土器編年は〈相対編年〉なので,当然年代のズレが生じる(工事中)
「かつて〈東偏〉や〈正方位〉を命じた王朝があった」ということは分かった。
しかし,藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)を読んでみたら,
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Ⅰ期官衙(7世紀後半~8世紀初頭)
Ⅱ期官衙(8世紀初頭~後半)
Ⅲ期官衙(8世紀後半~9世紀後半)
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となっていて,近畿王朝が建てた郡役所というように読めるが,いかがなものか,と。
確かにこれまでの土器編年では,「編年のズレ」という概念がなかったので,
後代にズレたまま解釈していたのだ。
九州王朝は東北地方まで軍用道路を敷き,〈東偏〉や〈正方位〉の役所も立てて
全国支配をしている王朝だということが,近年わかってきた。
ところで,「建物を〈東偏〉や〈正方位〉にせよ!」命令は,どれくらいの時間で伝わったのだろうか?
これが50年も100年もかかって地方に伝わったのでは,意味がないのである。(王朝がつぶれてしまう)
あっという間に,そうさせてこそ「国家の意思」というものであろう。
したがって,私たちは大和からの距離に従って土器編年はズレていると考え,
次のような「土器編年の修正」を提案することとなった。
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九州←←中国・四国←←近畿(大和)→→中部→→関東・東北
100年 50年 0 50年 100年・北部の東北だと150年
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そうすると,東北地方の福島県にある泉官衙遺跡は,100年のズレを生じていることになるから,
100年土器編年を遡らせて考えることが正しくなる。
つまり,以下のように先ほどの年代比定は変更されることとなるのである。
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Ⅰ期官衙(6世紀後半~7世紀初頭)・・・九州王朝の勃興期
Ⅱ期官衙(7世紀初頭~後半)・・・九州王朝の最盛期〜滅亡
Ⅲ期官衙(7世紀後半~8世紀後半)・・・近畿王朝の勃興期~律令制の衰退
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これが前回「2つの王朝の栄枯盛衰が,1つの遺跡に刻まれている」と書いた理由だ。
そして,前回の「かつて日本列島に〈東偏〉や〈正方位〉を命じた王朝があった」と
今回の「土器編年は〈相対編年〉なので,必ずズレが生じる」が合体されたものが,
〈方位の考古学〉ということになる。
2つのことをいっしょに書くと混乱することがあるので,別の文章にしてみた。
考古学は「土器編年のズレ」が修正されれば,信頼できるものである。
これまでの積み上げを,修正していくべきだ。
また,国分寺については,741年の聖武詔の影響が大きすぎて,大変編年をゆがめているので,
軒丸瓦の様式などの方面からの研究が望まれる。
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