中に官衙が並ぶ様式への定型化)、この画期が定説の土器編年による年代では8世紀初頭で同時に正方位に作られているということにまず注目。
 これは九州王朝から近畿王朝への変化の画期であり、評制⇒郡制への画期であることを念頭に、前者の様式を「評制官衙」、後者の様式の「郡制官衙」と命名した。
 ここに私が一つ批判を入れた。
 それは定説の土器編年でやると、九州・関東・東北南部は100年、中部・中国四国は50年年代がうしろにずらされているので正方位の「定式化」官衙には、近畿地方の8世紀初頭以外に、7世紀中頃や7世紀初頭という別の画期があるはずで、これは九州王朝時代なのだから、「評制官衙」「郡制官衙」の命名はできないと指摘。
 じゃあいつ「長舎連結様式→塀で囲まれた中に官衙が並ぶ様式への定型化」への変化が起きたのかという新たな問題がここから提出された。
 これに肥沼さんは、滝澤誠さんの「前期評衙政庁の構造とその原型」という論文に掲載されている遺跡の年代の再検討に取り組まれ、なんとこの変化の画期は6世紀中頃であるということを導き出した。
 この6世紀中頃は、従来から九州王朝が元号を採用した時期として認識されており、方位の考古学ではこの時期に九州王朝は、東偏の官衙を造営し始めたと認識されていた。
 ここに官衙が初めて「定式化」されたという新たな事実がある可能性が見えてきたのだ。
 この九州王朝における変化は、元号を採用したということで明確なように、九州王朝が天下を統治しているとの認識に立ったということを意味し、その王が「天子」を名乗ったことを意味する。
 そしてその時期の官衙が東偏で、塀や溝で区画された聖なる区画の中に官衙が展開する様式に定型化されたということは、この官衙が中国の官衙様式を学んだ可能性を示唆し、それは元号という中国の考え方の採用と共に、6世紀中頃に九州王朝は中国王朝に対抗する意識を持ったことを意味する。
 6世紀中頃とはどんな時期なのか。
 それは中国北朝に北魏王朝が出現し、長く中国の正統王朝であった南朝を飲み込もうとし始めた時期である(これが実現したのは6世紀末で北魏の後継王朝の一つである隋が達成した)。
 北魏王朝は中国人の認識による北てきと呼ばれる野蛮人出身の王朝である。
 これが天子を名乗り正統王朝であると呼号し中国を統一しようとするのであれば、同じ野蛮人である東夷に属する日本人の王朝・九州王朝が天子を名乗り天下を統治すると宣言しても構わないという構図が出来上がったわけだ。
 こうした国際構図に基づいて九州王朝は中国南朝に倣った国づくりを始めたのではないか。
 これを象徴するのが元号の採用であり、官衙様式の中国化・定式化だったのではないか。

 従来は7世紀初頭に、隋に対して九州王朝の王タリシホコが天子を名乗った事実をもって中国に対抗した始まりとしているが(九州王朝説では)、そうではなく、すでに北朝北魏が出現した6世紀中頃の時点でもって九州王朝は天子を名乗り天下を統治すると呼号し始めた可能性が見えてきたわけだ。

 こう考えてみると6世紀中頃の継体紀に朝鮮半島の記録によって「日本天皇および太子嵩ず」と記したことの意味がわかる。
 磐井の乱のときの九州王朝の王は自らを「天皇」と名乗り、国名を「日本」と名乗っていたのであり、ここから「天子」への道は今一歩である。

 今回肥沼さんが見つけた官衙様式の「長舎連結様式→塀で囲まれた中に官衙が並ぶ様式への定型化」が6世紀中頃であるという可能性は、こうした国際環境を立証する有力な事実となる。
 今のところは滝澤誠さんの「前期評衙政庁の構造とその原型」に掲載されている「前期評衙政庁一覧」にある遺跡の検討により御殿前遺跡(東京都)が最も古い6世紀中頃という事実だけだが、他の多くの官衙遺跡の年代の再検討によって、ぜひこの事実を確定してほしいものである。
 ぜひ全国官衙遺跡の悉皆調査でこれを完成させてください。

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(肥沼)ベルト付近に来た球を「好球必打」したということだと思うのですが,
思わぬ飛距離で本人が一番驚いているところです。
悉皆調査は,まだ勇気が湧いてきませんが,
ここのところ母のことでいろいろ悩んできたので,
逆にそれがバネになったのかもしれません。

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【九州王朝によるもの】

(1)東偏・・・5世紀中葉
(2)定型化・・・6世紀中葉
(3)正方位・・・6世紀末から7世紀初め

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コメント

肥沼さんへ

 重大な勘違いがありました。
 「方位の考古学では6世紀中頃に官衙を東偏に変更した」ことがわかっているとしましたが、正しくは「5世紀中頃」でした。
 5世紀中頃というのは、倭の五王の時代。
 「讃」「珍」「済」「興」「武」。しきりに朝鮮半島南部、とりわけ百済の領有権を南朝に承認させようとしていた時代。最後の「武」が478年に南宋に希望していた百済支配権(使持節都督百済・・安東大将軍)を授与されず、南宋を継いだ南斉も479年に南斉の高帝から鎮東大将軍に任じられ、希望していた百済支配権を授与されずに、以後南朝への遣使を断っている。
 この時期に倭国は南朝に倣った国づくりを開始していたということを意味する。
 そしてこれは倭王武が、自ら「開府儀同三司」を自称し、皇帝の下で皇帝に代わって統治権を行使する資格を名乗っていたこととも見事に符合する。
 そしてそれから約一世紀後、6世紀中頃には倭国は「日本」と国号を変え、自らの元号を定めて、事実上その王は天子を自称するところまで進んだわけだ。
 官衙の定式化はまさにこの時期に相当する可能性がある。

 悉皆調査ですが、何も奈良文化財研究所のサイトを再度見なくてもよいわけです。
 すでに方位の考古学の作業で一度全遺跡を再精査しているのですから、肥沼さんの「多元的国分寺研究」のブログの過去記事をたどって、そこにおける悉皆調査を再整理してみればよいだけの話です。
 これをすると、
 1:九州王朝における官衙様式の定型化の始まりの時期の確定。
 2:この官衙様式の定型化に地域差があることを確定できるかも。

 わたしは官衙様式の定型化は「評制施行」と関連があると考えます。
 全国に評制を施行することは公地公民化を唱えた大化2年の詔(645年)ですが、これは公地公民制=評制の全国化宣言であって、それ以前には九州王朝の直轄地域で評制が施行されたのではないかと考えています。
 そして九州王朝の直轄地域とは、九州+中国四国西部と関東ではないか。
 つまり6世紀中頃の官衙の定式化はこの地域だけで、近畿王朝の領域である畿内ではまだ行われなかったのではないか。
 こう考えているのです。
 肥沼さんが滝沢論文で検討した評制前期官衙には近畿地方のものはないですね。
 これは九州王朝と近畿王朝の関係を示す。

 悉皆調査はここまで明らかにしてしまう可能性を有します。

 頑張って取り組んでください。
 数か月かければできると思います。一日1時間程度で。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

整理すると,以下のような進行でいいですかね。

(1)東偏・・・5世紀中葉
(2)定型化・・・6世紀中葉
(3)正方位・・・6世紀末~7世紀初め

肥沼さんへ

 整理した結果が間違っている。ただしくは
(1)東偏・・・5世紀中葉
(2)定型化・・・6世紀中葉
(3)正方位・・・6世紀末から7世紀初め

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

今直していたところでした。

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