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2020年9月22日 (火)

「建物の様式」から見ても訂正すべき泉官衙遺跡の年代比定

評制官衙は大宝律令(701年)を境に定型化されていったとすると,

泉官衙遺跡の年代比定も奇妙なことになる。

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Ⅰ期・・・7世紀後半~8世紀初頭

Ⅱ期・・・8世紀初頭~後半

Ⅲ期・・・8世紀後半~9世紀後半

というのが藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)

による年代比定なのだが,これだと「Ⅰ期からⅡ期という定型化の時期に,

まだまだ熱心に評制官衙を作り続けていた」という矛盾が出てくるからである。

そして,「中央では定型化が進んだが,地方では定型化が遅れたのだ」という

偏見に満ちた考えに陥らざるを得ないことになる。

政府の命令というのは,「50年も100年も経ってやっと地方に伝わる」などというものではない。

全国は古代日本ハイウェーともいうべき官道でつながれているのであり,

命令はたちどころ伝わるのでなければ意味がないのだ。

それゆえ,泉官衙遺跡の年代はⅢ期の定型化の時期を大宝律令(ONライン)とすべきで,

8世紀後半マイナス8世紀初頭とすると,50年~100年早めてしかるべきということになり,

〈方位の考古学〉が前に示した「100年遡らせる」という結論とほぼ同じことになる。

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コメント

肥沼さんへ

 建物群の周りを塀で囲んだ様式を「郡制官衙」。長屋がつながっていて塀を兼ねているような様式を「評制官衙」と呼ぶのならば、建物の様式からも泉官衙の年代観は変更すべしとの主張はその通りだと思います。

 ただ果たして上の建物様式の名前付けは正しいのでしょうか。
 というのは、九州福岡の長者原遺跡は、東偏の官衙ですが、すでに塀をめぐらした中に建物群がならぶ、言わば「郡制官衙」の様式になっています。
 通説ではこの遺跡は土器編年なら8世紀初頭になっているので問題にはならないのでしょうが、福岡県ですから年代は100年は遡って遅くとも7世紀初頭。そして東偏ですからもっと前の6世紀後半まで遡ると思うのです。
 「評制官衙」「郡制官衙」という名称は、塀で囲まれた正方位の官衙が8世紀初頭以後に作られているという従来の土器編年に基づいた遺跡の年代観での認識に基づき、評制⇒郡制への移行がまさしく8世紀初頭だという木簡に基づく郡評論争を念頭に命名していると思います。
 したがって九州王朝時代の評制時代にすでに、「郡制官衙」と命名された、塀と建物が一体ではなく、塀で囲まれた一区画内に建物群が規則的に配置される形式が生まれていたと思います。それもまだ九州王朝が東偏を採用している時代に。

 
 泉官衙遺跡でいえばⅡ期bがそれにあたるのではないでしょうか。
 Ⅱ期aでは正殿の北には塀と一体となった後殿が有るのでこの位置には入り口はなかったのですが、Ⅱ期bではここに入り口ができたということは、正殿以外の建物はみな、塀から切り離された独立した建物に代っていた可能性があります。
 これが証拠として、Ⅱ期aでは塀がなくて長殿があった場所がⅡ期bでは塀になっています。
 きっと塀から独立した脇殿が複数正殿の南側にあったのでしょうが、発掘では見つからなかったと考えます。

 つまり近畿王朝は、6世紀後半に九州王朝で始まった「郡制官衙」様式と、それを7世紀初頭に正方位に変更した様式を、8世紀初頭に踏襲したというのが正しい理解になると思います。
 だから「評制官衙」様式「郡制官衙様式」という命名法そのものを変更する必要があると思いますね。


追伸:記述に間違いが。
>評制官衙は大宝律令(701年)を境に定型化されていったとすると,
 これは「郡制」の間違いですよね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 つまり近畿王朝は、6世紀後半に九州王朝で始まった「郡制官衙」様式と、それを7世紀初頭に正方位に変更した様式を、8世紀初頭に踏襲したというのが正しい理解になると思います。
 だから「評制官衙」様式「郡制官衙様式」という命名法そのものを変更する必要があると思いますね。

私もかっこ付きで「評制官衙」呼んでいるのは,定型化以前の官衙にもいくつかの種類があるので,
旧型という意味で「評制官衙」と仮称しています。
何か素晴らしい命名法があったら,ぜひ教えて下さい。

肥沼さんへ
 「評制官衙」「郡制官衙」というのは肥沼さんの命名だったのですね。
 学者たちが「前身官衙」と呼んでいるのが、長舎を連結したり、長舎と塀を連結して、聖なる空間を作り上げた形式です。これが肥沼さんが「評制官衙」と呼んだもの。
 これに対して塀や溝で聖なる空間を作り上げ、その中に政庁のそれぞれの役割を持った独立した建物が配置された官衙を「定型化官衙」と学者たちは呼んでいるようです。
 そしてこの二つは、制度が評制から郡制に変わったからではなく、すでに評制の時代に起きていたことがあきらかですから、「評制官衙」「郡制官衙」では適当な呼び名ではないですね。
 ではどうするか。
 学者の命名に従っておきましょう。変に奇をてらった名をつけてもし意味が通らない。
1:「初期官衙ー長舎連結型」・・・長舎を連結して聖なる空間をつくる形が最初期。その後、長舎と方形の舎を組み合わせ、それらを塀で連結する形に発展。しだいに塀から建物が独立する傾向に。
 
2:「定型官衙ー建物独立型」・・・塀や溝で聖なる空間を区画し、その中に建物を規則的に配置した形。大きな正殿を中央に置き、その両脇やその南側の両側に、脇殿を配置する形が多い。
 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ではどうするか。
 学者の命名に従っておきましょう。変に奇をてらった名をつけてもし意味が通らない。
1:「初期官衙ー長舎連結型」・・・長舎を連結して聖なる空間をつくる形が最初期。その後、長舎と方形の舎を組み合わせ、それらを塀で連結する形に発展。しだいに塀から建物が独立する傾向に。
 
2:「定型官衙ー建物独立型」・・・塀や溝で聖なる空間を区画し、その中に建物を規則的に配置した形。大きな正殿を中央に置き、その両脇やその南側の両側に、脇殿を配置する形が多い。

画期を意識してもらう意味で「評制」と「郡制」と大別してみました。
賛成が得られませんでしたが・・・。

>画期を意識してもらう意味で「評制」と「郡制」と大別してみました。

 事実として評制時代の官衙が様式として「長舎連結型」や「長舎+塀連結型」で、これが郡制時代になると「塀や溝で区画された区域内に独立した建物をコの字型やロの字型配した型」に変化しているのであれば、「評制官衙」「郡制官衙」と名付けることができます。
 しかし事実としてすでに評制の時代に「長舎連結型」や「長舎+塀連結型」⇒「塀や溝で区画された区域内に独立した建物をコの字型やロの字型配した型」に変化しているのですから、「評制官衙」「郡制官衙」の名称は承認できないということです。

 ただしこの事実認識の基礎には「方位の考古学」によって、地域によっては年代が50年とか100年ずれるという認識を導入した場合に限ります。
 通説の年代観による遺跡の年代観からは、8世紀初頭を画期としてこの形式の変化が見られ、8世紀初頭こそ評制⇒郡制移行の画期ですから、肥沼さんが「評制官衙」「郡制官衙」と命名してもおかしくはないのです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

正しい歴史認識が広がることを願います。

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